8章: 第1話『魚と煙と、命の入港』
船が出たのは、まだ空に薄明かりが残っていた頃だった。
甲板の端で帆を見上げるチトの隣で、カッツはひとつだけ深く息を吐いた。
「……本当に出たな」
「うん」
東から吹く風が、まだ乾ききらない塩気と、遠くの都市の煤けた匂いを運んできていた。
エル=ミーラ。名前と現実が食い違った、約束の地。
そこで出会い、そして別れたギルドの仲間たちが、港の見えない先にまだ手を振っている気がした。
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船はメディテン海と呼ばれる海の北西をなぞるように進み、四日目の朝。
最初に見えたのは、断崖に貼りついたような白い街だった。
階段状に連なる白壁の家々。
斜面に沿ってひしめきあう石造りの建物、そのあいだから、煙とカモメの鳴き声が立ち上っている。
「ラグーザ──このあたりじゃ“ティレニアの玄関”って呼ばれてるらしいぜ」
「……活気、ありそう」
チトが眩しそうに目を細めた。
その目が向いていた先で、港に集まる人々がすでに騒ぎ始めていた。
「入れ、入れ! 今日は青魚が祭りだぞ!」
「香辛料屋は昼前までだ、買うなら今だ、遅れたら赤胡椒は売り切れだ!」
甲板にいた他の旅人たちも次々と荷物を手に取り始める。
火を使う調理器具の包みや、塩を詰めた樽、発酵壺らしき陶器……
その中に、まぎれるように、カッツたちの“グリル・ノマド号”の資材箱も積まれていた。
「支援用の肩書きはここでおしまいか」
「うん。ギルド名義はエル=ミーラの波止場に置いてきたよ」
カッツは黙って頷いたあと、目の前に現れた街の色を見つめた。
その目の奥で、何かが焼かれ始めていた。
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港に降り立った瞬間、チトは目を丸くした。
音が、大きい。
女たちが軒で布をはためかせ、魚屋が声を張り、荷を引く少年がラバに怒鳴っていた。
太鼓のように響く人の声と、濡れた石畳の上を走る水音。
まるで街そのものが生きているかのようだった。
「……眩しいくらいだな」
カッツが小声で言った。
「……音のない街を歩いた後だと、余計にね」
チトはそう言って、荷を引きながら港の管理棟へと足を向ける。
入港処理は、やはり一筋縄ではいかなかった。
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「“移動調理火器”? 爆薬じゃないんだろうな?」
係官の目が鋭く光る。
「火床は炭火式。爆発性はない。書類にもあるはず」
チトが書類束から一枚を滑らせて渡す。
係官が目を通している間、カッツは横からボソリと付け加える。
「いっそ実演してみせてもいいぜ。このあたりならそうだな…魚さえあればな」
男は鼻を鳴らしたあと、面倒くさそうに書類を閉じる。
「好きにしろ。だがこの街では、“名前”に気をつけろ。“ギルド”も“支援”も、この辺じゃ重てえ言葉だ」
「……“名を持たない”ってのも、案外居心地は悪くねえよ」
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処理を終えて港の市場に足を踏み入れると、潮と獣と香辛料が混じった、混沌とした匂いが襲ってきた。
スマック、干しミント、塩レモン、炭火、そして……焼かれた魚。
「……魚、買ってく?」
「そうだな。ほかにも目ぼしいものがありそうだしな」
チトが歩きかけた、そのとき。
市場の向こうから、何かがぶつかる音と、短い怒声が聞こえた。
「おいっ、待てッ!」
その声に、チトの足が止まる。
人混みの隙間から、少年の姿が見えた。赤いシャツ。素足。
干し魚の入った小袋を抱えたまま、必死に逃げている。
「おいおい……早速やる気か」
カッツの呆れ交じりの呟きと同時に、チトは走り出していた。
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「待って!」
チトの声が、市場の喧騒にかき消えそうになりながらも響いた。
少年が振り返る。
年は十もいかない。赤いシャツの胸には穴が空いていて、砂の粒が貼りついている。目だけが、獣のように鋭かった。
追いかけるように、魚屋の男が怒鳴る。
「そのガキ、またか! 三度目だぞ!」
チトが立ちはだかると、少年は立ち止まり、歯を食いしばった。
手に抱えた小さな袋。そこには、干し魚が三匹。
カッツが後ろから追いついてきて、眉をひそめる。
「おい、あんま目立つとこで正義ヅラすんなよ」
「……この子、お腹が減ってるだけ」
チトはそう言って、自分の荷から干し肉を一枚取り出した。
それをそっと、少年の手の上に乗せる。
「お代はいらない。──でも、次に来るときは、ちゃんとお金を使って。いい?」
少年は何も言わなかった。けれど、逃げなかった。
干し肉をじっと見つめたあと、そっとそれを服の裾に包み込む。
盗んだ干し魚はチトに差し出した。
魚屋が唸るように言った。
「変な連中だな……で、どこの出だ?」
チトは数秒だけ言葉に詰まったあと、小さく言った。
「……“カッツの台所”。移動屋台。火の灯らない町から、火を届けに来た」
男は目を細めて、それからふっと吹き出した。
「ん〜なるほど、火の屋台か。覚えとくよ。干し魚より面白そうだ」
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その夜。
ふたりは港から少し離れた倉庫裏の空き地にテントを張った。
風が強く、火を起こすのに少し苦労したが、カッツは黙々と炭を組み、チトは手際よく拾い物の薪を削った。
火が安定し始めると、鉄板の上に、昼に買った小ぶりの鯖が載せられた。
塩と乾燥レモンの皮をすりおろし、スマックを指先でふりかける。
「今日の魚、市場の隅でこっそり売ってたやつ。脂がのってる」
チトは鉄板の傍らにしゃがみこみ、火の具合を確かめる。
「……街の音、すごかったね」
カッツは手にした干し枝で薪をいじりながら答える。
「ああ。ああいう音を、“生きてる”って言うんだろうな」
魚がパチパチと音を立てて焼けていく。
脂が炭に落ちるたびに、小さな煙が夜空へ昇っていった。
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「……昔のあたしなら、あの子、突き出してたと思う」
チトがぽつりと呟いた。
「でもさ。あんなに生きるのが下手なのに、奪うより前に泣きそうな顔してて……なんか、違った」
カッツは少しだけ黙っていたが、焼き上がった魚を皿に移すと、ひとことだけ返した。
「火を盗るやつより、火を分けるやつのほうがかっこいい。…俺はそう思うよ」
チトは笑った。
「それ、あんたにしては珍しく綺麗な言い回し」
「言うのはタダだからな」
ふたりは黙って焼き魚を頬張る。
煙の匂いと潮の匂いが交じる。遠くで誰かの笑い声がする。
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「ねえ」
チトが突然口を開いた。
「市場の奥でさ。ちょっとだけ気になる匂いがしたんだ。パンみたいな、発酵してるような、でも少し焼けすぎてて……」
「ほう?」
「明日、もう少し奥まで歩いてみたい」
カッツは皿の上に残った魚の骨を見てから、ゆっくりと頷いた。
「行こう。……せっかくだしな。行くしかねえよ」
「うん。なんか、ちゃんと繋がってる気がする。火が、さ」
港町ラグーザ。
命の音に満ちたこの街は、まだ眠らない。
でもふたりは、また少し先へ火を届ける準備を始めていた。




