表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異世界屋台〜星とスパイスの地図〜  作者: スパイシ〜しゃけ
第8章 ティレニア連峰圏編
100/152

8章: 第1話『魚と煙と、命の入港』

船が出たのは、まだ空に薄明かりが残っていた頃だった。

甲板の端で帆を見上げるチトの隣で、カッツはひとつだけ深く息を吐いた。


「……本当に出たな」


「うん」


東から吹く風が、まだ乾ききらない塩気と、遠くの都市の煤けた匂いを運んできていた。

エル=ミーラ。名前と現実が食い違った、約束の地。

そこで出会い、そして別れたギルドの仲間たちが、港の見えない先にまだ手を振っている気がした。



船はメディテン海と呼ばれる海の北西をなぞるように進み、四日目の朝。

最初に見えたのは、断崖に貼りついたような白い街だった。


階段状に連なる白壁の家々。

斜面に沿ってひしめきあう石造りの建物、そのあいだから、煙とカモメの鳴き声が立ち上っている。


「ラグーザ──このあたりじゃ“ティレニアの玄関”って呼ばれてるらしいぜ」


「……活気、ありそう」


チトが眩しそうに目を細めた。

その目が向いていた先で、港に集まる人々がすでに騒ぎ始めていた。


「入れ、入れ! 今日は青魚が祭りだぞ!」


「香辛料屋は昼前までだ、買うなら今だ、遅れたら赤胡椒は売り切れだ!」


甲板にいた他の旅人たちも次々と荷物を手に取り始める。

火を使う調理器具の包みや、塩を詰めた樽、発酵壺らしき陶器……

その中に、まぎれるように、カッツたちの“グリル・ノマド号”の資材箱も積まれていた。


「支援用の肩書きはここでおしまいか」


「うん。ギルド名義はエル=ミーラの波止場に置いてきたよ」


カッツは黙って頷いたあと、目の前に現れた街の色を見つめた。

その目の奥で、何かが焼かれ始めていた。



港に降り立った瞬間、チトは目を丸くした。


音が、大きい。


女たちが軒で布をはためかせ、魚屋が声を張り、荷を引く少年がラバに怒鳴っていた。

太鼓のように響く人の声と、濡れた石畳の上を走る水音。

まるで街そのものが生きているかのようだった。


「……眩しいくらいだな」


カッツが小声で言った。


「……音のない街を歩いた後だと、余計にね」


チトはそう言って、荷を引きながら港の管理棟へと足を向ける。


入港処理は、やはり一筋縄ではいかなかった。



「“移動調理火器”? 爆薬じゃないんだろうな?」


係官の目が鋭く光る。


「火床は炭火式。爆発性はない。書類にもあるはず」


チトが書類束から一枚を滑らせて渡す。

係官が目を通している間、カッツは横からボソリと付け加える。


「いっそ実演してみせてもいいぜ。このあたりならそうだな…魚さえあればな」


男は鼻を鳴らしたあと、面倒くさそうに書類を閉じる。


「好きにしろ。だがこの街では、“名前”に気をつけろ。“ギルド”も“支援”も、この辺じゃ重てえ言葉だ」


「……“名を持たない”ってのも、案外居心地は悪くねえよ」



処理を終えて港の市場に足を踏み入れると、潮と獣と香辛料が混じった、混沌とした匂いが襲ってきた。

スマック、干しミント、塩レモン、炭火、そして……焼かれた魚。


「……魚、買ってく?」


「そうだな。ほかにも目ぼしいものがありそうだしな」


チトが歩きかけた、そのとき。

市場の向こうから、何かがぶつかる音と、短い怒声が聞こえた。


「おいっ、待てッ!」


その声に、チトの足が止まる。

人混みの隙間から、少年の姿が見えた。赤いシャツ。素足。

干し魚の入った小袋を抱えたまま、必死に逃げている。


「おいおい……早速やる気か」


カッツの呆れ交じりの呟きと同時に、チトは走り出していた。




「待って!」


チトの声が、市場の喧騒にかき消えそうになりながらも響いた。

少年が振り返る。

年は十もいかない。赤いシャツの胸には穴が空いていて、砂の粒が貼りついている。目だけが、獣のように鋭かった。


追いかけるように、魚屋の男が怒鳴る。


「そのガキ、またか! 三度目だぞ!」


チトが立ちはだかると、少年は立ち止まり、歯を食いしばった。

手に抱えた小さな袋。そこには、干し魚が三匹。


カッツが後ろから追いついてきて、眉をひそめる。


「おい、あんま目立つとこで正義ヅラすんなよ」


「……この子、お腹が減ってるだけ」


チトはそう言って、自分の荷から干し肉を一枚取り出した。

それをそっと、少年の手の上に乗せる。


「お代はいらない。──でも、次に来るときは、ちゃんとお金を使って。いい?」


少年は何も言わなかった。けれど、逃げなかった。

干し肉をじっと見つめたあと、そっとそれを服の裾に包み込む。

盗んだ干し魚はチトに差し出した。


魚屋が唸るように言った。


「変な連中だな……で、どこの出だ?」


チトは数秒だけ言葉に詰まったあと、小さく言った。


「……“カッツの台所”。移動屋台。火の灯らない町から、火を届けに来た」


男は目を細めて、それからふっと吹き出した。


「ん〜なるほど、火の屋台か。覚えとくよ。干し魚より面白そうだ」



その夜。

ふたりは港から少し離れた倉庫裏の空き地にテントを張った。

風が強く、火を起こすのに少し苦労したが、カッツは黙々と炭を組み、チトは手際よく拾い物の薪を削った。


火が安定し始めると、鉄板の上に、昼に買った小ぶりの鯖が載せられた。

塩と乾燥レモンの皮をすりおろし、スマックを指先でふりかける。


「今日の魚、市場の隅でこっそり売ってたやつ。脂がのってる」


チトは鉄板の傍らにしゃがみこみ、火の具合を確かめる。


「……街の音、すごかったね」


カッツは手にした干し枝で薪をいじりながら答える。


「ああ。ああいう音を、“生きてる”って言うんだろうな」


魚がパチパチと音を立てて焼けていく。

脂が炭に落ちるたびに、小さな煙が夜空へ昇っていった。



「……昔のあたしなら、あの子、突き出してたと思う」


チトがぽつりと呟いた。


「でもさ。あんなに生きるのが下手なのに、奪うより前に泣きそうな顔してて……なんか、違った」


カッツは少しだけ黙っていたが、焼き上がった魚を皿に移すと、ひとことだけ返した。


「火を盗るやつより、火を分けるやつのほうがかっこいい。…俺はそう思うよ」


チトは笑った。


「それ、あんたにしては珍しく綺麗な言い回し」


「言うのはタダだからな」


ふたりは黙って焼き魚を頬張る。

煙の匂いと潮の匂いが交じる。遠くで誰かの笑い声がする。



「ねえ」


チトが突然口を開いた。


「市場の奥でさ。ちょっとだけ気になる匂いがしたんだ。パンみたいな、発酵してるような、でも少し焼けすぎてて……」


「ほう?」


「明日、もう少し奥まで歩いてみたい」


カッツは皿の上に残った魚の骨を見てから、ゆっくりと頷いた。


「行こう。……せっかくだしな。行くしかねえよ」


「うん。なんか、ちゃんと繋がってる気がする。火が、さ」


港町ラグーザ。

命の音に満ちたこの街は、まだ眠らない。

でもふたりは、また少し先へ火を届ける準備を始めていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