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第一部

「他者に対して憎悪を抱いてはならない」

「決して反撃せず、必ず自省すること」

「そして、何があっても暴力だけは振るってはいけないよ」

僕は、物心ついた頃からそう言われて育った。


初めてそう言われたときは、言葉が難しくてよくわからなかった。勿論、意味も理解していなかった。

だけど両親と会話する中で何度も聞いているうちに、言葉も意味も理解できるようになり、それは完全に正しい事だと思うようになった。

人間として正しく生きていく為に、守るべき大切な事だと。

僕は、そんな幼い頃から正しい言葉で教えてくれる両親を尊敬した。

幼い頃に言われた言葉というのは、たとえその時には理解できなくとも心の中に残り続けるものだから。それをわかったうえで、両親は僕に正しい教育を施してくれたのだ。

僕は、そんな両親の事が大好きだった。


僕の家庭は少し変わっていたように思う。

まず、父さんは研究者だ。

家の地下に研究室があり、日中は殆どそこに籠っている。

一度、何を研究しているの?と聞いたことがあったけれど、その時の父さんは僕を射るような目つきで見下ろし「世の中を平穏にする為の研究だよ」と言ったのを覚えている。

研究内容とは裏腹にその目つきは冷たく、それは僕に、この領域には興味を持つなと言っているように見えて、それ以来僕は、父さんに仕事の話は聞かなくなった。勿論、地下には一度も行った事が無い。

だけど普段は怖い人ではないんだ。

化学者に憧れがあるらしく、料理をする時には白衣を着て、薬品を調合するかのように慎重な手付きで作ってくれる。その様子は如何にも可笑しくて、よく母さんと二人でくすくす笑いながら見ていたものだった。

なのに出来上がってくる料理は至極まっとうで、いわゆる家庭の味だったから不思議なものだった。


母さんは人形技師だ。自立する人形を造っている。

でも毎日造っているわけではなくて、注文が入ってから造るらしい。

注文が入ると母さんもやっぱり、家の中にある作業室に籠りがちになる。

その間は父さんが代わりに家事をやったりして、僕もよく手伝ったものだった。

一度、母さんの造った等身大の女の子の人形を見たことがあったけれど、それは息を呑むほどに美しくて、胸が苦しくなるほどだった。

長い睫毛に澄んだ瞳、ほのかに赤い頬や唇はとても愛らしく、僕は人形に心を奪われるのではないかと思ったほどだ。

それは僕を異常に惹きつける魅力があったからかえって恐ろしくなって、それ以来僕は、母さんの仕事を見なくなった。作業室にも近づいていない。

ただ、注文が入ることは稀だったから、普段は僕とよく遊んでくれたし、読み書きや料理も教えてくれた。

そうして僕は学校に通う年齢になるまで、殆どの時間をこの広い家の中で過ごした。


6歳になった頃、僕は学校に通い始めた。

僕が初めて入ったクラスは、男の子ばかりの10人のクラスだった。

みんなどことなく闘争心を秘めていて、喧嘩が多い。

勿論、先生は居たのだけれど、先生は勉強を教えてくれるだけで、僕たちが仲良くやるかどうかに関しては全く関心が無いようだった。

僕は、何があっても暴力はいけないと信じていたから、殴り合いの喧嘩になりそうな時には必ず割って入った。まるで警察官のように。

その時の僕は正義感の塊だった。

そんな振る舞いをするのは僕だけだったから、みんなは徐々に僕を嫌い始めた。


共通の敵ができたから協調し始めたのか、それとも僕の活動の成果なのかはわからないけれど、みんなの喧嘩は少しずつ無くなり、平穏な日が増えていった。

僕に友達はできなかったけれど、喧嘩っ早い人が傍に居ても嫌だから、まぁいいか、などと気楽に考えていた。

そんな或る日、小柄で目つきが悪いA君と、大柄で声も大きいB君が何やら揉めているのを見かけた。

こう言ったら馬鹿にしていると思われそうだけれど、その様子は狐と熊の睨み合いのようでもあった。

しばらく様子を見ていたところ、何やら我慢の限界を迎えたようで、熊が狐に襲い掛かろうとしていたから、僕は咄嗟に二人の間に入り、熊の方を押さえた。

「暴力はだめだよ」

すると熊君は僕に唾を吐きかけるように言う。

「こいつがしつこく暴言を吐いてきたんだ。何も見てないくせに入ってくるなよ」

そう言われて僕は狐君の方を見た。

狐君は肯定するでも否定するでもなく、ただただ僕を睨みつけている。

無言の鋭い目つき――それに耐えられなくなって、僕は熊君に向き直り、言った。

「でもやっぱり、暴力はいけないよ。何があっても」

そう言って見た熊君の目は、僕を見ていなかった。

僕を通り越してその後ろを見つめ、目を丸くして息を呑んだ。

その視線につられて後ろを振り返ると、狐君が拳銃を構えていた。

まさか――。

銃口と目が合ったと思った瞬間、左眼に激痛が走った。

上下左右、重力も平衡感覚もわからなくなり、視界がグルグルと回って、僕は多分その場に倒れ込んだ。

左眼を手で押さえると、生温かいドロドロとした気持ちの悪い液体が溢れ出てくる。その感触で僕は余計にパニックになった。

叫んだかもしれない。喚いたかもしれない。

もう耳もおかしくなっていて、椅子の倒れる音や誰かの吼える声、大量の足音などが同時に聞こえて、頭の中は物凄い騒音が鳴り響いていた。

そんな中、何とか正常に戻りつつあった視界を手放すまいと目を凝らすと、狐の見下す顔が見え、その口が開いた。

「うぜぇな。死ねよクソが」

あまりにも想定していなかった言葉に僕は深刻なダメージを受け、そこで記憶は途絶えてしまった。


目が覚めると、真っ白な空間に居た。

視界がぼやけてまるで霧の中に居るようだったけれど、すぐに霧は晴れて白い天井が見え、すぐ左には白いカーテンが揺れているのがわかった。

此処は――?

