【Ep.2『半年遅れの謎の荷物』】
そもそものことを思い出してみよう。土曜日午後からの休日出勤の前のことだ。
週末の朝に鳴ったインターホンは、雷鳴に似ていた。
俺の土曜の朝は、たいてい午前十時に始まる。たっぷりと睡眠をとって、ゆっくり目覚めて、厚切りトーストの朝食をとったら、毎週のルーチン、すなわち休日出勤に向かう。──社畜だからな。
だが今日は午前九時一三分──絶妙に二度寝を妨害する時刻に、マンションのインターホンがけたたましく吠えた。インターフォンのモニタを見ると、見知った男性の顔が映っていた。
「宅配でーす!」
無慈悲な声と同時に、睡眠不足の脳にバチッと火花が散る。
置き配を頼んだのに、大きな荷物で宅配ボックスに入らないし、直接受け取って欲しいといわれ、配達員が8階まで運んでくるい間に、寝癖で跳ねまくった髪を手でならした。
ドアを開けると、そこには作業着の配達員と──配達員より明らかにデカい段ボール箱が鎮座していた。
宅配のお兄さんが苦笑い気味に伝票を差し出す。
「これ、一人じゃ運べませんから。あと国際配送なんで、サインだけ、いいっすか?」
俺は呆然と箱を見上げた。高さは胸元、幅は肩幅の二倍。体積で言うと、玄関スペースの圧迫感が一瞬でレッドゾーンに突入するレベル。しかも側面はベコベコに凹み、古傷のようにガムテープが何重にも貼られていた。
伝票の送り主欄は擦れてほぼ消え、読み取れるのは“CHN”か“USA”か?
そしてなぜか“PLUTO”の文字。配達員が去った後、段ボールの天板でうっすら輝くラベルを見つける。
> SERELIA・NANA ──最後はインクが滲んで判読不能。
脳内で、半年前の深夜テンションが再生される。あのとき俺は「神々しい美少女フィギュア」と銘打たれた謎の商品を三万円でポチった。納期は二週間。冗談半分で支払った三万円は、いま笑えないコンクリートブロックに化けているかもしれない。
それにしても──でかい。
“フィギュア”という話だったけど……。
そもそもフィギュアって、こんなに場所を取る存在だったか?──いや、等身大フィギュアだとすれば、このサイズになるのか。等身大って、書いてあったかな?
部屋着と寝間着を兼用したスウェット姿で必死に押し引きし、なんとか玄関を通過させる。それでも箱は部屋の中央で仁王立ち。
無印良品のローテーブルがひしゃげそうだ。
──開けるか、開けないか。
禅問答を脳内でループさせるうち、俺は半笑いになった。仕事ではリスク分析を語り、何事にもPDCAを掲げるくせに、私生活では段ボールひとつにビビる。矛盾の塊だ。
「いや待て、それどころじゃない。仕事だ出勤だ社畜の義務だ。急がなくちゃ」
カラーシャツとチノパンという、普通のサラリーマンから見たらラフな恰好だけれど、専門職にありがちなΤシャツとGパンよりはちゃんとしたスタイル。さて俺の仕事は?
