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心の共鳴

稽古の終わりは、いつも決まって唐突だ。まるで舞台そのものが、一瞬の隙をついて現実に引き戻すように。美咲は、舞台の灯りが消えた瞬間にその変化を感じ取った。舞台の上で繰り広げられていた熱気が急速に冷めていくのを、肌で感じながら、彼女は舞台袖に立っていた。


「翔太さん、今日は……本当に大丈夫だったのかな」


心の中でそっと呟く。彼女の目は、袖から離れていく翔太の背中に釘付けだった。舞台俳優として数々の役をこなしてきた翔太の姿は、通常ならば力強く自信に満ちているはずだった。しかし、今夜はそのオーラに陰りが見えた。表情には疲れが滲み、いつも軽やかな歩き方さえも、どこか重たげに感じられる。


稽古場を見渡せば、他のスタッフや共演者たちも同じことを感じ取っているのか、誰もが一様に沈んだ顔をしていた。美咲は舞台の片付けを手伝いながら、胸の内で膨らんでいく不安を拭い去ることができなかった。


彼の演技は完璧だ。少なくとも、外から見ている限りは。しかし、美咲は長年のファンとして、彼の些細な変化を見逃すことができなかった。今日の翔太は、まるで役に飲み込まれ、自分自身を見失っているように感じたのだ。台詞一つ一つが重たく響き、言葉の端々に苦しみが滲んでいた。


役者もスタッフも一人また一人と帰っていき、稽古場は次第に静まり返った。残されたのは、ほんのわずかな音と、ぼんやりとした灯りだけ。美咲は、その静寂の中で、なぜか帰る気になれず、舞台の片隅に佇んでいた。


翔太の姿が暗がりの中に浮かび上がる。彼は舞台の隅に座り込んでいた。稽古中とは打って変わって、肩を落とし、視線は地面に固定されている。彼の背中が語るものは、今まで美咲が目にしてきたどんな姿とも違っていた。


彼は完璧だった。舞台の上では、まさにその役を生きているようで、観客を瞬く間にその世界へ引き込んでしまう。だからこそ、今日の翔太には違和感があった。彼は、まるでその完璧さの影に押しつぶされているように見えた。


美咲は、何も言わず、そっと彼の隣に座った。しばらくの間、二人はただそこにいるだけだった。言葉がなくても、互いの存在を感じるだけで十分だった。


翔太はふと、美咲が座ったことに気づいたのだろうか。顔をわずかに向けたが、その表情はまだ固いままだ。美咲は、少し迷いながらも、何かを言おうと口を開いた。


「翔太さん……」


だが、その一言が出た後、美咲も言葉を失った。どうしても、続く言葉が見つからなかったのだ。翔太にかけるべき言葉が、今の自分にあるのだろうか。その疑念が、彼女を押し黙らせた。


再び訪れた沈黙の中で、美咲は自分がこの場にいていいのかを迷ったが、同時に、離れることもできなかった。翔太の隣に座っていることで、彼に少しでも安らぎを与えられるのなら、そうしたかった。


「……俺、何やってるんだろうな」


唐突に、翔太の声が静かに響いた。彼の言葉は、空気の中に溶け込むように、低く抑えられたものだった。美咲はその言葉に耳を傾けたが、すぐに何かを返すことはできなかった。翔太が語る「何か」が、今までの彼の姿とはあまりに異なっていたからだ。


「いつも、完璧でいなきゃいけないって思ってるんだ。みんな、俺にそういう期待をしてる……って、自分で勝手に思ってるだけかもしれないけど」


翔太は少し笑ったが、その笑いにはどこか虚しさが漂っていた。美咲は、そんな翔太の言葉に胸が締めつけられるのを感じた。彼がこんな風に自分を追い詰めていたなんて、想像もしていなかった。


「でも、最近、どうにもこうにも行かなくなってきて……」


翔太は目を伏せたまま、続けた。まるで、自分の内側で何かが崩れていくのを抑えられないかのように、彼の声は不安定だった。


「それで、稽古のたびにこう思うんだ。『俺は本当にこれでいいのか?』って……。でも、やらなきゃいけないし、やらないと、期待に応えられない気がして……」


その言葉に、いくらかの疲労が滲んでいた。翔太はずっと完璧であり続けようとしてきた。だが、それが自分自身をどれだけ追い詰めているか、彼自身も気づかずにいたのかもしれない。


美咲はただ静かに聞いていた。言葉をかけるべきかどうか迷ったが、今はただ彼の話を聞くことが一番だと感じていた。


「……俺、誰にもこんなこと言ったことないんだ。みんな、俺が完璧だって思ってるだろうし、俺もそう思わせてきたから。でも、美咲さんの前だと……なぜか、言ってもいいのかなって思うんだよな。不思議だよな、こんなこと」


翔太の声は、少しずつ柔らかさを取り戻していた。彼が語る言葉の中に、何かが解放されていくような感覚があった。


美咲は、胸が温かくなるのを感じた。翔太が自分の前で心を開き始めている。それは、彼女が予想もしなかった展開だった。長年、舞台の上で輝く翔太をただ一方的に見つめてきた美咲にとって、彼が自分にこうして弱さを見せることは、信じられないことだった。


「翔太さん……大丈夫ですよ。完璧じゃなくても。誰でも、そんな風に感じることってあると思います」


そう言いながらも、美咲は自分の言葉がどれほど彼の助けになるのか分からなかった。ただ、彼に何かしらの安心を与えられるのなら、それで十分だと思った。


「そう、かな……」


翔太は呟くようにそう言い、再び静かに目を伏せた。だが、その表情は少しだけ柔らかくなっているように見えた。美咲は彼の隣で、その変化を感じ取り、少しだけ安堵した。


それからしばらくの間、二人は何も言わずに、ただそこに座り続けた。時間がどれほど経ったのかは分からない。けれど、その沈黙は重苦しいものではなかった。不思議なことに、ただそこに一緒にいるだけで、二人の間には心地よい空気が流れていた。


翔太は、少し驚いていた。これまでの誰とも違う。彼女の前では、なぜか心が静かになる。最初に彼女と出会った時、感じた違和感はこれだったのかもしれない――彼女は、ただそこにいるだけで、彼に安らぎを与えていたのだ。


「美咲さん……ありがとう」


ふいに翔太はそう呟いた。それは、舞台上での彼が見せる華々しさとは異なる、静かな感謝の言葉だった。美咲は驚いたように彼を見たが、何も言わなかった。ただ、そっと微笑んだだけだった。その笑顔が、翔太の胸にじんわりと染み渡った。


二人は再び静寂の中に身を委ねた。その時間は、ただの無言ではなかった。少しずつ、翔太の心の中にあった孤独が溶けていくような、そんな温かな瞬間だった。




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