9 手放せないそれぞれの真実
9 手放せないそれぞれの真実
上条春樹
そのことを知っているのは家族の中でも祖母と当時中学生だった俺だけ。両親に加えてまだ退職していなかった祖父は仕事で忙しくしていたから。
「ね、春樹君」
「何?」
「暎万ちゃんが学校から帰ってきてから最近変なんだよ」
「え?」
とある日、中学から帰ると祖母にそう言われた。
「普通だったら宿題とかする前にテレビ見ながらおやつ食べるの。暎万ちゃんはいつも。それから、宿題も自分の部屋でなくてここでやるじゃない。テーブルの上で」
「ああ」
「それが、昨日も今日も帰ってきたらすぐに階段上がって自分の部屋に閉じこもっちゃうんだよ」
「へぇ」
確かに変だった。妹らしくない。
「ちょっと様子見てきてよ」
祖母に言われて、学生服のまま上へ上がり妹の部屋をそっと覗いた。妹はカーテンを引いた薄暗い部屋の中でベッドにうつ伏せに横たわっていた。そっと中に入り覗くと、そのままの姿勢で寝ていた。そして、その顔に涙を流した痕があった。
次の日、俺は適当なことを言って午後の途中で授業をサボり早退した。そのままの足で小学校へ来た。妹のよく遊んでいる友達の女の子に学校での様子を聞こうと思ったからだった。
校門の見える公園の中で妹が出てくるのを待った。しばらくすると、妹が友達と出て来た。俺は学生鞄を肩に担いでちょっと離れたところからついていった。妹達と自分の間には三人の男子生徒がいて、同じ方向に向かって歩いていた。そのまま進んでいくと、学校の付近では静かだった男子が人もばらけて来たところで、騒ぎ出した。
「やーい。暎万、このでーぶ」
「もう、学校来んな」
「ちょっとやめてよ。毎日毎日」
暎万の友達が妹を庇って、言い返す。彼女の陰から暎万が両手で耳を覆って下を見ているのが見えた。
「うるせー、ブス」
「でーぶ。暎万のでーぶ。お前なんか生まれてこなきゃよかったのに」
わざわざ暎万の友達に聞くまでもなく、現場に出くわした。俺はスマホでその様子を撮りながら、後ろから追い掛けて近くへ寄った。
「君たち、名前、一人一人教えてよ」
動画を撮りながらそう声をかけると、キョトンと三人がこちらを見た。その顔は普通の小学生だった。特別に悪人面というわけじゃない。
「言わないでも、顔はとったし。持ってくとこ持ってけば、名前くらいすぐ調べられるけどね」
「あんた、誰?」
「上条春樹。そこにいる上条暎万の兄です」
暎万が顔をあげて俺を見た。
「いじめって犯罪になるんだよ。これ証拠だから」
俺はスマホを指差した。
「なにデタラメ言ってんの?」
「デタラメじゃないね。出るとこ出たら、君たち出席停止になるから」
さっきまで威勢よくしていた三人の顔色が悪くなって来た。
「あまり悪質なら、転校してもらう。学校代わりたい?」
「なんだよ。うっせえな。そんなん知るか。行こうぜ」
三人のうちで一番背の高いやつがそう言って声をかけると、駆けて行ってしまった。
振り返ると、怯えた顔をした友達の横で、暎万が家では見せたことがないようなひどい顔をして立っていた。
「ごめん。ありがとうね。妹は俺が連れて帰るから。暎万、行こう」
帰り道、暎万は一言も話さなかった。ただ、家が近くなって来たときに不意に口を開いた。
「お父さんとお母さんに言わないで。お兄ちゃん」
俺が振り返ると、ランドセルの肩紐を右手と左手と一つずつしっかりと握りしめて、じっと俺を見ていた。妹の背後に夕日に染まる空が見える。
「どうしても?」
「心配かけたくないの」
「わかった」
そういうと、また歩き出した。
「お前、あんなこと何回もされたの?」
前を歩いていた妹は何も答えなかった。
そして、次の日の朝、暎万はベッドから起き上がれなかった。
「どうしよう。春樹君」
祖母はそのとき、出張で留守だった父か母に相談するべきだと言った。
「おばあちゃん、それは、暎万が望まない」
「でも……」
「とりあえず今日は休ませて、様子を見よう」
