殿方の好みは簡単に変わりますの?
ふんわり異世界貴族設定。
マティリアス国には年頃の王子が三人いる。王太子である第一王子、王太子が婚姻して子を儲けた後になるが臣籍降下し大公位を授かることが決まっている第二王子、そして隣国の王女の元に婿入りし公爵位を受ける第三王子。
全員年齢が近く婚約者を決める時に少々騒動になったが、それぞれ無事に伴侶となるものを得ている。
今宵は一年の中でも最も重要な王宮舞踏会が開催されている。一年の始まりを告げる新年の舞踏会では国王を始めとした王族に対し、国中の貴族に招待状が送られていた。
特に婚約を結んだ者、婚姻をした者、代替わりをした者は余程の事情がない限り必ず出席しなければならないと言われるほどだ。
王都にタウンハウスを持つ者は早めに王都に入り、この夜の為の準備を行い、遠隔の地に住む者は縁のある貴族の家を頼る事もあれば宿を取るなどして準備を行うのが通例である。
開始時間の数時間前から徐々に招待されている貴族が集まってくる。この日ばかりは王都の大通りは貴族の馬車が列を為し、平民達はその行列の邪魔にならないようにしなければならない。特に、馬車に家紋を刻んでいるのは高位貴族なので失礼があってはならないと通りに面した店などは早々に営業を終わらせている。
通りから一本奥に進んだ場所にある酒場などは早めに営業を始め、訪れる人々達と一年の始まりを祝うのだ。
王太子のジェラルドは筆頭公爵家の長女ジスレーヌ=ノヴェールと共に王族専用の控室にいた。艶やかで深みのある赤い薔薇の生花が豊かな黒髪を彩っている。薔薇の色と同じ濃い紅のドレスは王太子が自らデザイナーに意見を出して仕立てさせたものだ。赤は王太子の目の色で、元々黒と赤を好むジスレーヌの魅力を存分に引き立てており、彼女が彼女の兄に手を引かれ馬車から降りてきた時にはあまりの美しさと妖艶さに言葉を失ったものだ。すぐに言葉を尽くして褒め称えたけれども。
「ジェラルド様」
「なんだい、私の麗しいジスレーヌ」
「懸念していることがございますの」
「懸念? 何かあったのか?」
「わたくしの兄アルテュールの友人であるサミュエル=マルタン侯爵子息が、とある夜会にて子爵令嬢と知り合い懇意になさっているということですの」
「サミュエルか。ん? 彼は確か婚約をしていただろう?」
「ええ。わたくしの大事な友人のセレスト=ドゥメール伯爵令嬢とですわ」
「ドゥメール伯爵家は高位貴族の中では確かに爵位が下ではあるが、我が国にとって重要な港を有しているだろう? サンテルク領の持つワルメル港が無ければ我が国の発展はかなり遅れたと言われているほどだ」
頬に手を添え憂いを見せたジスレーヌがそっと溜息をもらす。ジェラルドはジスレーヌに何時でも心から微笑んでいて欲しいと願っている。だからこそ、彼女の憂いの要因になるものに対して少しばかり不満を抱いた。
幼い頃からの婚約者である彼女は、ジェラルドが初めて顔合わせをした時に心を奪っていった相手だ。彼女はジェラルドが好むもの、厭うものを細かく聞き、ジェラルドの理想へと達しようと努力を重ねてきた。ジェラルドもまたジスレーヌが望む理想の相手でありたいと勉学も武術もたゆまぬ努力をしてきた。
プラチナブロンドの髪と赤い目をした王族特有の色を纏うジェラルドは騎士ほどではないにしてもしなやかな筋肉をつけたそれなりに長身である。相貌はとかく美しいと言われるもので、兄弟の中で誰よりも周囲の視線を奪っているという自覚はある。そのジェラルドの隣に並んでも見劣りしないどころか、ジェラルドが添え物になっていると思わずにいられないのがジスレーヌである。
