2章: 第1話 「無名の火」
港町《クーザ港》。
かつては交易の十字路と呼ばれた街も、いまは帝国の南の玄関として、軍の旗と規律の下に整えられていた。
白く塗られた倉庫の壁、磨かれすぎた石畳、並ぶ貨物の列。海風には塩気だけでなく、鉄と油の匂いも混じっている。
門前の鉄製の扉には、港湾庁の紋章が黒く刻まれていた。
その前でカッツは片手を広げ、怒鳴らず、しかし諦めない声で話し続けていた。
「屋台の登録?いや、それはしてない。でも市場で競りを荒らすつもりもないし、誰にも迷惑はかけない。ただ、腹が空いた誰かの腹を、少し温めたいだけなんだ」
職員は無表情で脇の札を指さす。
『非登録調理器具の使用・販売は、違法。違反者は港内立入禁止。』
「……ここは港です。人の腹を温めるより、物資を冷静に捌く場所です」
その一言が、海風よりも冷たく胸に刺さった。
カッツは短く息を吐き、目を伏せる。
少し離れた波止場の縁で、チトは何も言わず海を見ていた。
沖合に停泊する軍艦は、朝日を浴びて鈍く光る。機能美に満ちたその影には、温かさの欠片もない。
彼女の視線は波の向こうではなく、その境界線の“閉ざされ感”を見ていた。
港湾庁を離れた帰り道。
陽はもう傾きかけ、倉庫の壁の影が長く伸びていた。
舗装の行き届いた大通りから外れた瞬間、湿った魚の匂いと古い木材の香りが混ざる裏通りに入る。足元の石畳には、海水がまだらに染みている。
その時、不意に低い声が背後から掛かった。
「お、旅人さんよ。さっきは難儀だったな。見てたぜ」
振り返ると、ひょろりと背の高い男が立っていた。
片手に小さな油紙袋、顎には無精髭。だが、その目だけは妙に観察力を帯びて光っている。
「登録でつまづいたんだろう?あんなの形だけだよ」
男は港の方を一瞥し、口の端を上げる。
「おたくら、飯屋なんだろ?……いい火を持ってそうな目ぇしてやがる」
カッツが眉を寄せる。「? ああ、そうだが……」
男は顎をしゃくり、薄暗い路地を指した。
「俺の仲間が夜市の一角を持ってる。灯りも弱く、役人の目も届かない。火を灯して飯を売りたいなら……“裏”にも席はあるぜ、旦那」
海風の音が一瞬遠のく。
その誘いは、甘く、同時にどこか潮に濡れた刃のような冷たさもあった。
「……悪い。ちょっと待っててくれ。この目で確かめてくる」
カッツは一歩、路地へ踏み出す。
「好きにすれば」
チトは短く返し、残った。
だが背を向けた彼の足音は、波音と混じり、耳の奥にしつこく残った。
彼女は動かなかった。
その理由は、警戒か、信頼か、自分でもまだ判断がつかなかった。
*
夜。
港町の灯りは潮の匂いと共に揺れ、外れの路地はほとんど光が届かない。
濡れた板壁と石畳の隙間からは、昼間の熱がすっかり抜け、海霧が染み込むように漂っていた。
カッツは戻ってきた。肩に軽く潮風をまとい、手には何も持たず、ただ屋台の前に立った。
その目には、少しだけ考え込んだ色がある。
「……なあ、チト」
声は小さく、それでも港のざわめきに紛れず届いた。
「俺たちが“火”だって言ってたのは、誰に向けてだったんだっけな」
それは問いというより、独り言に近かった。
昼間の港湾庁で浴びた冷たい視線、裏通りの男の打算的な笑顔。
そのどれもが、カッツの中の“火”の意味を揺らしていた。
チトは答えなかった。
返す言葉を探していないわけじゃない。ただ、この港の潮騒のように、簡単に形になる声を持たなかっただけだ。
彼女は海を見たまま、ゆっくり瞬きをする。
その横顔は、焚き火ではなく街灯の淡い光に照らされ、硬さと静けさを同時に湛えていた。
遠くで、波が岸壁に砕ける音が響く。
その音が消えるまで、ふたりの間に言葉はなかった。