特に自分に非があったわけでもなく傷つけられる。昨日見たようなこと、世間ではよくあることなのだろう。この世は常に純粋な善意で構成されているわけじゃない。ただ、自分の家族があんな風に侮辱されることは許さない。是が非かなんて高尚なテーマでなんて悩まない。家族がやられたら、考えるまでもない。二度とそんなことはさせない。それは熱い薬缶に触れて、ぱっと手を離す、そんな反射的な行為でしかない。
その日、俺は暎万の担任の教師に連絡を取った。放課後に学校まで行くので面談の時間をとってほしいと。中年の女教師だった。
「あらー」
動画を見せた時のあの反応にイラっとした。
「男の子ってしょうがないわね」
「そういう問題じゃないでしょう」
そういうと、笑っていた口元をキュッと絞った。
「お兄さん、今、中学何年生?」
「二年生です」
「あらぁ、しっかりしているのね。H校でしょ?頭がいい子は違うわねぇ」
どうして世間にはこういう無責任な大人というのがいるのだろう?よりによってそれが教師をしているなんて。ここで腹を立ててしまってもしょうがないと怒りを鎮める。
「2度とこういうことがないようにしてもらえませんか?」
「そうは言っても、これは学校の外で起きたことですし。教師だって身は一つですから、学校の外で起きることまで見張ることはできないんですよ」
そう言って身をくねくねさせた。
「親御さんに話すくらいならできますけど。ね、ほら、やっぱり親がしっかりしてもらわないと。こういうことは」
「今回は大事にすることは考えていません」
「どういうこと?」
「本人が両親に言って欲しくないと言ってますから」
「え?じゃあ、保護者への注意は行わないということ?」
自然に見えるように装いながら、面倒なことが一つ減ったと喜んでいるのがよくわかった。
「でも、先生から本人たちへの注意と、今後似たようなことが起きないように管理をお願いします」
「それはもうしっかりと今後は注意いたします」
「念書を書いていただけませんか?」
「は?」
そこでギロリとこちらを見た。中学生のガキだと思ってなめてかかっていた大人。その時だけ、本性むき出しの表情になった。
「もし、今後、同等のことが起きたら、先生は何をして償ってくれますか?そのことを書いて署名をくださいませんか?」
「ふざけてるんですか?」
「子供だと思って舐めんなよ。大事な家族が傷つけられて、こっちは怒ってんだ。2度とこんなこと起こさせないのはあんたの仕事だろ?先生?」
僕はペラリと紙を出した。
「こっちで用意してやったから、ここに署名してよ。先生」
「こんなものに単独の判断で署名なんてできません」
さっきまでの適当な受け答えと打って変わった。
「しょうがないね。まぁ、でも、会話は録音させてもらったから。俺から説明したって記録はあるからね。うちの親が知らないからって甘く見ないでね」
それだけ言うと、職員室を出た。役に立たない教師だと思った。だけど、何もしないよりマシだろう。それから、回り道をして帰る。昨日の三人組のうち、ボス格の男の子の名前と家を暎万の友達の女の子から聞いてあった。今日は塾に行っているはずだと聞いていた。小学生が通う進学塾の前で待ち伏せしてやった。
「よお」
授業が終わって出口からぞろぞろ出て来た中に見つけた。声をかけると、ギクッとした顔で立ち止まった。
「お前のこと調べたよ。ほら、簡単だったろ?」
「何の用だよ」
「昨日、言ったことを冗談だと思われると困ると思ってさ」
「……」
「もし、もう一回妹になんかやったらさ。お前の親にも言うし、裁判所とかにも出すから」
「そんなんできるわけない」
「できるかどうかやってみなきゃわかんないだろ?」
「……」
「それと、先生にはさ、もう話しちゃったから。もしかしたら明日とか、色々聞かれるかも」
自分より四つ下の子供の目を真っ直ぐ真っ正面から見てゆっくりと言ってやった。
「じゃあ、もう用はないわ」
とりあえずはこのくらいで。また何かあったら考えようと思って、家へと帰る。
だけれど、妹はその次の日もベッドから起き上がれなかった。朝、ベッドの脇で妹と話した。
「こんなんに負けちゃいけないって思うんだけど」
「うん」
「学校行かなきゃって思うと、お腹が痛くなる」
そう言うと、悔しいと言って、お布団を持ち上げて顔を隠して少し泣いた。