数代前の王弟が東方一とも言われた美しき王女と婚姻をしたのが始まりと言われるノヴェール公爵家は彼女のような黒髪の子供が多々生まれていた。美しい絹を思わせる髪の毛は緩やかなウェーブを描いているが、今日は複雑に結い上げられている。
彼女の侍女が時間を掛けて整えたのであろう髪の毛の項辺りでほんの少し後れ毛が出ているのが色気を生み出している。
髪の毛よりも青味がかった目はまるで太陽が昇るほんの少し前の朝のように澄み渡った深みのあるもので、東方の王女がその血に宿していた火の粉のような煌めく光を漂わせている。
真っ白の肌は吸い付くような触り心地がしており、毛穴など全くないと言えるほど肌理細やかで多くの令嬢たちの憧れであるらしい。
女性にしては上背があるが、形良く豊かな胸元ときゅっとくびれた腰、そしてドレスがマーメイドラインの為に腰から太腿にかけて美しい曲線が描かれていることが目に見えてわかる。このドレスは体にフィットするように作られている為、コルセットはソフトなものを付けている。胸元はしっかりと寄せ上げられているが邪魔なものは一切なく、締め付けなくても十分に細いウエストは彼女の徹底した管理と鍛錬のたまものである。
ジスレーヌの顔に、パーツがそれぞれ理想とする場所へ配置されている。そしてその配置はジェラルドの好むものであり、何時までも見続けたいと思う好ましさがある。
どれだけ周囲が美しい、愛らしいという女性がいてもジェラルドはジスレーヌこそが一番であり彼女を超える美しさを持つ女性を見たことがないと言い切る。国一番の白百合と評された清楚な己の母よりも、ジスレーヌの黒薔薇のような美しさがジェラルドの好みであった。
「どうにも、その子爵令嬢が愛らしいから、とお側に寄せているようですの」
「愛らしい……? マルタン侯爵家は外交を担当しているだろう。ドゥメール伯爵家との婚約はその外交を恙無く行う為の一端だったはずだが」
「ええ。ですのでセレスト様も婚約が決まってから、元々三ヶ国語は恙無く使えていたものに加え、更に二ヶ国語の習得をしておりますわ」
「サミュエルはアルテュールを介して紹介されたことがあるが、その時は婚約者がまさに理想的で良いと言っていたはずだが」
「その子爵令嬢と知り合うまでは間違いなく誰もが認める仲睦まじさでしたわ」
とある紳士クラブにてアルテュールから紹介されたサミュエルはどちらかというと軽薄そうな雰囲気ではあるけれども、婚約者を大事にしていることが話の端々から感じられていたというのに。ジェラルドは眉間に皺を寄せる。
外交を担当する家というのは、王族にも引けを取らぬ苦労をする。王族も諸外国からの賓客を相手に決して足を掬われぬようにしなければならないが、相手がこちらの国へ来る事に対しての応対をする。それに対して、外交担当はこちらの国から相手の国へ行かなければならず、求められる知識量は広く深くなる。
特にマルタン侯爵家は外交担当の代表であり、夫人も夫と共にその国へ赴き社交をしなければならない。だからこそ深い教養を学ぶ機会が得やすい高位貴族の令嬢を妻にすることが多い。それに国によっては妻の爵位も外交要素に含まれる。
今回の場合、ドゥメール伯爵家は確かにジェラルドの述べた通り高位貴族の中では爵位が下ではあるが、有している港の重要性が稀少価値を高めている。ワルメル港は多くの国が船を寄せている為、外交官たちが港について休息をとる際に王宮よりも先に諸外国と交流をしているほどだ。この港にいるドゥメール伯爵家が治めるサンテルク領の領民たちは最低でも二ヶ国語は話せている。そうでなければ貿易が滞りなく行われないからだ。
