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1章:第1話 「閃光の転移」


 東京近郊。朝の空気は冷たく、遠くで電車の音が響いていた。

 カッツはパネルバン型のフードトラックの運転席で、首を軽く鳴らす。

 助手席には仕込み済みのチキン。香辛料と油の香りが、わずかに車内に満ちている。


「よし、今日もチキンオーバーライスで……稼ぐぞ」


 ハンドルを握り直した、その瞬間。


 ――白い閃光。

 車体が大きく揺れ、耳が詰まる。

 何かが遠くで割れるような音がして、視界が途切れた。


 


 目を開けると、そこは草原だった。

 乾いた草の匂い。うねる丘の向こうに、瓦のような屋根を並べた建物群。

 舗装路も、信号もない。空気は少し煙たく、どこか甘い香辛料の匂いを含んでいる。


 足を一歩踏み出すと、丈の低い草がざわめき、種子がズボンにまとわりつく。

 陽射しは強いが、風は冷たく、首筋に触れると汗がすっと引いた。

 丘を降りるたびに匂いが変わっていく。最初は潮のような湿った匂い、やがて干し肉や獣脂の濃い香り、さらに進むと鼻の奥をくすぐるスパイスの刺激。

 遠くで羊の鈴が鳴り、見知らぬ言葉で誰かが子どもを呼んでいる。

 その音と匂いの層を踏み分けながら、カッツは建物群へ向かった。


 荷台を確認すると、設備は無事。水タンク、クーラー、調理器具。

 トマトと鶏肉は残っているが、ライスは切れていた。


「やばいな……ここ、どこだ」


 見知らぬ土地。見知らぬ匂い。

 ただ、直感でわかる――もう日本じゃない。


 


 最寄りの建物群へ向かう。

 重たい鉄扉をくぐると、そこは賑やかな市だった。


 石畳の通りは陽を吸い込み、足裏から熱を伝えてくる。

 両脇の露店には、色とりどりの山が築かれていた。赤い粉は唐辛子、黄色は乾燥させた花の蕾、緑は刻んだハーブ。

 羊皮紙を丸めた筒に香辛料を詰めて売る商人、山羊乳を固めて串に刺す少女、干し魚を叩いて柔らかくしている老人。

 空中には焼けた肉と甘い果物、そして獣の皮の匂いが層をなして漂っていた。

 値切り交渉の声が飛び交い、子どもが笑いながら見知らぬ果物をかじる。

 その汁の匂いが、甘酸っぱく風に混じった。


 露店から漂う焼き肉の香り、馬車の車輪が石畳をこする音。

 聞こえるのは知らない言語……なのに、なぜか理解できた。


「……転移、か」


 路地を進むと、焼き串を手にした男が声をかけてきた。

「お、旅の者か? 飯か? あそこの屋台の女は腕がいいぜ」


 顎で指された先にいたのは――


 黒髪のボブに、長いまつ毛。切れ長の目がこちらを射抜く。

 黒ずくめの軽装。腰には小ぶりの剣。

 その姿は、異世界の雑踏の中でも際立っていた。


「あんた、こっちの人じゃないね」

 低めの声。だが落ち着きがあり、周囲の喧騒から少し距離を取っているような雰囲気。


「……それで、飯屋でしょ。見てくれでわかる。

 作ってるなら、あたしが味見してやるけど?」


 初対面でそんなことを言う少女。

 胡散臭さよりも、不思議な信頼感があった。


「俺はカッツ。たぶん、あんたの言う通りこっちの人間じゃない。

 元の世界ではチキンオーバーライスって料理を出してた。鶏肉を香辛料で漬け込んで――って、わからねぇか」


「……ライス? ナンやパラタなら南の町で作ってるよ。香辛料もなけりゃ困るだろ」


「あんた、詳しいな」


「……まあね。今は用心棒兼、屋台の店番中だけど」


「ひとつ頼みがある。……火、貸してくれ」


 カッツは急いでトラックに戻り、仕込んだチキンの一部を持って戻った。

 火格子の上で小さく焼き、彼女に差し出す。


「……味見、してくれないか」


 少女は一瞬だけ目を見開き、それからふっと笑った。

「いいよ。代わりに――こっちのスパイス商人に引き合わせてやる。それでチャラ」


 その笑みは、少し楽しそうだった。


 


 夜。街外れの丘で、小さな焚き火を囲む。

 少女は持参の平パンにカッツのチキンを挟み、もぐもぐと食べた。


 火は小さく、風に揺れるたびに赤と金の粒が空気にほどけた。

 夜の丘は静かで、遠くに犬の遠吠えと楽器の低い音が混ざる。

 チトはパンで肉を包み込み、手の中で少し押しつぶしてからかぶりつく。

「外は香ばしくて、中は……柔らかい」

 そう言って口元を拭う仕草に、旅慣れた手つきがあった。

 カッツは焚き火の明かりを見つめながら、ふとフードトラックのランプを思い出す。

 鉄の天井に反射していた白い光、夜風に混ざった香辛料の匂い。

 それはもう遠いはずなのに、胸の奥ではまだ燃えているような気がした。


 ――帰れるあてもない。

 ここでこの料理が通用するなら、ひとまずは売って、生活の足しを稼げる。

 日々をつなぐことができれば、その先を考える余裕も出てくるだろう。


「……しばらくは、そうするか」


 つぶやきは火に吸い込まれ、赤い粒になって夜空に溶けた。

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