「暎万は負けちゃいけないって思ってるの?」
「うん。だって、わたしは何も悪くないのに」
「そうだね。悪くないね」
「でも、学校行って、あの子たちに会うと思うと、怖いの」
「うん」
「こんな自分が嫌い」
多分今日は俺遅刻するわと思いながら、でも、まだベッドのそばに座っていた。静かに泣いている妹のそばに。家族に知られまいとぴんと張っていた糸が、俺に知られたことで切れてがんばれなくなったんだと思う。
「絶対に負けないと思いながら、でも、ゆっくり頑張ればいいんじゃん?」
「ゆっくり?」
布団から目だけでた。
「うん。とりあえず、今日は休め。それで、好きなもん食って、好きなテレビでもみて、楽しめよ」
そう言ってから、頭をポンポンと撫でた。
そして、その日、確かに自分は遅刻した。一限の途中にガラガラと扉を開けて入ると、現国の女教師の甲高い声が飛んで来た。
「すみません。学校来る途中で、通り過ぎる車に泥水ひっかけられて、制服泥だらけになっちゃったんで」
クスクスと俺の言い訳聞きながら笑うクラスメートが何人かいる。
「今、着てるのは綺麗じゃない」
「うち帰って着替えたんですよ」
「だって、普通、制服はそう何着もないでしょ?」
「うち、金持ちなんで」
クスクスの人数が増えた。
「今日、雨なんか降ってないじゃない」
この先生、おばさんだけど、ムキなっちゃって可愛いなとふと思う。
「先生、俺なんかに真面目に付き合ってると、授業時間無駄にしちゃうよ」
とうとうみんな声を出して笑い出した。プンプンしていたその女教師は諦めて俺を席に座らせると、つまらない授業を再開した。
そして、暎万が三日連続して休んだ日の放課後に、家の前に男の子が立っていた。立って、我が家を見上げていた。
「うちに何か用?」
そう声をかけると俺をまっすぐみた。
それが片瀬君だった。もっともあの時は自分は彼の名前を知らなかった。
「暎万の友達か何か?」
「あなたは?」
「兄です」
そう言うと、少し黙った。そのあと、意を決したように口を開く。
「暎万さんに会わせてもらえませんか?」
「どうして?」
「謝りたいんです」
「謝る?」
「僕が……、きっかけを作ってしまったから」
「きっかけって、なんの?」
「いじめ」
ため息が出た。
「会わせてもらえませんか?」
「今、とても弱ってんの。頑張って戦いたいと思ってて、でも、立てない自分が嫌でね。すごい苦しみながら、でも、戦ってんです。うちの妹」
「……」
「君に会う元気はないかな。悪いけど」
そう言うと、その子は俯いた。
「ねぇ。やってしまったことってもう、変えられないんだよ。過去は変えられない。だからさ、せめて未来では同じようなことしないように、気をつけてよ。妹みたいに傷つく子が一人でも少なくなるようにさ」
そのとき、僕をみた。真っ直ぐな目で。
「妹は、きっともう一度ちゃんと学校に行くようになるから。君が何かしてくれなくてもね。大丈夫」
そう言って肩をたたくと、彼はしょんぼりと帰って行った。
それからどれぐらい経った頃だろう?記憶が曖昧なんだけど。でも、うちの両親が知らないのだから、出張先から父親や母親が帰って来るような頃にはもう、暎万は歯を食いしばって学校へ通うようになっていたはずで。だから、本当に短い期間だったはず。一週間もなかったはずだ。
五年生の頃にそういうことがあって、でも暎万は復活してからは毎日ちゃんと学校に行っていたし、家の中では普通にしていた。だから、嫌な経験をしてしまったけれど、短い期間のことだったし、妹は立ち直ったのだと思ってた。
俺は妹を守れたのだと思ってました。
六年生になると、暎万は突然中学受験をすると言い出して両親を驚かせた。
それまでは、お兄ちゃんみたいに中学受験なんてしない。自分は中学はみんなと一緒に公立へ進むと言っていたのが、唐突に中高大とエスカレーター式のお嬢様学校に入りたいと言い出した。当時はそれも、妹の気まぐれだと思ってた。たまたま気が変わったのだろうと。