勤勉なセレスト=ドゥメールは才女としても名が知れており、ジスレーヌの話し相手として幼い頃から顔を合わせている。故に、ジスレーヌはセレストという女性をよく知っている。勤勉で聡明で、サミュエルを常に立たせながらも女性としての魅力を損なわないようにしている彼女の本来の気質というものを。
「セレスト様はサミュエル=マルタン様のことを大変お慕いしておりましたの……ですから、彼女は彼の理想の女性になろうと努力しましたの」
「理想の女性?」
「ええ。今までサミュエル様がお好みになられた女性をお調べになり、華やかよりは清楚、細身よりはグラマラス、嫋やかで守りたくなるような、そんな女性をお好みだと判断しましたの」
「清楚にしてグラマラスとは我儘だな」
「それでもセレスト様は文献をお調べになり異国の情報も入手し、彼の好む女性そのものになりました……ですが」
「何かあるのか?」
「本来のセレスト様は、一言で申し上げると苛烈です」
「は?」
ジェラルドはジスレーヌの口から出た言葉に呆けたような声を発する。ジェラルドはサミュエルから婚約者が守りたいと思わせるような繊細な女性だと聞いていた。それにセレストに対しての周囲の評価も変わらない。だからこそジスレーヌの言葉が信じられなかった。しかし彼の愛するジスレーヌは偽りは言わない。必要な時に必要な嘘を言うことはあるが、現時点においてそれをする必要はない。
二人が腰掛ける長椅子で隣同士に腰かけている、その距離は婚約者としては少しばかり近いが、幼い頃からこの距離感なのでジスレーヌは咎めない。憂いを帯びて頬に右手に手をそっと添えるジスレーヌの左手は膝の上にあるが、その手をジェラルドは取り続きを促す。
まだ彼らの入場の時間は訪れない。部屋の壁の前に立っている侍女も侍従も彼らに声を掛けないが、視界に入り声が届く距離にいるジェラルドの一番の侍従は無表情でありながら続きを聞きたそうな雰囲気を醸し出している。
「セレスト様はワルメル港に自ら赴き多くの外交官と交流を持つほどの積極的な方です。その理由は主に書籍の入手の為ですが、彼女はボードゲームの名手でもあります。外交官たちはセレスト様とのゲームを大変楽しみ、そして彼女に多くの知識と知恵を与えました」
「なるほど。確かに王宮を訪れる外交官の中にはドゥメール伯爵家の接待を喜んでいたと言っている者がいたが、セレスト嬢とのボードゲームも含まれるのか」
「はい。セレスト様のゲームの戦略は一撃必殺、です。巧みに地盤を作り時期が来れば一気に攻め入り防衛もさせない。彼女が男性で今が戦乱の世であれば間違いなく軍師としての才があると思わせるほどの精密さです」
「一度私も勝負をしてみたいな」
「是非。わたくしはセレスト様相手に勝てたことはございませんのよ」
ジスレーヌもボードゲームの腕前はかなりのものだが、その彼女をして一度も勝てたことがないというのは相当である。それよりも、ジスレーヌの口から一撃必殺という言葉が出たことに驚きが隠せない。中々に過激な言葉である。
「一見すれば清楚な彼女ですが、本来は赤や黒、金などの華やかな色合いが好きですし、好む花は薔薇。化粧はサミュエル様に合わせて大人しくしていますが本来の彼女の好むものではありません。しかし、それも全てはサミュエル様の為でしたのよ」
「愛する者の為に己を抑えているのか。それで、サミュエルが今惚れている女性というのは?」
「今まで聞いていた理想の女性とは全く異なります。活発的でスレンダーな体型、守りたくなるというよりは守ってくれそうな元気の良さ、だそうですの」
「真逆だな」
「ええ、真逆ですわ。ですからお伺いしたいのですが……殿方の好みは簡単に変わりますの?」
