8 勘違いであってほしかった事
8 勘違いであってほしかった事
上条春樹
仕事からの帰り道、最寄駅から家へ向かう途中でふと前を見ると、見慣れた後ろ姿があった。妹だった。驚いた。男と一緒に手をつないでたから。暎万に彼氏?信じられねぇと思いつつ、まあ、よかったのかと思う。その後、でも、変な男だったらどうしようと思って、2人に見つからないように気をつけながら角度を変えて、男の顔をそっと見た。
そして、俺は立ち止まった。2人は俺に気がつかないまま、楽しそうに歩いていく。
何だろう?あの顔……。
再び歩き出しながら、ゆっくり考える。どこかで見覚えがある。でも、最近ではない。俺はかなり記憶力のいい方で、特に人の顔を覚えるのが得意だ。だから、普段だったら見たとたんにどこで会った人かすぐ思い出すのだけれど。こんなことは珍らしかった。
しばらくすると、家の前まで妹を送り届けた男がこっちに向かって引きかえしてくる。すれ違うときにもう一度顔を見て、そしてわかった。
昔、まだ向こうが小学生、こっちが中学生のころ、一度だけ会ったことがある子に似ていた。大きくなって顔が変わっているけれど、面影がある。自分はこういうことで滅多に間違えない。
でも、今回ばかりは見間違いであってほしい。家への道を急ぎながら思った。
「ただいま」
「おかえり」
リビングのソファーに座って、テレビのリモコンを持っている妹の横に座る。
「ん?何?お兄ちゃん」
「お前、彼氏できたの?」
そういうと妹は恥ずかしそうな、だけど嬉しそうな顔で笑った。
「なに?急に」
「さっき見ちゃった」
「ええ、嘘?」
顔を真っ赤にして焦っている。何気ない風に、何気ない風に聞けと自分に言い聞かせる。俺は笑いながら聞いた。
「なんて名前の人?」
「え、なに?お兄ちゃん。名前調べてどうするの?」
「いや、あれだろ、高岡って名前じゃない?俺の知り合いに似てたんだよ」
「何言ってるのよ。違うわよ。片瀬だもの」
かたせ……。顔に笑みを貼り付けたままで続ける。
「何やってんの?学生とかじゃないんだろ?」
「言わなきゃダメなの?」
「いいから言えよ。親とかには内緒にしててやるからさ」
暎万は嬉しそうに微笑んだ。
「へへへ。パティシエ」
「なんだよ。お前にぴったりじゃん」
「そうかなぁ」
「仕事の取材かなんかで知り合ったんだ」
「うん」
「なんてお店?」
「え?やだぁ。行く気?」
「ばか。女にケーキ買いに行くときに、便利だったら使ってやる」
「うわぁ、お兄ちゃんの女ってそのときそのときで違う人たちのこと?」
「いいから。言えよ。美味しいの?そこ」
「美味しいよ。吉祥寺のエルミタージュってお店」
エルミタージュ、片瀬。
その二つを頭に刻み込んだ。
暎万とその話をした数日後、仕事帰り、そのお店の閉店間際に暎万の彼氏がいるというお店へ来た。スーツ姿で一人カフェに入って行き、コーヒーだけ頼む。コーヒーを持ってきたお店の子に話しかけた。
「あの、このお店に片瀬さんってパティシエさんいます?」
「ああ、はい。います」
「ちょっと呼んでもらえませんか?僕の名前をいえばわかると思うんで。上条春樹と言います」
その女の子は素直に奥へと消えていった。しばらくして出てきた若い男がこちらに向かって歩いてくる。その顔をじっと見る。やっぱり似ていた。月日が経っていても、その面影が自分の中には残っている。
「あの……」
「暎万の兄です」
そういうと彼氏は少しこわばった顔で俺を見た。
「俺の勘違いだったらそう言って欲しいんだけど、俺と君は大昔、会ったことがある?」
彼氏は俯いた。俯いて床をじっと見ている。
は?何言ってんですか?とでも言って、本当は否定してもらいたかった。それで、軽い気分でこの店を出て行きたかった。やっと暎万も年相応のことをする気になったかと祝福してやりたかったのに。彼は俯いたまま返事をしない。
「仕事、上がれるのなら、どこかでちょっと話せませんか?」
着替えてきた彼氏と店を出る。近くの個室のある居酒屋を適当に選んで入った。こじんまりとした個室で向かい合って座る。
「君は、小学生の時に、暎万のこと心配して家まで来てくれた男の子だよね。ええと、片瀬……」
「ひろおです」
「ひろお君」
彼はずっと暗い顔をしていた。暗い顔をして俺の前に座っている。
「暎万は君が誰かというのがわかっているの?」
答えはノーだとなんとなくわかっていた。あの妹の見せた屈託のない笑顔。
「……」
「小学校の頃、同級生だった片瀬君だってわかってないの?」
「俺、小学生の頃、あだ名で呼ばれてて。それで、名前を言ってもわからなかったのかもしれません」