でも、後から考えが変わった。妹は、男子のいない世界にあの時行きたがっていたのではないかと思うようになったのだ。大学生になっても同じ年代の子が男の子に夢中になるようには暎万はならず、彼氏を作ろうとは一切しなかった。少しおかしいなと思い始めたのはいつからだったろう?男からやたら逃げ回っているように見える妹。暇さえあれば、男から目立たないところにいようとする妹。
静香さんは、自分が高校三年生の時に自分の学校に派遣されたカウンセラーだった。スクールカウンセラー。ひょんなことから知り合って、そして、卒業してからも、自分はああだこうだと理由をつけては彼女の元に通っていた。
妹が大学1年、俺が大学4年で静香さんと2人でいた時に偶然出くわしたことがある。妹の横には男がいた。
「誰?」
男に聞かれると、
「彼氏」
妹はとっさに俺を男避けに利用した。やっぱり暎万はおかしいと思った。
後日、静香さんに会った時に、前からあった暎万に対する疑問をぶつけてみた。
「たった1週間や2週間にも満たないような出来事が、こんな大人になっても忘れられずに影響を与えることってある?」
妹の男嫌いの原因があのいじめにあるのかもしれないと言う考えを話してみた。静香さんはしんとした目でちょっと俺を見た。目の前に置かれたアイスティーのグラスについていた水滴とカフェにかかっていた音楽、そして、彼女のその時の思慮深い顔つきを今でも覚えている。
「心ってね。感じ方って人によって違うのよ。強度もね」
「強度?」
「うん。他の人にとっては大したことではないことが、その人にとっては一生忘れられない傷になることもある。まぁ、暎万ちゃんの心の中にしか真実はないから、なんとも言えないけど」
心の中の真実という言葉が自分の心にぽとりと落ちた。
「ただね」
彼女は続けた。
「一人一人は自分の心の中にある真実を盲目的に信じていて、普通はそれを作り変えることはしないのだけれどね」
そう言って彼女はこちらをもう一度見た。
「真実なんて本当はないの」
「え?」
「ただ、その人がその人の心の癖とでもいうのかな?そういうのでもって起こった出来事を解釈して、それが真実だと思い込んじゃってるのよ。例えば暎万ちゃんで言えば、これはあくまで説明のために適当に言っていることだからね。男の子にいじめられて、自分は男の人に嫌われるような女なんだというのが真実になっちゃっている」
ため息が出た。
「なんの根拠もない。あんなちょっとのことで?」
「だから、思い込んじゃってるのよ。周りから見ると、どうして?って思うようなこと」
「俺がどうにかしてあげられないの?」
「基本的には暎万ちゃん自身が自分でどうにかしたいと思わなきゃ無理よ。暎万ちゃん、自分で今の状態を変えたいと思ってる?」
妹のあの、電車で話していた時のあっけらかんとした様子を思い出す。こっちは結構本気で心配しているのだけど。
「思ってない」
「じゃあ、無理」
「簡単に言わないでよ。一生恋愛しないで生きていくなんて。暎万は何も悪くないのに」
そういうと、静香さんはちょっときょとんとした顔で俺を見た後に微笑んだ。
「君は本当に、いつもは一生懸命軽薄な人を演じているけど、温かい人だね。特に家族に対して。どうしてそういうの普段から素直に見せないの?」
俺はため息をついた。
「また始まった。頼んでもないのに。俺の分析」
「職業病なのよ。嫌ならカウンセラーなんかに会いに来ないで」
「頼んでもないのに分析してたら、料金もらわないで。損しちゃうじゃん」
「そうだね。妹さんの相談にものってね」
俺は少し考えた。
「金払ったほうがいい?」
「いいわよ。別に。この程度で。本人と話しているわけでもないのに」
「金出して妹が治るんなら、出す」
静香さんは小さく溜息をついた。
「春樹君、君の気持ちもわかるけど、暎万ちゃんが自分で治したいと思わないと、いくら家族でもできることはないのよ」
暗い気分になった。あの中学生の時に、自分はできる限りの事はしたと思っていた。でも、実際は俺が気づいた時点で、おばあちゃんと俺が気づいた時点で、すでに妹は消えない傷を負ってしまってた。
「何もできなかった」
「過去形にする必要はないよ」
彼女はストローでアイスティーをかき混ぜた。氷と氷がぶつかる音がした。
「え?」