ジェラルドは少なくとも幼い頃から一貫して好みの女性はジスレーヌであったしこれから先も変わることはないという自信がある。そもそも好みというのは早々に変わることはない。外見でいえば胸が豊かな方が好きというのもあれば逆が好きだという人もいるだろう。積極的な女性が好きという者もいれば控え目な女性が好きという者もいるだろう。
傍に控えている侍従はとある侯爵家の三男坊で実家にいるよりは働いている方がいいと王宮に上がり、聡明さからジェラルドの侍従に引き立てられた。本来であれば側近としての登用の方が家の為にもいいだろうが、王太子の侍従ともなれば公私共に控えることになり、側近よりも更に内面に近付くことになる。その方が面白いのだとそれなりの時間が経過して侍従は言っていた。
その彼の好みはまさにセレストのような女性だ。清楚そうな外見にグラマラスな体型、聡明で性格はどちらかと言うと強そうな方が好み。案外この侍従にセレストを会わせたら惚れるのではないだろうかとジェラルドは思う。
それはそれとして、好みは割と一貫しているし、全部が当てはまらなくても一つくらいは該当する。だというのに一つも当てはまらないのに好むものなのかとジェラルドは首を傾げる。
「そしてこれが大問題なのですが……本日のセレスト様のエスコートはサミュエル様ではなくセレスト様のお兄様です」
「何? それは本当か?」
「ええ。ドレスも装飾品も何も贈られず、エスコートの打診もございませんでした」
「マルタン侯爵家はどうした。彼らはこの婚約の意味を誰よりも知っているだろう」
「サミュエル様の独断ですわ」
マルタン侯爵家とドゥメール伯爵家の婚約には王家も関与している。外交担当の頂点に立つマルタン侯爵家と貿易のかなめであるドゥメール伯爵家に軋轢が生じないように国としても慎重にならざるを得ない婚約だ。更にセレスト自身は次期王太子妃であるジスレーヌの最も親しい友人であり腹心ともいえるべき立場にある。ジスレーヌの家であるノヴェール公爵家の後ろ盾があるセレストは決して軽んじてはならない相手だ。
そのセレストをこの大切な新年の王宮舞踏会でエスコートしないことの意味。
「ドゥメール伯爵家は招待状を受け取りしばらくの間は様子を見ました。しかし、何の音沙汰も無かった為、見切りを付けましたわ」
「っ……ハイゼン、国王陛下へ今の話を直ぐに伝えろ。今であれば少しは話せる」
「畏まりました」
ジェラルドはじわりと嫌な汗が浮かぶのを感じる。国にとって最も重要な港を有しているドゥメール伯爵家。王家としては決して敵になりたくはない重要な地を治めている。特に諸外国はドゥメール伯爵家の評価が非常に良いのだ。何度か陞爵の話が出ても彼らは断り続けていた。爵位が上がりすぎると下位貴族との関わりが難しくなるから、というのが主な理由だ。
議会からも数年に一度は話が出されるくらいには信頼されている家だ。その伯爵家が見切りをつける、その意味。
侍従のハイゼンも顔色をほんの少し悪くしながらも静かに、しかし素早く部屋を出る。侍女たちも落ち着かない様子だ。王宮に勤める侍女や侍従は必ず貴族である。そしてどこかの派閥に属しており、マルタン侯爵家の派閥にいる者の顔色は悪い。すぐにでも家の者にこの話を伝えたいに違いないが、王太子のいる場での会話を外に出すことは許されない。
程なくしてハイゼンが戻ってくると顔色が悪いままジェラルドとジスレーヌに声を掛ける。
「陛下が、直ぐにでも来て欲しい、とのことです」
「わかった」
「直ぐにお伺いいたします」
ジェラルドは、ジスレーヌであればもう少し早くこの話が出来たのではないか、と考える。少なくともエスコートをされないということと見切りを付けたことはわかっていたはずだ。
そしてジェラルドは気付く。ジスレーヌは怒っているのだ、サミュエルに。この重要すぎる場を利用してセレストはサミュエルの不貞を周囲に知らしめる。それをジスレーヌは認めた。
