1章: 第10話「心の奥に沈むもの」
夜明け前。空がまだ群青を湛えているころ、冷たい空気が肌を刺した。遠くで小鳥が一声だけ鳴き、また沈黙が戻る。
焚き火の残り香と煤の匂いが、衣服と髪に染みついている。吐く息は白く、足元の草には夜露が光っていた。
寝袋の中で体を起こすと、すぐ近くに人影があった。
「……チト?」
黒衣の少女は、消えかけた薪の前で膝を抱えていた。背中を丸め、掌をかざして最後の温もりを探るようにしている。
髪の先から夜露が落ち、額にかかる前髪が揺れた。
「起きてたのか」
「眠れなかっただけ」
カッツは言葉を続けず、火に薪をひとつくべた。
ぱち、と弾ける音とともに赤い火花が舞い上がり、ふたりの間にほんの一瞬だけ明るい橋をかけた。
しばらく、風が布地をなぶる音だけが耳を満たした。
沈黙を破ったのはカッツだった。
「なあ、チト」
「……何?」
「誰かから、逃げてるのか?」
チトの背筋が、わずかに強張る。返事はすぐにはなかった。
その間を埋めるように、カッツは続けた。
「いや、詮索する気はねえ。ただ、ずっと気ぃ張ってるだろ。寝てる時も、物音にやたら反応するしな」
チトは焚き火を見たまま黙っていた。
肩がほんのわずかに震え、その影が地面に揺れた。
「……あたしは」
ようやく絞り出すように声が落ちる。
「“誰か”から逃げてるっていうより、捨てたつもりでいた。けど、どこまで行っても、足音が追ってくる」
「その足音、俺には聞こえないぜ」
「カッツは……そういうとこ、ずるい」
ふっと笑みがこぼれ、火の赤に溶けた。
わずかな安堵の匂いが、冷たい空気に紛れて消える。
その日、ふたりは町の外れの丘で休むことにした。
草原の緑が朝露で白く縁取りされ、遠くの風車がゆっくり回っている。羊の群れの鈴の音が、風に乗って届いた。
売上はそこそこだったが、妙に胸は重かった。
カッツは荷車から木箱を降ろし、腰を下ろす。チトも隣に腰を落とす。
背中に太陽が昇りかけ、影が長く伸びた。
「……昔の話、ひとつしてあげる」
チトの声は淡々としていたが、その奥には硬い石のような感触があった。
「小さい頃、剣の訓練を受けてた。ずっと。遊ぶ時間なんてなかった。“笑うな”“気配を断て”“呼吸を殺せ”……そんな言葉ばっかり教わった」
その光景が、彼女の視線の奥にちらつく。
土の匂い、打ち合う木刀の衝撃、冬の朝の冷たい息。
泣き声を飲み込んだ喉の痛みまで、蘇るようだった。
「……楽しかった話じゃねえな」
「知らない。“楽しい”を知らないから」
「…今は?」
チトは答えず、隣の鍋を手に取り、火にかけた。
香草と肉の匂いが立ち上り、風に流れる。
「……あんた、食ってないと死ぬタイプでしょ。無意識に痩せてる」
「バレてたか」
「バレバレ」
その一言に、カッツは吹き出した。
「副店長、目ざといな」
「元、監視担当だからね」
初めて“過去形”を使ったチトに、カッツは気づかないふりで頷いた。
夜。草原の真ん中で、ふたりの影が焚き火に揺れていた。
空は墨色から群青に変わり、星がまばらに浮かんでいる。
言葉はなくても、火の温もりと匂いが、全てをつないでいた。
チトはマチェットを腰に差したまま、丸くなって眠りに落ちる。
カッツは最後まで火を見つめ、マントをそっと肩にかけた。
「“過去”がまた来るなら、俺が追い返すさ」
誰にも聞かれないよう、小さくつぶやいた。
炎が揺れ、夜風がそれを運び去った。




