1章: 第13話「名前を持つ」
草が焼けた匂いと、乾いた血の鉄の香りが、まだ夜気の底に残っていた。
風が吹くたび、焦げた穂先がかすかに擦れ合い、ザラついた音を立てる。耳の奥には、さっきまでの怒号や刃のぶつかる音が、まだ薄く残響していた。
ふたりは荷車の傍らに腰を下ろしていた。
焚き火はすでに灰色の塊となり、その中で小さな赤い点がときおり瞬く。
冷たい風が吹き抜けると、その赤はわずかに息を吹き返すが、すぐまた沈黙へと戻った。
カッツは頬に浅い切り傷を負い、肩には布を巻いて簡単な止血をしていた。
包帯の下からはじわりと熱が広がっているが、それ以上に、胸の奥がざわついて落ち着かない。視線は焚き火の灰へと落ち、言葉が浮かんでは消えていく。
その隣でチトは、いつものようにクールな顔つきでマチェットの刃を布で拭っていた。
……少なくとも、そう見えた。だが、その手元はわずかに震えており、刃先を拭く布が、時折ふっと空を切る。
二人のあいだには、戦いの直後だけが持つ沈黙が漂っていた。
まだ汗の塩気が肌に残り、呼吸は浅い。
一言発せば、それがきっかけで張り詰めた何かが崩れそうで、互いに口を開けなかった。
ようやく、カッツが静かに息を吐く。
「……大変だったな」
その一言に、チトの指先の震えがぴたりと止まった。
カッツの声は、焚き火の残り火に溶けていくように低かった。
その響きには、さっきまでの戦いで全身に染みついた緊張と、胸の奥に沈殿する安堵が入り混じっている。
「なんつうか、お前って……つえぇんだな」
チトは、返事をしない。
ただ、布の動きだけが淡々と続く。
だが、わずかに伏せられた瞳の奥には、先ほどまでの光景がまだこびりついていた。鋼の冷たさ、刃が骨を断つ感触、そして相手の吐息が途切れる瞬間の重さ――。
「俺なんて、啖呵切って怪我してさ。……あいつら、逃げてくれたから良かったけどな」
カッツの笑い声は短く、乾いていた。
その口元には、わずかながら血のにじんだひび割れがあり、見る者にその無理を物語っている。
「チトを守りたかった。それが正しかったのか、今でもわかんねぇけど……それでお前の命が守れたなら、後悔はしてねぇ」
その言葉に、チトの指先が止まる。
しばし無言のまま、彼女は刃を見つめた。刃先に映るのは、戦場の残滓ではなく――焚き火に照らされたカッツの横顔だった。
「……ばかじゃん」
ようやく口を開いた声は、風に溶けるほど小さかった。
だがその響きには、責める色よりも、何か別の感情――押し殺した苛立ちと、深い戸惑いが混じっていた。
「なんで、そんな顔して言うの。信念ってのは、守るためにあるんでしょ。あの時、あたしなんかの為に捨ててまですることだったの?」
カッツは肩をすくめ、微かに笑った。
その笑みは、痛々しいほど柔らかかった。
まるで、彼女の苛立ちごと受け止めようとするかのように。
チトは言葉を探すように、腰に下げたマチェットの柄を親指でゆっくりとなぞった。
革の感触が、まだ高ぶった心を少しだけ現実に引き戻してくれる。
その動作は癖のようなものだった。過去を思い出すときも、戦いの前も後も、必ずこうしていた。
「……あたしさ、」
低い声が、焚き火の残り火の上を滑っていく。
「本当の名前はチト=ヒナタ。色々あって、昔はクロエを名乗ってた」
彼女は、暗闇の中で遠くを見ているような目をしていた。
「自分のことなんてどうでも良くてさ。汚いこともいっぱいやった。……でも、だんだん耐えられなくなった。嫌になって、逃げた」
マチェットの柄から手を離し、灰を軽く指先ですくう。その灰が、指の間からさらさらと落ちていった。
「あんたの手を汚させたこと、すごく後悔してる。……本当に、ごめん」
カッツは小さく息を吐き、笑みを浮かべた。
「なら、それでいい。料理は二人三脚だって言ったろ。旅も同じだ。お前が隣にいるなら、どんな過去でも受け入れる。……お前も俺を助けてくれてるだろ? それで十分だ」
チトは一瞬だけ視線を落とし、すぐにカッツを見た。
「……ありがとう、カッツ」
その声は、風の中でかすかに震えていたが、確かな温度を帯びていた。
夜更けの草原を、透き通った風が吹き抜けていく。
焦げた匂いは薄れ、そこに残ったのは、ほんの少し甘い草の香りだけだった。




