1章: 第11話 「クロエ」
風が、低く唸るように吹き抜けた。
屋台の火が一瞬揺れ、鉄板の上で脂が弾ける音が途切れる。香ばしい肉の匂いは、風に攫われ、夜の闇に吸い込まれていった。
焚き火の赤も、まるで警戒するように小さく揺れる。
声も匂いも――すべてが、張り詰めた空気に押し潰されていく。
「――見つけたぞ、“黒衣の女”」
その声は、呪詛にも似た重さを帯びていた。
鋭く、それでいて妙に静かに、空間の温度を数度下げる。
宿の敷地の入り口に立つ数人の影。剣を腰に下げ、厚手のマントを羽織った傭兵風の男たちが、真っ直ぐこちらを睨んでいる。
カッツは反射的にチトの横顔を見た。
だがその瞳は、炎ではなく、凍てつく氷を宿していた。
「おーおー、大勢でいらっしゃいませ。……んで、副店長、こいつらは友達か?」
「全く」
チトは淡々と答える。その声には、薄い棘が潜んでいた。
「けど、“あたしの顔を記憶してるやつ”は、大体ろくでもない」
そう言いながら、腰に吊るしたマチェットに手をかける。
その動作は無駄がなく、呼吸さえも音を殺す。
深く息を吸い込み――カシリ、と鞘が解かれた。
「指名手配の逃亡者……“クロエ=カナリア”。報奨金三十金貨。受け取りに来た」
一歩、二歩と間合いを詰めながら、先頭の男が名を告げる。
その響きは、場の空気を決定的に変えた。
「“クロエ”……?」
カッツの脳裏に、その名の記憶はない。
けれど隣に立つチトの瞳が、わずかに揺れたのを見た。
ほんの一瞬、氷のように冷たい表情――あれは、過去に触れた時の顔だ。
「おい、チト……逃げるぞ。今すぐ」
「逃げない」
その声は、刃物のように真っ直ぐだった。
背筋を伸ばし、目を細め、男たちを凍らせる視線を投げる。
「ここで逃げたら、あんたをこれから先の面倒事に巻き込む。……だから」
言いかけたその瞬間――
「だったら、巻き込まれに行く」
カッツは遮った。
荷箱の奥から、いつも料理に使っている刃――包丁よりも長く、鍔のない細身の刃物を引き抜く。
それは肉を切るための道具であり、客の前では絶対に“武器”にしないと決めていた。
だが今、守るべき相棒が目の前に立っている。理由はそれで十分だった。
「俺の店に勝手に踏み込んでくんな。……出てけ。今すぐ」
背中合わせになるふたり。
チトの視線は遠い記憶へ潜り込み、その奥から何かを引きずり上げるように冷たく研ぎ澄まされていた。
そこには、懐かしさと痛み、そして――“今の自分”を守る矛盾した決意が同居している。
男たちの剣が鞘を離れ、金属音が冷たく夜に響く。
地面が踏みしめられ、砂がざりと鳴った。
焚き火の影が揺れ、彼らの輪郭をさらに大きく、恐ろしく映し出す。
周囲は一瞬、風も止んだように静まり返った。
耳鳴りのような沈黙の中、空気が凝縮され、次の瞬間には爆ぜる予感があった。
――今、この場で何かが始まる。
カッツは刃物を構え直し、息を吐く。
チトは横顔だけで合図を送った。
それは、ただ“互いを信じる”という無言のやりとりだった。
その夜――屋台には火が灯らなかった。