などと一人言をつぶやきつつ、俺は会社に向かった。
そして帰宅して、PDCAはぐるぐる回ったままで、寝落ちして、翌日は日曜日。
日曜日は法定休日だし、連続勤務日数の制限もあるので、社畜である俺は会社のルールをきちんと守り、日曜日は休日としている。
だから今日の俺には、この段ボールと向き合う時間が、しっかりとある。
箱の表面を撫でる指先が軽く震える。未知への好奇心と、取り返しのつかない非日常が飛び出す予感──劇薬の匂いに、心拍数がたやすく跳ねる。
「──コーヒーを淹れてからにしよう」
開封儀式を取り巻く空気を、カフェインという名の聖水で浄化する。ドリッパーから立ちのぼる香りが、段ボールに付着した埃臭さと混ざり合い、工事現場の休憩所みたいな複雑な匂いを作り出した。
PCを起動し、AliExpressの注文履歴を遡る。
> 注文番号:AEPL-98-21486-2 ──配送状況:Delivered
スクロールするたび、昔の俺が放った数々の酔狂さのブーメランが目に刺さる。
LED 10連ライト付きマグカップ。掃除機能付きスマホケース。Bluetooth対応石像。
そして、三万円の注文履歴。アイコンは解析不能な解像度で崩れた美少女イラスト。説明文は「DIVINE GODDESS STATUE REAL HUMAN-LIKE 1:1」とある。1:1? 等身大? これを見落としていたのか。やられた。
唇が乾く。クリック一発で現実に穴を開ける時代だと知っていたが、まさか自宅にもブラックホールを招くとは。
「──よし」
コーヒーを一口。深呼吸。
カッターナイフを握る手首が汗ばむ。
まずは箱外観の観察タイム。輸送中に付いたであろう傷は多いが、同じ傷が幾何学的に十字を描いている箇所がある。偶然か、過剰梱包業者のセンスか。
さらに、側面の一角に施された七色のシール。虹色に輝くホログラムは、よく見ると細微な文字列で構成されている。
> LUX JUDICIUM OMNIA VINCIT
ふむ。……ラテン語か。
意味はといえば、“光の審判はすべてを征服する”──オカルトみ、たっぷりだな。
理性が「返品しよう」と囁く一方、好奇心が「ここまで来たら最後まで」と囃し立てる。
二つの感情が、脳内で不協和音を奏でる。のるか、そるか。
危機対策はしておいたほうがいいな。いわゆるABC兵器対策だ。
俺はテレビ台の引き出しからビニール手袋とゴーグル、そして折り畳み式の防塵マスクを取り出した。
「……さすがにやりすぎか?」と自嘲しつつ、装備を整えていく。
──開封とは、未知の世界に飛び込むダイビング。
高所恐怖症でも、崖の先に立てばジャンプ衝動が走るというやつだ。
カッターナイフの刃を一ミリだけ出す。
段ボールの天板にそっと添え、薄皮を剥ぐようにテープを切る。剥離音が室内にこだまするたび、心臓の鼓動が同期する。
──バリッ。
──ザクッ。
──ペリペリ……。
刃が走る軌跡は、世界と世界を隔てる境界線。
この箱を開けた瞬間、俺は「無難でミスをしない」地味なサラリーマンから、取り返しのつかない領域へ踏み出す。そんな不吉な確信が背筋を冷やす。
「大丈夫だ、ただのフィギュアだ。大きめの、たぶん発泡スチロール入りの……」
声に出しても、不安は消えない。むしろ「ただの」という形容詞が薄ら寒い。なぜなら、玄関からここまで運ぶあいだ、一度もカラカラという中身の振動音を聞いていないのだ。まるで箱全体が一つの塊。
ナイフを置き、ゆっくり蓋を押し上げる。
──コンッ
箱の奥で、硬質な何かが微かに鳴った。
昨夜聞いた“コツン”と同じ音。
呼吸が浅くなる。喉がぱさつく。
水を飲もう──そう思った瞬間、ドアが開閉する低い音が廊下から響き、飛び上がった。高い防音性能のこのマンションだが、隣室の佐伯ミホさん(隠れオタの美人さん)は、なぜかドアの開閉が乱暴なのか、いつも音が響く。
今の俺には世界のすべてが警告音に聞こえ、ひやりとする。
蓋を開け切る。
中は真っ暗。いや、暗さを通り越して“光を吸う闇”のようだ。梱包材はなく、ただ一枚の黒い布が整然と敷かれている。
手袋越しにそっと触れる。布は冷たく、絹のような質感。端を掴み、息を止めて引き剥がす。
──ゴウン。
布の下から現れたのは、ゼロハリバートンさながらの、銀色の金属製ケース。表面には幾何学的な紋章が浮き彫りになっている。
