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1章: 第12話「香る約束」


風はただ強いだけではなかった。湿った重みを含み、時折、生暖かく肌にまとわりつく。草の葉先が互いに擦れ合う音は、無数の囁きのように耳を満たし、遠くで鳴る木々の軋みは、誰かの悲鳴を引き延ばしたように響く。空気には焦げたスパイスの香りと湿った土の匂いが交じり、それが逆に、この静けさを異様なほど際立たせていた。焚き火は小さく揺れ、赤を夜空へ伸ばしては消える。その輪郭だけが、風の中で揺れる影を包み込んでいた。


カッツは刃物を握った手を下ろし、ゆっくりとチトの背を見た。

彼女は焚き火の影の中に立っている。抜き身のマチェットを手からぶら下げ、黒髪が風で頬をかすめる。奥に覗く瞳は光を失い、かつて短剣を研いでいた夜と同じ、いや、それ以上に深く遠い過去へ沈んでいるようだった。


「……なあ副店長、ひとつだけ、教えてくれ」

「……なに」

「“お前”は、本当に逃げないのか?」


問いに、チトは一度目を閉じ、また開いた。そこに揺らぎはなかった。

「あたしは、もう奪ったり、奪われたりするような人間じゃない」

「……そうか」


カッツは刃物の柄を指でなぞる。

これは料理のための刃だ。肉の筋を断ち、香味野菜を刻み、笑顔を生むための道具。だが今、その信条を壊す瞬間が来ていた。理屈では「使うべきじゃない」とわかっている。それでも──

「なぁ、チト」

「……」

「俺、料理人だからさ。そもそも戦えねぇし、誰かを傷つけるためなんかに刃物を使うのはイヤなんだよ。だっておかしいだろ?コイツはさ、メシを作るためのものなんだからさ」


チトは黙って構えを取る。

「だけど、“お前”のためなら、そんなルールなんて捨てる覚悟くらい、持ってる」


チトの動きが一瞬止まった。ほんのわずか、瞳の奥が揺れた。焚き火の赤がその中で瞬き、すぐに消えた。

「……ばか。そういうの、もっと早く言えっての……」


「クロエ=カナリア──報奨金三十金貨の女!」

「生け捕りでも、死体でもいい!」

「料理人も抵抗するなら殺せ!」


傭兵たちの叫びが風を裂く。鉄の具足が草を踏みしめ、剣が抜かれる音が耳を刺す。焚き火の明かりが刃に反射し、一瞬だけ冷たく光った。風が止まり、二人の呼吸音だけが残る。


──次の瞬間。

マチェットが火のように抜き放たれた。風の音を裂き、肉を断つ気配を伴って。

カッツは一歩前に出る。足裏に伝わる草のしなりが鮮明で、影がふたり並んで炎に縁取られる。

「お前は、ウチの副店長だ。“お前だけの手”を汚すのが当たり前だと思うなよ。料理は、二人三脚なんだ」


チトの瞳がまた少し揺れた。

焚き火の赤がその中で、ほんの短い間、灯っていた。


――夜の草原に、焼けた香辛料と鉄の匂いが混じっていった。


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