7 終わってほしくない一日
7 終わってほしくない一日
上条暎万
それから数週間後、わたしたちは二人で横浜の中華街へ行きました。それが、2人の(よくよく考えたら、わたしの人生での)初デートだった。待ち合わせして、お昼頃ついて、赤レンガ倉庫へ行って、お昼はそこで済ました。買い物をしたり散歩をしたり、横浜の街を眺めながらいっぱい歩いた。ずっと手を繋いで。
「この前言った話はOKだと思ってもいいのかな?」
風に吹かれる髪を抑えながら、振り返る。
「なんの話?」
ひろ君一瞬だけショックな顔をした後に、すぐ取り戻した。
「今の、わざと忘れたふりしてる」
ふふふと笑った。
「こんだけ期待させといてダメとか言われたら立ち直れないよ」
もう少しだけ、としばらく笑って彼のほうを見なかった。
「でも、わたし変な女だよ」
「それは知ってるよ」
振り返って睨んだ。
「どういう意味?」
「いや、いい意味でだから。変って言っても」
よくわかんないけど、まぁいいか。
「この歳まで一回も彼氏とかいたことない女だよ」
「え?ほんとに?」
「ね、そういう意味で変なの」
ひろ君はちょっと黙りました。
「普通の女の子よりめんどくさいと思うよ」
「でも、便利とかめんどくさいとか関係なくて、僕はあなたがいいんだけど」
「……」
「あなたじゃないと嫌なんだけど」
そのひろ君の言葉が頭の中に響いた。そして、わたしの身体の温度を少しあげた。美味しいものを食べているわけでもないのに、こういう陶酔感を覚えることが人にはあるのだと知った。
「わたしが変なことしても笑わない?」
「それは、笑うかもしれないけど、バカにはしない」
「なんか、よく分からない答えだな」
「暎万さんの変なことは可愛いから」
「可愛い?」
「うん。見ていて飽きない」
「なんか褒められている気がしないんだけど」
わたしはサーカスのライオンか何かなの?
「次何が来るのかいつも予想できなくて、あなたがいると毎日ドキドキする」
「……」
「君がいない毎日なんてもう想像できないよ」
そう言っているひろ君の目は、必死にすがるようだった。ようやくやっと本当に、彼が口にしていることは冗談ではないのだと悟った。
この人はわたしが欲しいのか。
まだ信じられない。自分にこんな日が来るなんて。
「暎万さん?」
「あの、わかった。うん」
「照れてるの?」
「……」
顔を背けた。でも、ひろ君はじっとわたしを見ている。わたしが振り返るのを。
「ね、お腹すいちゃった。中華街いこ。中華街」
今日のメインは中華街。この夜のためにお昼少なめにしたんだから。
「あ、誤魔かした」
「いいから。いこいこ」
中華街でたらふく美味しい食事を堪能した後で、(ちょっと調子に乗って食べすぎた)腹ごなしに歩こうとプラプラと歩いて、港の見える丘公園へ行きました。夜景を見に。
自分が男の子と二人で夜景を見るなんて……。去年までのわたしが今日のわたしを見ることがあれば、卒倒するに違いない。
「うわー。きれいー」
「定番も定番だよね。ベタな選択でごめんね」
ふと彼を見る。
「わたし以外にもここに女の子連れてきたことある?」
「そんなこと聞いてどうするの?」
これは図星だな。
「何考えてるの?」
「たいしたことではありません」
ベンチに座ってぼんやりとする。幸せだった。そっと体を寄せ合って、黙って夜景を見る時間。すると頰に冷たい感触がした。パッと見ると彼が言った。
「すみません」
「今、ほっぺにキスした?」
「した」
「もう、びっくりした」
「ってほど、驚いてないじゃん」
「謝るくらいならしなきゃいいのに」
「しちゃダメだった?」
「いや、ダメってわけじゃないけど」
そして、次に彼は調子に乗って、わたしの唇にキスをした。軽く、そっと。
「ええっ!」
ひろ君は何食わぬ顔をしていた。
「今、キスした?」
「した」
両手で顔を覆った。
「今の、わたしの初めてだったのに」
「え?そうなの?」
「彼氏いなかったって言ったじゃん」
「ああ、言ってたね」
「よくわかんないうちに終わっちゃった」
ひろ君は、はははと笑っていた。
「もぉ。ひろ君ってなんかちゃっかりしてる」
「そうかな?」
「気がついたらいつのまにか下の名前で呼んでるし、今だって」
へへへと笑って適当に誤魔化してる。しばらく経ってまた話し出した。
「ねぇ」
「なに?」
「初めてって1回しかないじゃん。だからもう誰にも奪えないよね?」
「……そうだね」
「嬉しいなぁ」
わりと素直な人だなと思う。
「そんな些細なことが嬉しいの?」
「男にとっては結構重大なことなんだけど」
「ふうん」
よくわかんない。ま、別にいいけど。
「女の子にはないの?そういうの」
言われてちょっと考えてみる。付き合ってみてしたら、相手が童貞でしたと言って喜んでた友達なんていた?
「いや、ないないない」
「ふうん」
そして、無邪気に喜んでるひろ君を見たら、意地悪言いたくなった。
「でも、さっきのは1回にカウントできないよね」
「ん?」
「0.5回?いや、下手すると0.2回?」
そういうとひろ君は優しく笑った。
「暎万ちゃん、それはもはや、もう1回キスしてと言ってるようにしか聞こえないよ」
そう言って、そっと手を伸ばしてわたしを抱きよせると今度はゆっくりと優しく彼の唇をわたしの唇に押し付けた。わたしは男の人の香りに包まれて、そして、他の人の唇というものは柔らかいものだと思った。ひろ君の香りが好きだった。最初から。とても安心した。
「ケーキの香りがした気がする」
「え?そんなわけないじゃん。ばかだなぁ」
「もっかい嗅がせて」
「……」
わたしは彼の懐に入りこんだ。まるで子供の頃父親に抱きついてたみたいに。
「する?」
「する」
「うそ?」
「きっといつもその中にいるからわかんなくなっちゃってるんだよ」
「ふうん」
ひろ君の腕の中は温かくて落ち着いて一旦入りこんでしまうとぬけたくなくなった。なんとなく2人とも黙ってしばらくそうしていた後に、どちらともなく帰ろうかと言い出して、体を離した。
手をつないで駅に向かって歩き出して、しばらくしてからひろ君が言った。
「慣れてないんだろうと思ってこれでも遠慮してたのに、まさかねだられるとは思わなかったよ」
「はぁ?」
聞き捨てならない。
「ねだってなんかないし」
「かと思えば自分から抱きついてくるし、いてっ」
この日、初めてひろ君をどついた。
「結構、積極的なんだね。暎万ちゃん。いてっ。暴力やめろよ」
「余計なこと言うからでしょ?」
でも、彼は叩かれて笑ってた。幸せそうに。
この日は2人にとって特別な日でした。終わってほしくなかった。
明日も仕事なのに、彼はわざわざわたしの駅で下りてわたしを家まで送りました。一分一秒でも長くいたいと言って。幸せだった。生まれてから今までで一番、あの日が幸せでした。
終わってほしくなかった。