【Ep.3『開封、そして降臨』】
一歩も動けない──というより、“動いてはいけない”という本能が脊髄を縛りつけていた。
金属コンテナの内側で脈動していた二つの光点は瞳となり、空間から生まれた白磁磁を思わせる肌と、月の裏側で育ったような美しい銀髪がさらりと流れる。
光が肌になり、空気が衣になり、沈黙が呼吸になっていく。刻一刻と変わる箱の中は、世界の始まりを手のひらサイズに圧縮したプラネタリウムだ。
白光が霧散し、俺の視界に“それ”が収まる。
銀髪は湿った羽衣のように肩で揺れ、瞳はアメジストの雫を二つ落とし込んだように透きとおる。神話的美少女。問題は、その神話がリアルタイム配信中ってことだ。
服は着ていた。純白のドレス。セーフ。ラッキースケベは柄ではない。
彼女──いや、まだ“彼女”と呼んでいいのかどうか──は、一歩踏み出し、俺の方に顔を向けた。
「汝が──我を喚びし者か」
声は澄んだ鈴と深海の底圧を同時に鳴らす二重音。電気すら震わせる共鳴に、俺の背筋は凍るより先に汗ばむ。
……まずい。未知との遭遇よりも先に、管理会社との遭遇を思い浮かべてしまう自分が悲しい。
「……あの、やっぱり、何かのミスってことで、返品できます?」
気づけば口が動いていた。反射行動。俺の人生はクーリングオフ条項で守られてきた。
銀髪少女は瞬きを一度。まるで“返品”という語句を辞書検索しているかのように沈黙し、やがて小首をかしげる。
「リヘン……ト? 審判の一種か?」
訳:通じてませんな。
俺は思った。これ、アリエクの公式サポートチャットより厄介かもしれない。
少女は胸に手を置き、厳かに宣言した。
「我が名は──セレフィア・ナナ=ユグドリア=エイリシア=エン=アルマティア。光輝の審判者なり」
名前だけで梱包サイズMを超えてくる。俺は思わず手を挙げた。
「長い。ハンドルネームとか無いの?」
「ハンドル?」
「ユーザー辞書で出せる七文字以内の呼び名的な」
「……セレナ、で良い」
セレナ。いきなり三文字になった。感謝、文明。そして言語コミュニケーション。
目が合う。紫水晶の奥で、どこか不安げなきらめきが揺れた。
「汝が我を招いたのなら、我は汝の願いを裁定しよう」
「いや、招いた覚えは“ノリでクリック”程度で……」
「ならば誤審。審判者として訂正が必要だ」
女神の眉が困ったように寄る。俺も困る。世界観の壁に頭を打つ音がした。
それでも、返品を言い出すのはやめた。たぶん彼女の存在は送り返すだけで済むスケールじゃない、と本能が訴えていた。
ふと周囲に目をやる。
テーブルの上、Bluetooth対応石像(半額セール品)が溶けていた。LEDマグカップは「虹+煙」を吐き、壁時計は秒針が無限加速している。
要するに、さっきの白光は電磁波も魔力も関係なく“存在論的に部屋を蹂躙”したらしい。俺の悪趣味な財産をも蹂躙だ。
「この光、世界の理に干渉したかもしれん」
「……それって修理代いくら?」
聞いた瞬間、女神──セレナは無垢な笑顔を浮かべた。
「信仰があれば無料」
ボーナスで配布される詫び宝石みたいな商法やめろ。
俺は深呼吸し、散らかったガジェットを片づけ、コンテナの蓋をテーブル代わりに敷いた。そこにコーヒーと、コンビニドーナツ。
セレナはドーナツを指先で摘むと、まじないを唱えるように眺めた後、恐る恐るかじった。
「……甘い。審判以外の味がする」
「それは砂糖の味。人間界の主食」
「砂糖……信仰と似ている。人を高揚させ、依存させ、やがて蝕む」
「語彙が急にダークだな」
銀髪が揺れるたび、部屋の焦げ跡がわずかに輝く。光の残滓。それすら審判の名残かもしれない。
コーヒーをかじりながら、俺は聞く。そして、まとめると──。
「つまり君は、異世界で追放──いや、封印? それでここに転送されてきた?」
セレナは頷く。
「神界での私の“判決”は終了した。だが地上での“存在意義”は未定。よって汝が決めよ」
汝が決めよ。
この六文字が、サラリーマンには重い。普段は上長の決裁印ひとつ押されりゃ終わるのに。
「じゃあ──保留。返品不可、返金未定、居候可」
ビジネスメールかよ、というセルフツッコミを飲み込む。
セレナは目を丸くしたあと、小さく微笑んだ。
「了解。契約、暫定成立」
窓の外、空は高くて青い。遠くで電車が駆け抜ける音がする。そんな街で、俺とこの女神の生活が始まるらしい。
カフェインだけが原因じゃない興奮で、ぐるぐる回る頭の中に、まず浮かぶのは月曜朝イチの会議。“未知の神を開封した場合の休暇申請”なんて就業規則に書いてない。
「誠司」──セレナが初めて俺の名前を呼んだ。
「ん?」
「私は……ここにいても、いいのか?」
問いは羽毛より軽く、重力より重かった。
「……別に。ここは俺の物件だし、セレナのクーリングオフ期間は過ぎたし」
そっけなく答えたつもりが、胸の奥が少し熱い。
セレナはドーナツの粉を唇につけたまま笑った。
その瞬間、凹んだ床や溶けたガジェットや請求書の山を差し引いても、世界はちょっとだけ可愛く見えた。
──カタン。
玄関の扉に何かが当たったような、小さな音が聞こえた。
俺は立ち上がり、扉の覗き穴を覗く。暗い廊下、誰もいない。
扉を開けると、隙間に差し込まれた黒いカードが一枚、はらりと落ちた。表には、虹色の紋章が浮かんでいた。七色の爪のような文様──あのコンテナの留め具と同じ図形。
「おい、セレナ。これ心当たりあるか?」
振り返ると、彼女は毛布にくるまりながらも、すでにバリアを張るように手をかざしていた。
「“刃怒”が来る。早い、早すぎる……」
銀髪が揺れ、紫の瞳に戦慄が走る。
俺の胃がひっくり返る音が聞こえた。
この真昼間、何が始まるというのだろう。