「でも、君は気づいたんだ」
彼は顔を上げて僕を見た。それから、こくんと頷いた。
「暎万という名前が珍しいからすぐわかりました。顔にも面影があったし」
突如怒りがこみ上げた。暎万の数日前の笑顔が心の中から消えない。
「じゃあ、なんで、言わなかったの?小学校の頃の同級生の片瀬だって」
「……」
「あの時、俺、言ったよね?してしまったことは謝ってももうどうにもならないって。だから、これから同じようなことをしないように気をつけろって」
何も言い返さず縮こまっている彼に、俺はでも一方的に言葉をぶつけた。
「どうして、よりにもよってまたうちの妹の前に現れたの?」
「傷つけるつもりなんてないんです」
不意に片瀬君は顔を上げた。
「ふざけた気持ちでもないんです」
その目は真面目だったけど、それでも俺は許せない。片瀬君は知らない。暎万があのことがあってから長い間、どんな風に生きてきたかを。
「だけど、暎万は、もし最初から君があの時の片瀬君だと知っていたら、君を好きにはならないよ」
他の人にとっては遠い過去でも、暎万にとっては過去にはなっていない。
「……」
「それはわかってるんだろ?」
片瀬君はまた、何も言えなくなってしまった。
「君は知らないだろうから教えるけど、妹は、暎万は、あのことがあって以来、ずっと男の人を避けてるんだ」
「避ける?」
「女子校に行きたいって言い出したのが、あの直後。それから大学までずっと女子校。いつまで経っても彼氏を作ろうとかしない。ずっと恋人もいらないし、結婚もしないと言って大きくなった。不自然だと思って知り合いのカウンセラーに相談してみたんだ。おそらく、子供の頃のあのことが原因だろうって」
「……」
「なぁ、わかってる?やっとそういうの克服してできた彼氏が、昔、その原因を作った人だったなんて。騙されてたなんて知ったら、どれだけ傷つくか」
その言葉を聞いて、彼が硬くなるのがわかった。
「いつまでも隠せると思ったの?」
「最初は一日取材を受けたら、もう会わないはずだったんです」
「……」
「暎万が、小学校卒業してから会えなくなった暎万がどうしてるのか、ずっと心の奥で気になっていて、それで、偶然再会して、そしたら……」
「そしたら?」
「あの時とは別人みたいに明るくなっていて、それをみてとても嬉しかったんです」
「許された気分になったんだ」
「たぶん」
「どうしてそれが付き合うようなことになったの?」
「暎万がお店によく来るようになって、よく話しているうちになんとなく」
「最初言えなくても、何度でも言えるチャンスはあっただろ?」
「言いたくなかったんです」
「どうして?」
「嫌われたくなかった。嫌われて会えなくなるのが嫌だった」
ため息が出た。
2人で黙ると、店の喧騒に包まれた。数々の酔っ払った大人達の他愛もないさざ波のような音。
「君はちゃんと、自分が誰なのか言うべきだった」
うなだれている片瀬君の頭に向かって話す。
「妹はこれから、誰かと幸せになるかもしれない。でも、少なくともそれは君とではない。今、君にできることは二つだけ。自分が誰なのかを遅くなったけど伝えることと」
すでに自分が十二分に相手を叩きのめしているのを知りながら、でも、とどめを刺す。刺さずにはいられなかった。
「今度こそ、2度と妹には近づかないでください」
彼は悲しそうな顔で俺をみた。
「いつかは必ず話さなければならない。それを先延ばしにすると傷は深くなるよ。暎万は君のことがすごく好きみたいなんだ。これ以上長くなればなるほどきっともっと悲しむ」
「……」
「しばらく待って君が伝えていないようなら、俺の口から言うよ。いいね?」
「僕から…、言います」
「ほんとに?」
「はい。僕から…。だから、少し時間をください」
「少しってどのぐらい?」
「2週間くらい」
顔が青ざめていた。崖から今にもつき落とされそうになっている、絶望した人間の顔。だから、きっと片瀬君が暎万のことを思う気持ちが真面目なものだと言うのは嘘ではないのだろう。この時少しだけ、彼に同情した。
「2週間待って、まだなら待たないからね」
それだけ言うと、俺は席を立って、会計を済ますと店を出た。
妹の嬉しそうだった顔が浮かぶ。胸が痛んだ。きっと今度こそ妹は閉じこもってしまうだろう。前よりももっと奥の方へ。
どうしてよりによって、彼と出会ったのだろうか?男なんて他にいくらでもいるだろうに。
重い気分のままで街へと足を出す。
真っ直ぐ家に帰る気になれない。携帯を出す。こんな時に会いたい人、慰めて欲しい人。画面に名前を出して、そして、やめた。やめて一人で歩き出す。