6 神様の手
6 神様の手
上条暎万
チョコ嫌いにしか作れないケーキというお題を出したら、片瀬さんは、ガナッシュにお酒を入れてチョコとお酒の組み合わせを試し始めた。お酒を入れることで変化する味。甘さの後に来る香り、突き抜けてそして最後に残る。わずかに香る。コアントロー、ラム、ブランデー、時には日本酒すら試していて驚いた。
「チョコの圧倒的なしつこさが嫌いで」
「ああ」
「だから、どこまでそのしつこさを別のものに変えられるかに注力した」
彼の前口上を聞いた後で、一口食べた。
「ああ、大人の味だなぁ」
そして、また裏切られた。
「先生の味は最後まで尾を引く」
「ん?」
「口に入れた後に色々な味が広がって、そして、消えていって……、でも最後まで静かに尾を引いて残る味がある。それが、入れた瞬間にはわからないの。どの味が残るのか。それが脳髄に響くね」
「脳髄って……」
また、変なことを言ったと笑う彼をそのままにわたしは目を閉じた。最後の味の余韻を感じるために。
「しばらく芯がしびれる」
閉じていた目を再び開けると彼はぼんやりとした目でわたしを見ていた。
「そう言う言い方は……」
「うん」
「誤解してしまいそうだから、やめて」
「誤解?」
その夜、片瀬さんはそこで話をやめてしまった。片付けがあるからとわたしを一人残して厨房へ行ってしまった。
その日からしばらく経って、わたしはまたいつもみたいに遅くにお店へ寄った。
片瀬さんはわたしの顔を見ると、ちょっと待っててと言って着替えて来た。
「映画を見に行かない?」
「映画?こんな時間に?」
「だめ?」
次の日は休みだった。
「別にいいけど」
かんたんに食事を済ませて、飲み物だけ買って並んで座る。一週間の仕事で疲れた体を椅子に横たわらせていると、のんびりとした気分になる。やがて暗くなって予告上映が始まった。それが終わって本編が始まった。彼が選んだ映画は、マイナーな映画だった。ま、マイナーな映画だからレイト上映なのだろう。でも、レイト上映でもかけたい人がいるのだから、隠れた名作なのかもしれない。そんなことを考えながら、まじめに見ていた。
すると、その暗闇の中で隣からそっと彼の手が伸びてきて、わたしの手を握った。
びっくりしました。
思わず隣を見ると、彼はちょっと恥ずかしそうにして手を戻しました。
何もなかったように映画が進んでく。主人公の少年が自転車で空の綺麗な田舎道を漕いでく背中。でも、もうそんなことはどうでもよかった。映画の筋も、おもしろいかどうかも。ただ、ひたすら、席に縮こまって驚いていた。
映画が終わった後に謝られました。
「さっきはごめんなさい」
片瀬さんはそう言うと、
「帰ろうか。駅まで送るよ」
少ししょんぼりとしてたけど、でも穏やかにそう続けた。
「あの……」
背中を向けて歩き出した彼に向かって言った。
「謝らないでいい」
それだけ言うと足を動かして、立ち止まったままの彼の脇を通り抜けて駅へと向けて歩き出した。言ってしまってから、なんで自分であんなこと言ったのか軽くパニくる。でも、別にびっくりしただけで、嫌ではなかったし。彼の手が好きでした。素敵な味を作り出す手だから。彼の手はわたしにとって特別な手だったんです。触れられて嫌ではなかった。
彼が追いついて来てわたしの横に並んだ。
「謝らないでいいのならもう一度繋いでもいい?」
耳元でそっと言われた。わたしが何も答えられずに彼の顔を見ると、あの人はわたしの目をじっと見たままでそっと手探りでわたしの片手を捕まえた。その時、わたしの体の芯はしびれました。あの人のチョコレートの味がわたしをしびれさせたように。
「暎万さんって彼氏いるの?」
「今更それを聞くの?」
「ずっと聞きたかったけど、答えを聞くのが怖くって」
夜の雑踏で、覗き込む彼の瞳の中にわたしが映り込んでいる。
「暇さえあればあなたのところに来てるのに、彼氏なんていると思う?」
わたしの言葉は明るい夜の中で響いた。彼は俯いて、嬉しそうに笑った。その時、やはりわたしの心は満たされていました。これでもかというほどに。この人が笑うとどうしてわたしまでこんなに嬉しいのだろう?
「じゃあ、立候補してもいい?」
わたしはにやけてしまって、口元をとっさに片手で隠しました。繋いでいない方の手で。
「すぐに答えないでいいから、考えてみてよ」
繋いだ手が温かかった。そのままなんとなく黙りがちになって駅へ向かってゆっくり歩く。彼が再び口を開いた。
「僕は基本的に月曜しか休めないんだけど、暎万さんのお休みは土日?」
「しなきゃいけない仕事を土日に代わりに済ましたら、月曜日を振休にできるよ。毎週は無理だけど」
「じゃあ、今度一緒にどこか行かない?」
わたしは俯いてその声を聴きました。
「うん」
電話するねと言う言葉を聞いてから、改札で手を振って別れた。
全部がわたしにとって初めてのことでした。家族以外の男の人と手を繋いだのも、女の子の友達以外から仕事の用事とかではなくて電話が来るようになったのも……。
こんなふうに誰かの存在が、自分の心の真ん中に入り込んでくるなんて、それが、しかも男の人だなんて。本当に信じられなかった。彼が言った言葉、見せた表情、ひとつひとつを1人でいるときに何度も繰り返し再生する。そして1日に何度も信じられないと思い、そして、何度も思い出し笑いをした。誰にも見られないようにするのに苦労しながら。
「前から言いたかったんだけど」
「うん」
「その、先生って呼び方はやめて」
「じゃあ、片瀬君」
「それもやだ」
「ええー」
「名前で呼んでよ」
「じゃ、ヒロオ君。うーん」
自分的にしっくりこなかった。
「じゃ、ひろ君だ」
そして、わたしは彼をひろ君と呼び始めた。
家族や友達が時々思い出したように、彼氏はいらないのかとか、恋をしないのかと言う。その度にわたしは必要ないと言ってきた。そして、自分には一生そんなことは起こらないと思っていたし、起こらないでもいいと思っていました。
だけど、今ならみんなが口を酸っぱくしてわたしに繰り返し言っていた気持ちがわかる。こういうことを全部、何も知らないままで年を取りお墓に入ってしまうなんて、損しているじゃないですか。世界がきらきらと輝いて、何か素敵な音楽がかかっているような日々。それはいつまでも続くものではないのかもしれません。頂点から緩やかにカーブを描いて下降していくんでしょう。だけど、感動した記憶というのはきっと残る。何分の1になっても必ず残る。この感動は時間を経てもゼロにはならない。
どうして好きな男の人の手というのは、繋いでいるとあんなにも安心するのだろう?そして、その手はわたしにあの魔法のような思いをさせてくれる味を作り出す、神様の手なんです。