「人生は長い。きっとね。今ではなくていつか未来に、暎万ちゃんにも来ると思うよ。自分を治したいと思う時が」
「ほんと?」
「100%来ますとは言えません。でも来ると信じよう」
「その時が来たら、俺は何をすればいいの?」
「その人が思い込んじゃっている心の真実には別の側面があることに気づかせてあげる」
さっぱりわからない。
「あー、難しいです。どういうこと?わかりやすく説明して」
彼女はストローをまるで教鞭のように振りながら、言葉を続けた。
「だから、暎万ちゃんに起こったようなことが春樹君に起こっても、春樹君はそんなことで、俺を好きになる女なんてこの世にいないって思い込まないわけじゃない。ていうか、君は少しはそういう風な考えを持ったほうがいいよ」
「話が本筋からずれてるよ」
「ええっと、同級生にブスと言われたから、わたしはブスなんだと思って生きてきた。でも、別の人と話していて、ブスと言ったほうが間違っていて自分はブスではなかったと思いなおす。あの同級生は周りの女子全員にブスと言っていたという別の事実を別の人に教えてもらって」
「うん。じゃあ、別の考え方を教えてあげればいいわけだ」
「言うは易し、行うは難しなんだけどね」
彼女はそう言って、アイスティーをまたストローでかき混ぜた。グラスにたっぷりとついた水滴を俺は見るともなしに見つめた。
「どう言うこと?」
「説得しちゃダメなの。自分でそう考えるように手伝うだけ。気づかせてあげるの」
「どうすんの?それ」
静香さんは笑った。笑う彼女の耳たぶでぶら下がったピアスが揺れた。
「簡単に言わないで。人がそれこそ何年もかけて学んでいる技術を」
「ああ、つまり、それがカウンセリングってことか」
「そうよ。言ったでしょ。普通はね。人は簡単に自分の心の真実は手放さないものなのよ。暎万ちゃんだけじゃない。みんな持ってる。特別な場合以外はその真実たちを一生大事にお墓まで持って行くの。たとえそれが自分を不幸にするような事実でもね」
「重いな。それに暗い」
「残念ながら軽くも明るくもありませんな。あ、でも、軽くて明るい真実を持っている人もいるって。ほんと、人様々なのよ」
この人の真実はどっちなんだろう?不意にそんな疑問がわきあがる。暎万のことが一瞬頭から消えた。
「ちょっとはわかった?」
「難しいよ。静香さん、先生には向かないね」
「もぉ」
彼女の手が優しく俺の肩を叩いた。
「春樹君みたいに自分のロジックがしっかりしている人はね。多分、説得をしてしまうと思うの。たいていの問題はさ、あなたのロジックで解決できるよ。でも、個々人の心の問題はダメよ」
「だめ?」
「そうよ。この世の全ての問題をあなたが解決しちゃったら、わたしの出番がないじゃない」
そう言って綺麗な笑顔で笑った。俺はしばしその笑顔に見とれた。
この人のこういうところが好きだ。思わずポロリとそのまま言いそうになって、そして、それを呑み込んだ。その言葉を。
「静香さんと話していると飽きない」
「そお?」
「女の子って、俺と話していると、ただ聞いてんの。俺の話。うっとりと」
「はぁ、まぁ、それで?」
彼女は少し呆れた顔をした。
「つまんないの」
「じゃあ、もっと頭のいい子探せばいいじゃない」
「大体が俺の前に出ると、うっとりとしちゃって会話にならないの。頭のいい子でも」
「……」
「なに?」
「そう言うことさらさらと言っていて、恥ずかしいとか思わないの?」
「いや。これは事実だから。客観的」
「どっから来るの?その自信」
「生まれてから今までの経験」
そう言って、俺は静香さんに向けて笑った。
「いや、まぁ、もういいわ。言いたいことはあるけど」
「だからね。静香さんは俺にとって貴重だから」
「貴重?」
「そう。貴重な女友達。だから、俺にうっとりしないでね。これからも」
彼女は、はははははと笑った。
「うん。それは約束してあげよう」
そして、また俺は演じてしまう。弱い自分を晒さずに。この曖昧な関係を続けるために、馬鹿げた演技を繰り返す。いつまで続くのか、続けられるのかわからない。
この時、俺は大学4年で、院に入る目前だった。静香さんの言う暎万のその時までは、まだ時間が必要だった。