ジスレーヌにとって重要なのはマルタン侯爵家よりもセレストで、国にとってもどちらを選ぶべきなのかを考えた時にドゥメール伯爵家を選んだ、それだけの話。
外交官は挿げ替える事が出来ても港を有する伯爵家を挿げ替える事は出来ない。彼らが積み上げてきた実績は他家に変えることが出来ない。
待機室から国王たちのいる待機室まではさほど距離はなく、直ぐにつくと中に入る。奥には国王と王妃がそれぞれの椅子に座し、顔色の悪いマルタン侯爵と夫人が長椅子に揃って座っている。空いている長椅子にジェラルドは座り、その隣にジスレーヌは腰掛けると国王は大きな溜息をつく。
「して、侯爵。如何する」
「速やかにサミュエルは領地に送り静養させます。第二子も同様の教育はさせておりますので後継者には問題がありません。婚約に関しましてはドゥメール伯爵家との話し合いを望みます」
「ふむ。ジスレーヌ嬢、お主はセレスト嬢からどのように聞いておる」
「はい。セレスト様は速やかな婚約の解消を願っておりますわ。王国に住む貴族にとって最も重要なこの舞踏会にエスコートされない、その意味を分からない者はおりませんもの。そして、後継者が変わられたとしても婚約の継続の意思はございません、と仰ってましたわ」
直接意見を求められたジスレーヌは優雅に笑みを浮かべる。美しく艶やかな笑みは何度見てもジェラルドの心を奪っていく。それがこのような緊迫した場であっても、だ。ジスレーヌの言葉にマルタン侯爵夫妻は項垂れる。彼らはセレストを知っている。何せ、婚約前に彼女がどのような人物であるかを見定めた上で打診をしたのだから。サミュエルの為に自我を抑えて大人しくしているけれども、その本質が変わることなどないと歳を重ねた彼らは知っている。
だからこそ一度でもセレストが切り捨てたのであれば次は無いと理解してしまった。
「この婚約は陛下のお名前もございます。その責任を取り、今の長官の座を退きます。しかし、職務に関しましてはすぐに引き継げるものではありません。第二子の教育と共に後進の指導が完了しましたら直ぐに私は隠居し襲爵させます。無論、ドゥメール伯爵家との婚約はこちらの有責で解消、慰謝料等は支払います」
「わかった。間もなく舞踏会も始まる故、サミュエルがこの場にいるのであれば速やかに引かせよ。決してドゥメール伯爵家と問題を起こすな」
「畏まりました」
どうにか水面下で話を終わらせようとしていたはずだった。
誰もが出来るだけ平穏な終わりを目指していたはずだった。
ただ、恋に狂った愚か者は予想外の行動をするということを常識的な彼らは予測しなかっただけで。
「失礼いたします。会場にて問題が発生しました」
「申せ」
扉の外がやけに騒がしく、国王の侍従が話を聞きに外に出るもすぐに戻ってくる。そして国王から促された侍従はマルタン侯爵夫妻に哀れみを含んだ視線を向けた。それだけで彼らは最悪の事態を理解したのだろう。
「マルタン侯爵家子息のサミュエル様が、ドゥメール伯爵家令嬢セレスト様に婚約の破棄を申し出ました。衆人環視の中、セレスト=ドゥメール様の有責である、と」
「なんだとっ! 陛下、申し訳ありませんが直ぐに参ります。おい、行くぞ」
「ええ。両陛下並びに王太子殿下、ノヴァール令嬢、礼を失し申し訳ございません」
マルタン侯爵夫妻は顔を真っ白にしながら部屋から出ていく。国王と王妃、王太子が並んでいる中でのこの退室は無礼以外の何物でもない。しかし状況が状況だ。見逃すしかない。
先ほどまで出来るだけ穏やかに終わらせるはずだったものが、より悪い方向に向かって行くことだけは誰の目にも明らかだった。
