揺れ動く心
稽古場に足を踏み入れた瞬間、美咲は緊張に包まれた。数日前のあの夜が頭をよぎり、胸の奥で静かに波打つ感情を抑えようと、深呼吸をした。しかし、その思いとは裏腹に、翔太の姿を捉えると、鼓動が早まるのがわかった。
翔太は、ちょうど台本を手にして、役に没頭しているようだった。稽古場のざわめきの中で、彼だけが異質な存在のように感じられる。周囲の騒々しさをものともせず、彼は集中している。その表情には、まだ舞台の外で見せたあの孤独と苦しみが影を落としているかのようだ。それが美咲の胸に重く響く。今まで見ていた「完璧な役者」ではない、苦悩する一人の人間がそこにいることを、再び思い知らされる。
「美咲さん」
ふいに声をかけられ、驚いて顔を上げる。目の前には翔太が立っていた。いつの間に彼が近づいてきたのか、美咲には全く気づかなかった。その眼差しは優しいが、どこか不安定さも垣間見える。彼が抱えているものが、まだ完全には晴れていないことが、その瞳の奥に漂っていた。
「この間は、ありがとう。話を聞いてもらえて、少し楽になった気がする」
その言葉に、美咲は胸が熱くなるのを感じた。彼が本音を打ち明けてくれたことが、ただの偶然ではなかったのだと実感する。翔太の心に、ほんのわずかでも、美咲が居場所を作れたのだろうか。その思いに、美咲は自分でも驚くほど深く安堵し、同時に新たな感情が胸をよぎった。
「私でよかったら、いつでも…」
言葉が自然と口からこぼれた。舞台上ではない、もっと個人的な場所で翔太を支えたいという気持ちが、徐々に形を成し始めていた。その瞬間、翔太の目がほんの少し柔らかくなり、彼は小さく笑った。
「ありがとう。美咲さん、本当に」
その笑顔に、美咲の心はさらに揺れる。今まで感じたことのない感情が、静かに波のように押し寄せてきた。この人を支えたい――そんな強い気持ちが、心の中で徐々に大きくなっていくのを感じながら、美咲はただ、彼の姿を見つめ続けていた。
翔太は再び台本に目を戻し、少し離れた場所へと歩いていく。しかし、美咲の視線はその背中を追いかけ続けていた。彼の孤独に寄り添いたい、支えになりたいという気持ちが、自分の中で確かなものとなっていく。そして、それはただの「推し」としての感情ではないと、美咲はますます自覚するようになっていた。
その日の稽古が始まると、再び翔太は役に入り込み、その集中力は圧倒的だった。だが、今の美咲には彼が抱える苦しみが、演技の裏に垣間見える。誰にも知られず、表には出さないが、彼の内側で燃え続けるその火を、美咲は感じ取っていた。
そして美咲は心の中で、そっと誓う。この苦しみを、どうにかして和らげることができたらと。まだ言葉にできないけれど、何かが二人の間で確実に変わり始めていることを、美咲は感じずにはいられなかった。