四隅に取り付けられた留め具は虹色に光り、まるで宝石の爪留めのように輝いた。遺跡から発掘された○○文明の封印器具、と言われても信じてしまいそうだ。
「……冗談だろ。俺は、何買ったんだ」
もちろん返答はない。室内は静寂という名の圧力で満ちる。
恐怖と興奮が同じカクテルグラスに注がれ、脳内でシェイクされる。結果、アルコール度数は致死量。
右手が勝手にスマホを取り出し、カメラを向ける。証拠写真。万一、異物が飛び出して爆発四散しても、保険会社に……って、保険適用外だろ。思考が支離滅裂になる。
指先で留め具を軽く叩く。金属音は意外に澄んでいる。
“開けるか、開けないか”。
この単純な二択の背後で、人生は枝分かれする。
開けなければ、三万円は笑い話で済む。
開けたら、たぶん笑えるフェーズは終わる。
「──開けよう」
声は震えていない。半年前の俺が蒔いた種だ。責任は今の俺が刈り取るしかない。
留め具の一つに指を掛け、深呼吸。
パチンッ。
虹色の光が弾け、続けて、かすかな残光が部屋に舞う。
そして、二つ目、三つ目。
留め具が四つとも外れた瞬間、金属蓋がわずかに浮き、隙間から冷気が漏れ出した。エアコンの設定温度を無視する、妙に甘い空気。嗅いだことのない花の香りが混じっている。
脳裏に警報が鳴る。これは嗅いだことのない匂いだ。後から思えば、「異世界臭」というものだったのかもしれない。
「──これは、やばい」
それにしても、“やばい”は万能語だ。
“最高にヤバい”か“最低にヤバい”か、確かめるのが俺の──好奇心という罪。
腕時計に目をやる。針は午前十時四四分。秒針がレールガンのように高速で撃ち出されている気がする。時計が壊れたのか、俺の心拍数が壊れたのか。
最後の蓋を開く前に、ふと思う。
《もし、これが本当に生身の人間サイズだったら、どうする?》
返品できる? 税関に突き返す? いやいや、生身なら人権がある。通販サイトの返金保証より、法的保護が優先だろう。
思考の迷路を断ち切るように、俺は両手で金属蓋を持ち上げた。
重い。内部から微弱な磁力が抵抗しているような感覚。
歯を食いしばり、一気に──
ゴオオオォォン──
低い共鳴音が部屋を震わせる。照明が一瞬だけ明滅し、コンセントに挿したスマホ充電器の青いLEDが真紅に染まった。
蓋が全開。
内部は──まだ闇。いや、その中心でかすかに白い光点が浮かび、脈動している。
光点は……心臓の鼓動のようにリズムを刻む。
やがて、光点が二つに分かれた。左右対称の──瞳……?
俺は凍りつく。
その白い“瞳”がごくりと瞬き、光が走る。箱の中で、何かが──正確には“誰か”が──ゆっくりと呼吸を始めた。
「…………」
声が出ない。身体が石化したわけではない。単に、脳の言語野が言語化を放棄した。
光点が柔らかく瞬き、かすかな吐息音が混じる。それは幼い少女の寝息に似て、しかし余りに神聖で、耳朶が震える。
──ここで閉めたらどうなる?
いや、もう遅い。開いた扉は、向こう側からも押し開けられる。
圧倒的非日常の胎動を前に、俺はただ、観測者になるしかなかった。
白い光は次第に形を成し、輪郭を帯び、まるで彫刻家のノミが空間を削るように存在を彫り出していく。
線が、面が、肌が、髪が──生まれる過程を逆再生で見ているかのようだ。
『汝──我を呼びし者か』
脳内に直接響く声。少女のようで、星霜を超えた老成も混ざる、不協和で完璧な和音。
なんとか言葉を搾り出す。
「お、俺は……受け取り拒否とか、いまさらできるのか……?」
返答はない。
光の中で形作られた“存在”は静かに立ち上がろうとしていた。
俺は反射的に金属蓋を掴む。閉じ込めるためではない。帰ってくれと叫びながら投げつける準備でもなく。ただ──なにか手にしていないと、現実と自我が離散しそうだった。
呼吸を整え、箱の外へ半歩下がる。
両脚の震えが床板に小刻みな波紋を描く。
『開封は完了した。契約の刻は満ちた』
耳鳴りが遠ざかり、代わりに心臓の鼓動だけが大きく聞こえる。
目の前の光──いや、“彼女”に、数奇な人生の脚本のページを捲られた。
──もう後戻りはできない。
俺の豊かな通販生活は、多分ここで終わる。
そして、何かが降臨した超常生活が幕を開ける。
自虐のユーモアで恐怖を塗りつぶしながら、俺は腹の底で覚悟する。
「返品不可、不可避、不可逆。──それなら、人生、楽しむしかないな」
次の瞬間、白光が爆ぜた。