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MASK 〜黒衣の薬売り〜  作者: 天瀬純
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ラッシュアワー

「こちらは【八百万(やおよろず)のマンドレイク】というネイルオイル型の塗り薬になります。このお薬を市販のネイルオイルと同様に爪の生え際に浸透させるように塗ってください。すると、触れた人間に対してご自身の思念を送ることが可能となります。つまり、一時的にテレパシー能力を身に付けることができるのです」




 その日の朝の電車で痴漢に遭った私が公園のベンチで項垂れていると、薬売りだと名乗る男が声をかけてきた。そして、そのまま私の隣に座ると、アタッシュケースから薬を取り出して説明を始めてきた。


「人の身体には、神経が隅々まで張り巡らされております。そこでは、小さな電気信号によって“脳からの命令”いわゆる“思念”を手足、筋肉そして内臓へと伝えています。つまり体内の電気信号は“思念”を肉体へと投影させる“精神エネルギー”とも言えるでしょう」


薬を私に手渡して、彼は薬の説明を続けた。


「この薬を使うことによって、その“精神エネルギー”の活動領域を他の人体を通して拡げられます。それには貴方の“思念”が乗せられており、触れた人間に対してメッセージを送ることができるのです。例えば…」


すると今度は、アタッシュケースから一回り小さい同じ薬を取り出し、彼は自分の左手の爪に塗りだした。


「実際に使ってみると、どんな感じかお見せしますね。ちょっと失礼いたします」


そう言って私の肩を彼が薬を塗った左手で触れると、


『なに触ってるんだよ、この痴漢野郎っ‼︎』


「っ⁉︎」


とても低い威圧的な男性の声が唐突に頭の中で響いた。


「このように痴漢を犯す輩に対して強烈なメッセージを脳内に送ることができます。しかも、イメージすれば自身の声とは違うもので脅すことが可能となります」


(信じられない…、でも、確かに頭の中で聞こえた……)


「この薬があれば、痴漢を撃退することができるでしょう。おひとつ、いかがですか?」


しばらく戸惑う私だったけど、薬売りの彼が薬の効果を体験させてくれたことで決心した。


「ひとつ、ください」

「ありがとうございます。お会計は2,500円になります」


会計を終え、手渡された薬を少し眺めた。


(これで少しはなんとかなるんだろうか)


再び顔を上げると、そこにはもう薬売りの彼はいなかった。


* * *


 翌朝、いつものように家を出る前に例の薬を両手の爪にそれぞれ塗った。


(できれば、痴漢になんて遭いたくないんだけど)


その日は、いつも乗っている電車より1つ前の電車に乗って会社に向かうことにした。


(ああ、気が重い〜)


駅構内を歩きながら、どの男が痴漢野郎なのかを考えながら改札を抜け、電車に乗り込んだ。自宅近くの駅から会社付近の駅までは、基本的に線路が地下にあるため、1秒でも早くこの閉ざされた空間から抜け出したかった。


ゴトン、ゴトン…、ゴトン、ゴトン。


ほぼ満員の電車に揺られながら、私は車両の出入り口近くの吊り革を掴みながら強く祈った。


(なにも起きませんようにっ‼︎)


1駅。2駅。徐々にいつも乗り降りする会社付近の駅へと近づいていく。


ゴトン、ゴトン…、ゴトン、ゴトン。


車内はスマートフォンを手にして画面を覗く人が大半であった。


(会社まで、もうすぐ…)


「っ⁉︎」


さす、さすさす…。


(うっわぁ〜。マジか〜。嘘でしょ…)


もみ…、もみ、もみ。


(……揉むとか最っ低。昨日に続いて今日も⁉︎絶対に同じ人だ。狙ってやってるでしょ。見た目が弱そうだからって…。馬鹿にしてるでしょ‼︎)


私のなかでふつふつと怒りが湧いてきた。やがてそれは限界を超え、自分の背後にいる痴漢に鉄槌を下す覚悟ができた。私は意を決して、後ろで自分に触れている不届者の手首を思いっきり掴んだ。そして、考えうる限りの低い男の大声をイメージして、


『触ってんじゃねぇよ‼︎この痴漢野郎っ‼︎』


「ひっ⁉︎」


『ぶっ殺すぞ‼︎』


「ああっ、ごめんなさいっ‼︎」


車内中の視線が背後にいる痴漢に集まった。


「なんだ?」

「ちょっと、何?」

「あの人、誰に謝ってんの?」


訳もわからずに怯えている小太りの男を周囲の人達が口々に怪しむ。


(そうだ‼︎)


私は両隣にいた他の乗客のスーツの袖に触れた。


(薬売りの彼は、思念が薬によって他の人の体を通して拡がるって言った。だったら、満員状態のこの車両全ての乗客に伝わることをイメージして……)


『『『『『『この人、痴漢ですっ‼︎』』』』』』


「えっ⁉︎」

「痴漢⁉︎」

「嘘⁉︎どこ、どこ⁉︎」

「なんだよ、痴漢がいんのかよ?」

「ちょっと、やだ〜」

「マジで⁉︎痴漢⁉︎」


周囲が一気に騒がしくなった。それに伴い、私の背後にいた小太りの痴漢は一気に挙動不審となり、誰が見てもこの男が騒ぎの元凶であることが分かる有様となった。


(もう一押し‼︎)


『『『『この小太りに触られましたっ‼︎』』』』


「おい、マジかよ…」

「きもっ」

「最っ低」

「誰か、この男を捕まえたほうがいいんじゃないのか」

「車掌さん、呼ぼう」


周囲の視線を一身に集めてしまった男は必死に弁明し始めたが、乗客たちは自分たちの身を守ろうと彼から距離を置き始めた。


「ち、違います。わ、わ、私は何もやってないです」

「近寄んなっ‼︎」

「来ないでっ‼︎」


車内がより一層騒がしくなったところで、電車は会社近くの駅に停車した。ドアが開くと、男は勢いよく飛び出した。


「あっ、痴漢野郎が逃げた‼︎」

「おい、そいつ痴漢だぞ‼︎」

「気をつけろっ‼︎」


車内の騒ぎはホームにいた人達にも伝わり、男はますます注目された。改札まで逃げ切れないと思ったのか、痴漢は地下鉄の線路に降りて暗闇の奥へと走り出した。


(馬鹿な奴……)


痴漢が社会的に死んだことを感じ取ると、私は静かにその場を離れて会社へと向かった。


* * *


 私がその日の業務を始めた頃、通報によって駆け付けた警察の方々によって捜索が行われたが、逃げた痴漢は全く見つからなかった。それどころか、周囲の監視カメラを確認しても男の姿は記録の映像になかったそうだ。SNS上では、神隠しに遭ったのではないかと言われている。

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