結果として、サミュエルは廃嫡となった。衆人環視の下で婚約者ではない子爵令嬢をエスコートし、セレストに婚約の無断破棄を申し出た非常識さは侯爵家でどうにか出来るものではなかった。貴族籍を剥奪された彼は平民となり、同時に国が関与した婚約を無断で破棄しようとした罪により鉱山での労役を課せられた。
子爵令嬢は国が関与した重要な婚約を壊した罪と、高位貴族のドゥメール家の令嬢を貶める為に嘘偽りをサミュエルに吹き込んだ罪が適用された。結果、彼女は犯罪奴隷として労役を課せられることになった。
修道院は犯罪者の流刑先ではない。犯罪を犯した者は適切に裁かれなければならない。仮令貴族であっても法がある以上は逃げ出せない。
マルタン侯爵家とドゥメール伯爵家は王家が場を設け話し合いをし、婚約の正式な解消をした。全ての責はサミュエルにあるとし、慰謝料は受け取ったものの想定よりも少額であった。
「我が家は困窮しているわけでもないですし、過ぎた金銭は身を滅ぼします。それよりも、貴家の新たなる後継者育成には更に金銭が必要になりますし、失った信頼を回復するのには苦労するでしょう。しばらくの間取引も困難になる。その時に金銭というのはあればあるほど良いのですよ」
ドゥメール伯爵はセレストの名誉が傷つかないのであればそれでいいのだと鷹揚に頷く。そもそも強烈な上昇志向がないドゥメール伯爵は己の娘の苛烈な性格を理解しているので、無駄に関係を残しておきたくはなかった。下手に禍根を残すよりも多少の恩を与えた上で関わりを望まなければ縋られることもない。
セレストは、耐えに耐えてきた時間を無駄にさせられたと徹底的にサミュエルを追い詰めようとしていたのだ。それをどうにか抑え込んだ、それだけで十分に疲れたドゥメール伯爵を正確に理解出来ていたのはジスレーヌだけだろう。
◆◆
「何故、俺がセレスト嬢と見合いを……」
「お前の好みだろう? セレスト嬢は」
「まあ、そりゃそうですけど」
ジェラルドの侍従のハイゼンはマルタン侯爵家と同じ外交を担当するアルバルド侯爵家で、マルタン侯爵家に代わって新たな長官の座に彼の父がついた。アルバルド侯爵の夫人は隣国の公爵家出身で侯爵に惚れ込んで押しかけてきた逸話を持つ強烈な女性だ。王太子妃候補にも上がったことがあり言語に関しては問題なく、外交に出ることにも慣れている。跡取りも同じように積極的な女性を妻にしておりすでに外交をしている。
そこに来てハイゼンはジェラルドにセレストとの見合いを持ちかけられている。
「ふふ。セレスト様は乗り気ですわよ。ジェラルド様にお伺いしましてハイゼン様のお好みを伝えましたところ、素の自分でいいのだと安堵しておりましたわ」
「ですけど」
「ハイゼン。ジスレーヌが望んでいるのだ。とにかく見合いはしろ、いいな」
ジェラルドは一貫してジスレーヌ至上を変えない。この見合いもジスレーヌが望んだから、という理由で場が設けられた。とは言えども公にするには時期が悪いので、ジスレーヌの親友を招いたお茶会に、年の近いハイゼンも交えて、という体ではあるが。
年が明けて間もないこの時期はまだ寒く、温室での小さなお茶会となったものの、温室で育てられている美しい赤い薔薇は見頃である。
ジェラルドがジスレーヌの手を取りエスコートしながら温室へ向かうその後ろを歩くハイゼンは二人に感づかれないように溜息を漏らす。話を聞く限りは間違いなくその性格は好みだ。強烈な自我を抑制出来るほどの強い理性を持ち、愛した人の為ならば努力出来るところは尚よい。外見はグラマラス。存外派手な色を好むということだが、母も義姉も強烈で目立つような性格をしているし恰好も派手なのを好むので慣れている。
