【Ep.1『変な通販が趣味の男』】
午前一時一二分。
山手線の終電が最寄り駅のホームを通りすぎる瞬間、俺──中野誠司は、都内某所の微妙にオシャレぶった18畳のワンルームでノート PC を閉じた。休日出勤帰りのテンションとコンビニ飯に含まれる保存料がせめぎ合い、脳はハイにもローにも振り切れない中途半端な揺らぎを起こしている。
部屋の蛍光灯がつくり出す冷たい影の中、俺は椅子をくるりと回転させて愛用の大型スマホを手に取った。指が勝手に AliExpress のアイコンをタップする。もはや歯磨きや瞬きと同じレベルのルーティンだ。
(最近はアリエクも「当たり」が少なくなったな……)
スクロールする親指が止まるたび、画面には“多機能”と銘打った謎ガジェットが列をなす。三千円で買える“医療グレード”のレーザーヘアカッター。説明文の八割が機械翻訳の誤字で構成された“本革風”サイバーパンク財布。そして、どこからどう見ても非公式な美少女フィギュアの海。俺は一つひとつに「おもしれーな」と呟き、買いもしないのにカートへ放り込む。
これが俺の日常だ。
会社では「無難でミスしない人」と呼ばれる。会議の席で俺が発言すると、課長の山下は決まって「さすが中野くん、堅実だ」と安心顔を浮かべ、同僚は「また安全ムーブだな」と小声で笑う。
無難。堅実。安全。
それらの言葉は褒め言葉の皮を被った枷にもなる。俺の内側では、もっとくだらない何か──たとえば三千円の偽ブランド腕時計を分解して爆散させるような衝動──がうごめいているのに、誰もそれに気づかない。いや、気づかれたら面倒だから、とことん隠しているだけなのだが。
同僚にバレていない本当の事情は、もう一つある。俺のクレジットカードには限度額がない。カード会社からは「ブラックカード会員には必要ありません」といわれている。だから買い物をするときも、限度額を気に留めたことがない。金に執着しないわけではないが、数字の大小が心を動かした試しはなく、クリック一つで中国大陸を経由してやって来る“珍品”たちのほうが、よほど俺の体温計を跳ね上げる。
部屋の中はシンプルな無印良品の家具で統一されている──はずなのだが、その隙間を埋めるように、怪しい中華ガジェットや低クオリティな美少女グッズが“点在”している。シンプルモダンの床に突如現れる RGB ライト内蔵ミニドローン、壁面に貼られた「厄除け」と誤字で書かれた電磁波カットシール、棚に鎮座する首の角度が三〇度ほど傾いた女神像のコピー品。これらを一望すると、シンプルというよりは「無印良品の上に不法投棄された秋葉原」だ。
奇妙なインテリアを眺めていると、胸の奥で灯が点る。幼い頃から、俺にとって“未知のモノ”は寂しさを埋める玩具だった。友達がゲームの話で盛り上がる横で、俺は分解済みラジカセの基板に触れて静電気で指を焼き、誰とも共有できない喜びにひとりで震えていた。その孤独は今も続いているが、AliExpress の海は、その穴を一時的にコラージュで塞いでくれる。
画面に並ぶカートの総額は八万一二七円になっていた。多いか少ないか。そんな尺度はとうに失っている。
「──結局、今日はポチらなかったな」
ため息と共にスマホを伏せる。底の抜けた欲望は受け皿を失い、部屋にこだまするだけだ。そこで俺は、隅に置いた段ボールの山に目を止めた。
未開封の箱。
住所は俺のものだが宛名は「SEIJI NAKANO 様」ではなく「尊厳なる購買者殿」。
そう言えば、半年ほど前に深夜テンションで“神々しい美少女フィギュア(約三万円)”を注文していた記憶があった。あのときの俺は、急なボーナスの勢いで「まあネタになるならいっか」と笑いながら決済ボタンを叩いた。だが配送予定の二週間を過ぎても荷物は届かず、とはいえAliExpressではよくあることなので、熱は冷え、記憶の歴史の闇へ葬り去った──はずだった。
(今更届いたのかよ……)
伝票は擦れて判読不能。箱の側面に小さく光るシールだけが手がかりだった。そこには「SERELIA・NANA──」と読めるかどうか、という文字列がある。店の名前か、製品名か、それとも呪文か。
自宅の静けさは、押し入れで冬眠する古い冷蔵庫のモーター音だけが破る。段ボールの前にしゃがみ込み、指先で角をコツコツ叩くと、空洞を思わせる軽い反響が返ってきた。
「三万円……三万円ねえ……」
俺は苦笑する。いわゆる等身大高級フィギュアの価格相場を知っている俺としては、値段を考えたら、中身は高級フィギュアではなく、発泡スチロールで厚盛りされた“重量詐欺”の可能性も考えていた。それも含めてギャンブルなのだが、今日はハズレを引きそうな気配が濃厚で、カッターを握る手が鈍る。
──開けていいのか?
──いや、開けるだろ普通。
理性と衝動がコイントスの表裏のように回り続ける。
ふと、ノート PC の待機画面がスリープから復活し、青白い光が壁紙を照らした。モニターに映る自分の顔は、長時間残業とカフェインでむくんでいるくせに、瞳の奥だけ奇妙な期待でぎらついていた。
(変な通販で人生を浪費してる三十代──結局、俺はこれくらいのスリルでしか生きてる実感を得られないのかもしれない)
そんな自嘲が、低体温の心臓をとん、と小突いた。
そして俺は、箱をひとまずクローゼットの横にどかし、明日の朝イチの会議資料を作るために再び椅子へ腰を下ろした。
──開封は、週末にでもしよう。
脈打つ衝動を、まだ俺は飼い慣らせると信じていた。
スマホの通知バーに小さく「国際郵便・追加課税のお知らせ」という文字が灯っている。消費税にしては高い、数千円分の請求。いずれ清算しなければならない運命の債務ってやつ。
時計は午前二時をまわる。俺は椅子から立ち上がり、ベランダの窓を開けた。深夜の街は、電車の音も看板の音楽も消えて、暖房の室外機が吐く白い蒸気がゆらゆら揺れるだけ。冬の空気が冷たく、肺を洗うように入ってきて、目が冴える。
「……今日はもう寝るか」
そう口にした瞬間、段ボールの中で──いや、確かに箱の中だ──微かな“コツン”という何かがぶつかる音がした。
心臓が一拍だけ早く跳ねた。
見間違いか。気のせいか。
俺は振り返らず、窓を閉め、カーテンを引き、照明を消した。
闇の中、クローゼット横の段ボールは、静かに存在を主張している。
そして俺は、暗闇に沈む天井を見つめながら、床に直置きのマットレスの上で、自分でも理由のわからない不安とワクワクの境界で眠りへ落ちた。