稽古場
数日後、手伝う日がやってきた。
美咲が稽古場に足を踏み入れたとき、そこは一見、何の変哲もない普通の空間に思えた。灰色の壁、無機質な照明、床に散らばる小道具たち。だが、どこか独特の空気が漂っている。日常の世界とは異なる緊張感と、何かが始まろうとしている高揚感が同時に存在する場所。
「ここで、私は何をするんだろう?」
舞台裏での仕事は初めてだったが、美咲は期待と不安が入り混じる感覚を楽しんでいた。取引先の頼みでここに来たものの、いつものオフィスとはまるで違う世界。彼女の胸は高鳴っていた。
だが、稽古場の扉を開けた瞬間、彼女の期待は一瞬にして別の形に変わる。
目の前に立っていたのは、あの橘翔太だった。
「えっ……?」
言葉にならない驚きが美咲を支配した。彼は舞台の上でしか存在しない、遠い世界の人間だと思っていた。その彼が、今、目の前にいる。無造作にかけられた黒いジャケット、リハーサル用の台本を軽く握ったその手、そして普段よりも柔らかい、だがどこか張り詰めた表情。
まるで現実と非現実の境界が曖昧になった瞬間だった。
翔太が顔を上げ、彼女と目が合った。
「……あれ? 君、もしかして今日から手伝ってくれるっていう子?」
その声が彼女の耳に届いた瞬間、美咲は体が硬直したまま何も言えなかった。まさか、ここで、こうして会うとは思ってもいなかった。舞台で見てきたあの人が、今こうして目の前にいる。それも、まるで普通の一人の人間として。
「は、はい、そうです。私、美咲といいます……」
何とか言葉を絞り出したものの、声が震えていたのが自分でもわかった。こんな状況、夢にさえ思わなかった。目の前の翔太は、舞台上の完璧な姿とは違う。だが、その柔らかな笑みや、少しばかり疲れた表情は、彼をより人間らしく感じさせ、さらに彼への思いが深まっていくのを感じた。
「よろしくね、美咲さん。これからしばらく一緒にやることになるから、気軽に声かけてくれよ。」
彼の言葉に驚きながらも、美咲は頭を下げた。彼が稽古に戻ると、彼女はその背中をじっと見つめた。舞台の上で神々しく輝いていた翔太と、今目の前にいる翔太。どちらも同じ人なのに、どこか違う。そして、その違いに美咲は心を揺さぶられていた。
この稽古場で、彼と一緒に時を過ごすことになるとは思ってもいなかった。美咲の頭の中には、今朝まで抱いていた普通の生活が遠く感じられ、この瞬間から新しい物語が始まることを予感していた。