頭も良くジェラルドの外遊についていくハイゼンは当然ながら数か国語の習得を求められこなしているが、それと同等の能力があるのであれば結婚相手としてはまさに理想だろう。
楽しそうに会話をする高貴な二人の後ろでハイゼンは間もなく到着する温室への歩みが重くなるのを感じる。
結婚願望は正直なかった。三男として生まれた以上は爵位を貰えるわけでもなく、ただ働くことしか出来なかった。しかしそれでも少しくらいは結婚に憧れはあったし、叶うならば自分の子供だって欲しい。
「セレスト様、お待たせしましたわ」
「ジスレーヌ様、お久しぶりにございます」
「セレスト嬢、よく来てくれた」
「王太子殿下、この度はジスレーヌ様のお茶会にお誘い頂きましてありがとうございます」
「気楽にするといい。セレスト嬢、この男がハイゼン=アルバルド。私の侍従で信頼している男だ」
「初めまして、セレスト=ドゥメール嬢。殿下より紹介いただきました、ハイゼン=アルバルドです。よろしくお願いいたします」
「アルバルド様、セレスト=ドゥメールにございます。よろしくお願いいたします」
温室の中にはジスレーヌよりも背は低いが、金色の美しい真っ直ぐな髪の毛をハーフアップにし、赤い薔薇の飾りを差し込んだ、赤いドレスを身に纏ったそれは見事な体型をした女性がいた。
どこか曖昧だった理想がばっちりと嵌まり込んだ、そんな感覚だ。ジェラルドがジスレーヌを見た瞬間に心を奪われたと常日頃言っているが、それを鼻で笑っていた。そんなものはあるわけないだろう、と。それを謝罪したい。一目惚れとは存在するのだ。
ジスレーヌと並んで華やかな外見のセレストの目はきらきらとしている。好奇心を隠しても目には如実に表れるもので、ハイゼンを値踏みしている。どちらかと言うとハイゼンは真面目ではあるが少しばかり軽そうな雰囲気をしている。敢えてそのようにしている。ジェラルドの絶対的な味方でいる為には真面目なだけではやっていけない。先進的な考えを持つジェラルドの思い付きに対応する為に、真面目だけではどうにもならない場面を乗り越える為のものだ。それは何時しかハイゼンに良く馴染み、真面目と軽さが絶妙に同居するようになった。
「アルバルド様、色々お話をお伺いしてよろしいですか?」
「ええ、是非。それと、俺の事はハイゼンと呼んでください」
「まあ。では私はセレスト、と」
王太子とその婚約者が二人で薔薇を愛でている時にお茶を飲みながら会話をすれば、直ぐにセレストの聡明さが理解出来た。どうしてこんな素晴らしい女性を捨てたのか、話を聞いていてもサミュエルの思考がハイゼンには理解出来なかった。
だが、彼が彼女を捨てたので、彼女がサミュエルを見切ったのでこうして素晴らしい女性に接する機会を得たハイゼンはそれはそれで良かったのだと頷く。
この日より一週間後、アルバルド侯爵家からドゥメール伯爵家に婚約の打診が為され、それから一か月後には婚約の締結が為された。
ジェラルドは国王になってからも側室を持つことなく王妃となったジスレーヌ唯一人を愛しぬいた。彼は生涯に渡って「私の理想の女性はジスレーヌである」と言い続けた。そして彼の腹心の部下であり侍従である男はジスレーヌの親友を妻にしていたが、彼もまた妻を一途に大事にし続け、彼らが妻を大事にする姿は多くの女性達の理想であると言われるほどであったという。
サミュエルが子爵令嬢に心移りした理由はありがちなコンプレックス刺激型で、正反対の女性によってコンプレックス解消されたから、というものです。
後は普通におバカだったのでしょう。
ところで、修道院は流刑地でも収監場所でもないので罪人はちゃんと労役を課されます。
修道院を収監場所や流刑地扱いするの、何となく好まないのは私の母校に修道院があったからです。