異変
稽古場の空気が一変したのは、翔太が役に入り込んだ瞬間だった。美咲はいつも通り、小道具の位置を確認しながら俳優たちの動きを追っていた。だが、その日、彼女の視線は翔太の姿に釘付けになった。
舞台の上で孤独に佇む彼の背中には、いつもの自信や余裕がどこにも見当たらなかった。代わりにそこにあったのは、言葉にできない深い苦しみ。彼の動き、表情、言葉の一つ一つが、まるで胸の奥に鋭く突き刺さるような切迫感を伴っていた。
台詞を紡ぐたびに、翔太の息遣いが荒くなる。彼の声が震え、体が微かに揺れるたびに、美咲は心の底から圧倒された。長年ファンとして彼の演技を見てきた美咲でさえ、今の翔太が見せる演技は今までとはまるで違っていた。これまでも翔太の演技には感動し、彼の才能に魅了されてきたが、今日の演技には別の何かがあった。それは、美咲の内側に重く圧し掛かるもの。彼の苦しみが直接的に自分にまで伝わってくるような、生々しい痛み。
「……苦しい……」
思わず美咲は呟いた。それほどまでに翔太の演技は迫真だった。彼が台詞を吐き出す度に、その言葉が美咲の胸を締め付けた。まるで、見ているこちらが押し潰されそうになるような感覚。彼の中で一体何が起きているのだろう?その問いが美咲の心に沸き上がる。これまで数えきれないほど舞台で彼を見てきた彼女だが、今日の翔太はどこか違う。演技以上のものが舞台に現れている。それが、彼の役そのものではなく、翔太自身の内側から生まれているのではないかと、そう思わずにはいられなかった。
稽古が終わり、翔太が舞台袖に戻ってくる姿を見た美咲は、彼に話しかけたかった。けれど、その表情は固く閉ざされていた。誰にも声をかけさせないような、孤独な影を纏っているように見えた。
「翔太さん……大丈夫なのかな……」
心配で仕方がなかった。彼の中で、何かが変わってしまったのではないかと。舞台の上で見せたあの苦しみが、役を超えて翔太自身のものではないかと、美咲は不安を覚えた。
———
一方で、翔太自身も自分の中で何かが崩れつつあることを感じていた。役に入り込むほどに、その役が自分自身に侵食してくる感覚。自分が演じる孤独が、あまりにもリアルすぎて、翔太の中でその感情が消えなくなっていた。
稽古が終わり、舞台の暗がりに一人取り残された時、翔太は静かに息を吐いた。しかし、その吐息さえも苦しかった。自分の胸に重くのしかかる孤独と、演じている役の孤独が、あまりにも重なりすぎていたのだ。自分の中でどこまでが役で、どこまでが自分なのか、もう分からなくなっていた。
「俺、こんなはずじゃなかったのに……」
翔太は自嘲気味に呟いた。完璧主義である自分が、こんなにも苦しんでいることを誰にも言えなかった。誰にも見せることができないこの弱さ。それがさらに彼を追い詰めていた。演技を完璧にしようとすればするほど、自分の内側にある孤独が溢れ出し、負の連鎖が続いていた。
だが、その限界に近い状態が、かえって彼の演技をより鋭く、深くしているのも事実だった。観客に伝わるのは、翔太自身の真の苦しみだった。その苦しみが、舞台の上で輝いて見えるのだ。彼が心の中で抱えている闇こそが、彼の演技に命を吹き込んでいる。
「こんな状態で続けられるのか……?」
翔太はふと、心の中でそう問いかけた。自分が演じる役を通して、限界を超えた感情を吐き出しているが、それは一時的なものでしかない。稽古が終われば、再び孤独な自分自身に戻るだけだ。演じることが彼の救いである反面、彼をさらに苦しめる呪いにもなっていた。
他の役者が演技をくりひろげるなか、稽古場の片隅に一人佇む翔太の姿を、美咲は遠くから見ていた。彼の背中が、これほどまでに重く、孤独に見えたことはなかった。翔太の中で何かが限界に近づいている。それを感じ取った美咲は、どうにか彼を支えたいと思った。だが、何をすべきか分からず、もどかしい思いが募っていった。