駄菓子屋の店主
祖母が営んでいた駄菓子屋を継いで今年で9年。とくに大きなトラブルもなく、細々とやっている。幼い頃から母に連れられて、よく駄菓子を買いに訪れてきたので、祖母が大切にしてきたこの店には愛着がある。11年前、病で倒れたためにお店を閉じることにしたときの祖母はとても寂しそうであった。その後、紆余曲折あって私が継ぐことになったときは、とても喜んでいた。2年後、安心したかのように祖母は旅立った。私は、祖母に恥じないように地元の憩いの場であるお店を大切にしていこうと思っている。
入学シーズンが終わった4月下旬のある日、私はいつものように営業時間を終えて後片付けを始めた。普通ならば、その日の売り上げを確認したり、翌日の準備を行ったりしたら大抵は終わりなのだが、今日はもうひとつ大切な作業が残っている。この店の大切なお客様への納品だ。私は店の主だった駄菓子を1種類につき5個ずつ集めていった。やがて紙袋いっぱいに積み終わると、レジカウンターに置いてある黒電話の受話器を手にした。お客さんはただの置き物と思っているけど、それは半分不正解だ。この黒電話はある1人の人物のもとにだけ繋がる。
「さてと…」
受話器を片手に慣れた手つきでダイヤルを回し終えた私は、足元に置いてある駄菓子でいっぱいになった紙袋を持った。すると、いつもの男性の声が受話器の向こうから聞こえてきた。
「はい、お久しぶりです。沙月さん」
「いつもの用意したよ、漆黒」
「ありがとうございます。では、そちらと繋げますので受話器を置いてください」
会話の相手は、薬売りの黒衣漆黒。祖母の頃からのお店のお得意様だ。そのため、孫である私とは古くからの付き合いがあるので彼とはタメ口で接している。
(向こうは全く年老いていないけど…)
漆黒の指示通りに受話器を置くと、さっきまでお店のカウンターにいたはずが、一瞬で10畳ほどの和室に移動していた。掛け軸と生け花が飾ってある壁以外は襖で仕切られいる。部屋の中央には、旅館などでよく見られる黒い長方形のテーブルと1人がけの座椅子が2個ずつ向かい合うように置かれていた。それらを眺めるようにして部屋の隅に私が立っていると、襖が1箇所開き、
「こんにちは、沙月さん」
片手に封筒を持った漆黒が入ってきた。
「…ん?漆黒、作業中だった?」
目の前にいる彼はジャケットを羽織っておらず、グレーのシャツの左右の袖を捲っており、首元のボタンを2箇所ほど開けて、ネクタイをしていなかった。
「ええ、今日は朝から薬の調合をしていましてね。先ほどまで片付けの作業をしておりました」
「へ〜。あ、これ。今回分の駄菓子」
「ああ、ありがとうございます。先週は来客が何度かあって、消費がいつもより早かったので助かります。どうぞ、おかけになってください」
彼に勧められるまま、近くにあった座椅子に腰掛けた。向かい合うようにして彼も座ると持っていた封筒を私に差し出してきた。
「では、今回分の駄菓子代をお渡ししますね」
「はい、たしかに。…あ、そういえば」
代金を受け取った私はあることを思い出した。
「いつもの薬、そろそろ無くなりそうだから用意してもらえる?」
「ああ、もうそんな時期でしたか。ちょっと待っていてくださいね」
そう言って、彼は立ち上がると部屋をあとにした。おそらく普段薬を調合している作業部屋に向かったのだろう。彼にいつも頼んでいる薬は私が彼と知り合うきっかけになった物だ。
「お待たせしました」
紙タバコの箱よりひと回り大きい箱を持って彼が部屋に戻ってきた。
「では、いつも通りに1週間に1回1錠朝食後に服用するかたちで3ヶ月分、12錠入っております。お会計は3,600円になります」
「はいはい」
財布を取り出して、彼に3,600円ちょうどを支払った。
「3,600円…、地味に高いんだよねぇ」
「材料費が他より高いので。これでもお安くしているんですよ」
私が彼から購入した薬は【月の鐘声】という生理痛に効く飲み薬で、週に1回服用すれば、生理痛の痛みが7日間劇的に緩和される最高の薬だ。私の場合、中学に入る前に生理が始まったのだけど、他の人と比べて症状が重く、ひどいときは寝込むほどだった。それを見た母が祖母と話し合い、私を漆黒に紹介した。実は祖母も母もこの薬を飲んでいたことがあり、生理痛に関しては彼の薬をすごく信頼していた。とはいえ、彼と彼の作る薬の存在を祖母と母は私を除いて決して他の人に話すことはなかった。世間一般的な日本国内の法律に則った医薬品とは存在が異なる彼の薬を流通させるわけにはいかなかったからだ。そんなことをしたら混乱を招くことは目に見えている。この薬を特別に調合してもらえることは、我が家と彼との長年の信頼関係によるものだ。
「じゃ、用件はすんだからお店に戻してよ、漆黒」
「おや、もうお帰りになるんですか?」
「うん。このあと、地元の友達とご飯食べに行く予定があるから」
「そうですか。気をつけて行くんですよ」
そう言って、いつまでも私を子供扱いする彼が手を叩くと、私はお店の黒電話の前に立っていた。
(もう30過ぎた大人に何を言っているんだか…)
ふと、カウンターのほうに目を向けると1枚のメモ用紙が置かれていた。
『言い忘れておりましたが、次回の駄菓子の配達には、どんぐりガムを多めに入れといてください。知り合いですごく気に入った者がおりまして。 漆黒』
(まったく…。仕方ない。箱ごと持って行きますか)