きっかけ
美咲はいつものように、オフィスの机に向かっていた。午後の陽射しが窓から差し込み、薄いカーテン越しに空気が温かく感じられる。パソコンの画面に目を落とし、黙々と続けていた報告書の作成も、そろそろ終わりに近づいていた。
その時、デスクの電話が鳴った。
「美咲さん、ちょっと電話よ。」
同僚の千里が声をかけてきた。美咲は一瞬顔を上げ、電話を受けるために席を立つ。少し心がざわついたのは、珍しく取引先からの直接の電話だったからだ。
受話器を取ると、先方の担当者、斎藤さんの落ち着いた声が耳に届いた。
「美咲さん、ちょっとお願いしたいことがあるんだけど、今大丈夫?」
「ええ、大丈夫です。」
「実は、今度うちのクライアントで舞台公演をすることになったんだけど、ちょっとした手伝いが足りなくてね。君のスケジュール、空いてるかな?」
舞台、と言われて、美咲は心の中で少しだけ驚いた。舞台に携わる仕事と言っても、普段彼女の担当しているのは会計や契約の事務的な業務ばかりだった。舞台というものに直接関わるのは、もちろん初めてのことだ。
「手伝い、というのは具体的にどんな内容ですか?」
「小道具の整理とか、照明の簡単な確認だとか、舞台の裏方のサポートをお願いしたいんだ。もちろん難しいことをお願いするつもりはないから、気軽に手伝ってもらえると助かるよ。」
美咲は少し黙って考えた。確かに舞台裏で働くことは、普段とは違う世界に足を踏み入れるような気がして、何となく心が躍るような気がした。けれど、現実的に言えば、そんなことをしている暇はない。普段の仕事に支障が出てしまっては、意味がない。
「でも、私、舞台のことはよくわからなくて…」
斎藤さんは穏やかな笑い声を漏らした。
「大丈夫、君ならすぐに慣れるさ。それに、少しでも関われば、普段の仕事にも役立つ経験になるかもしれないよ。」
その言葉が、どこか引っかかった。普段の仕事には役立つかもしれない。そんなことを言われると、思わず美咲の心が揺れる。
「どうかな、君にとってもいいチャンスだと思うんだ。すぐに終わる仕事だから、もし興味があれば、ぜひお願いしたい。」
美咲は軽くため息をつき、窓の外に目をやる。晴れ渡った空に、どこか遠くへ行けるような気がした。でも、こんなふうに電話をもらえること自体が珍しいことだし、何かに挑戦するのも悪くはないのかもしれない。
「わかりました。お手伝いします。」
電話を切った後、美咲は自分の決断に驚きながらも、どこか胸が高鳴るのを感じていた。舞台裏で何をするのか、それはこれから知ることになる。ただ、ひとつだけ確かなことは、これから彼女の世界が少しだけ広がるのだということだった。