そう思った時、右側から父さんが僕の顔を覗き込んだ。傍に母さんも居る。

僕はベッドに寝ていて、父さんと母さんが僕の目覚めを待っていたようだった。

「気がついたか」

父さんが柔らかな口調でそう言う。

僕は、どうなったの?

起きたばかりだからか声には出ていなかったけれど、視線で伝わったようで、父さんは答えてくれた。

「お前はクラスメイトにエアガンで撃たれたそうだ。至近距離だったから左眼は失明した。もう視力は戻らない」

「……失明?」

「そうだ。その眼はもう一生、見えないということだ」

今は包帯が巻かれているから勿論、見えないのだけれど、一生このまま見えないと思うと急に絶望と恐怖が襲ってきた。

包帯の巻かれていない右眼からは涙が流れる。

父さんは僕の額に優しく手を乗せて言った。

「だけどお前はよくやった。自分の身を挺して他の子を護ったんだ」

違う。別に誰かを護ろうとして撃たれたんじゃない。あいつは明確に僕を撃ったんだ。

僕は憎まれていた。激しい憎悪だった。僕にはそんな自覚は無かった。何故なら僕は、人を憎むという感覚をよくわかっていなかったから。まさかそんな感情が自分に向けられているなんて思いもしなかった。

「僕は……何が悪かったのかな……」

気づくとそう呟いていた。

「自分が撃たれたことについてか?」

父さんは訊く。それもあるけれど、それだけじゃない。

だけどそれを訂正して経緯を説明するだけの元気が今の僕には無く、僕は黙り込んでしまった。

少しの沈黙の後、父さんは言った。

「わかっていると思うけれど、決してやり返そうなどとは思うな。復讐しても意味が無いからな。その眼は戻らないし、憎しみの連鎖が生まれるだけだ」

「わかってるよ、父さん」

そう言ったものの少しだけ、薄暗い感情が心の底に落ちていくのを感じていた。

それを父さんに悟られないように、僕は母さんの方を見た。

母さんは僕を憐れむような目で見ていた。まるで汚れた子犬を見るように。

僕は、心のどこかで母さんが泣いてくれることを期待していた。僕の痛みに共感してくれると。

だけど母さんが言った言葉は意外なものだった。

「可哀想に……。左眼は、私が義眼を作ってあげるから心配しないで」

いや、僕が母さんに妙に期待しすぎていただけかもしれない。

「わかった……ありがとう」

僕はそう言い、再び眠りについた。

………。


それからしばらくの間、あの撃たれた瞬間の映像が僕に付き纏うことになる。

何かきっかけがあるわけではない、突発的にその瞬間が頭の中で再演される。

その度に僕は、考えるよりも先に暴言を吐いた。「お前が死ねよクソったれ」などと。

完全に無意識だ。いつも言ってしまってから我に返る。

幸い、他に人が居る場所ではその瞬間が訪れることはなかったけれども。

僕は、これが憎悪という感情だと理解した。


時は経って。

再び学校へ通えるほど、心身ともに回復した僕は、ドキドキしながら教室に入った。

僕を撃ったあいつをどんな顔で見ればいいか、みんなはどんな風に僕を見るのか、相当な不安が頭の中を巡っていた。

この頃まだ、義眼はできていなかったから、僕は眼帯をつけていた。だからきっと目立つだろうな……と思いながら教室の中に入る、と、そこには一人しか居なかった。一人がぽつんと席に座っている。

拍子抜けだ。

しかも悪いけれど、その一人のことを全く憶えていない。多分、目立たない奴だったのだろう。

僕は彼の席に近づき、声をかける。

「君、ひとり……?」

「そうだよ」

「他のみんなはどうしたの?」

岩肌に張り付くトカゲのように地味な彼は、僕の目を見据えて淡々と答えた。

「君が居なくなったから喧嘩を止める人が居なくなってね、みんな怪我したり怪我させたりで学校に来れなくなってしまったんだよ」

にわかには信じられなかった。そんなことがあるだろうか。じゃあここに一人残っている君はクラスで勝ち残った最強のひとり――?と思って身構えながら訊いてみたけれど、全然違っていた。

「僕は徹底的に逃げたんだよ」

そう言ってにっこりと笑う。屈託のない笑顔。そして彼は続けて言う。

「君はどうしてあんなに目立つことをしたの?放っておけば勝手に潰し合ってくれそうなのに。恨みばっかり買っちゃってさ」

笑顔とは裏腹に物騒なこと言うな、と思いながら

「だって……暴力はいけない……だろ?」

と言うと、彼はにっこりしていた目を少しずつ開き、ニヤつきながら言う。

「それはキレイゴトだよ。そんなんじゃ、餌食になるだけだよ」

なんだよ、餌食って。僕はムッとして言い返した。

「君は殴り合いの喧嘩を見ていて心が痛まないの?何もせずに見ているだけなんて共犯もいいとこだよ」

すると彼は僕の左眼を指差して言った。指先は見えない。

「その左眼は痛まないの?」

何が言いたいのかすぐにはわからず、僕は沈黙した。

「自分の身の安全こそが一番だよ」

彼はそう言って、この話は終わったとばかりに、ぷいっと窓の方へ顔を向けてしまった。

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