4 チョコ嫌いにしか作れないケーキ
4 チョコ嫌いにしか作れないケーキ
上条暎万
カレーを食べて食後のコーヒーを飲みながら片瀬さんは言った。
「別に自分で試作したケーキを食べてもらうこと自体は構わないんだけど」
「はい」
「ちょっと怖いです」
「ええっと、わたしがですか?」
「うーんと、何ていえばいいのかな?」
「はい」
「すごく期待されてるけど、僕、別に普通の職人なんで。結局作って食べてもらったら、上条さんはがっかりすると思うんですよ。あれ?みたいな」
「はぁ」
「そうすると、僕も結構辛いかな」
そう言って片瀬さんは困った顔で笑った。熱々に熱している炭火に水がブワッとかけられた。ここのところのずっと消えることのなくわたしの中でかっかっと燃えていたものがしゅんと消えた。
「そんなに寂しそうな顔しなくても」
「すみません」
ちょっと俯いて、がっかりして、そして、またあの感動を思い出す。あの食べたことのない味。わたしは顔をあげると、おそるおそる口を開きました。
「もしかしたら、こう、先生が10個ケーキを作って……」
「はい」
「9個は先生が言う通り、普通のケーキかもしれません」
「うん」
「でも、10個目はやっぱり特別なものができる気がする」
わたしは願いを込めた目で片瀬さんを見て(きっと犬が餌を前に待てをしているような顔)、片瀬さんはしんとした表情でわたしを見ていました。
「だって、あのソースを作ったんだもの。偶然でできたものではないでしょ?」
「それはそうだけど」
「それならやっぱりもっといろいろな味が作れるんだと思う」
「僕が?」
「はい」
少しだけ口を開けて何か言いたそうに、でも、黙ったままで片瀬さんはわたしを見ていた。
「もう、バカみたいに興奮したり、はしゃいだりしませんから。だから、食べさせてもらえませんか?先生の作ったケーキ」
今晩何度目かの困った顔をまずされて、それから、片瀬さんはわたしから視線を外して窓ガラスを通して外を見た。ちょっと考えて、それから、前を見て、俯いて笑った後に顔を上げた。
そして、わたしに向かって笑いました。
「上条さんには負けました。どうぞお手柔らかにお願いします」
その時、彼のその笑顔を見たときに体の奥が温かくなった。
最初のお題はプリンにしました。
「プリン?」
「ダメ?」
「うーん」
「簡単なのかなって思ったんですけど」
形もつるんとしてるし、材料の数から言っても、プロにとっては簡単なものではないの?
その話をしていた時は携帯で話していて、機械を通して聞こえてくる片瀬さんの声はなんだか、会って話しているのと少し違って新鮮だった。
「いや、あまりに一般的になりすぎているものって、かえって難しいと思うんだけど」
「じゃあ、やめときます?」
「いや、いいです。それで」
意外と負けず嫌いなのかな。文句言ったくせに応じた。
「暎万さんのオーダーはあくまで新しい食べたことのない味?」
いつのまにか片瀬さんは、わたしをちゃっかり名前で呼んでいた。ま、別にいいけど。
「はい」
「わかりました。少し時間をください」
それから、わたしの体の中の時計は、次、片瀬さんに会える時を中心にセットされた。毎日を真面目に頑張って生きる。石ころを蹴飛ばしたくなるような嫌なことがあって、適当な人を捕まえて、ビール飲んで焼き鳥片手に愚痴を言って、でも、その途中でピタリと口を閉じる。なんてつまらないことをわたしはしているんだろう。わざわざ大騒ぎするほどのことではないのに。はたとそう思うのだ。どうしてわたしはこんな些細なことに一喜一憂しているのか。
片瀬さんとした約束は、本人に会っていないときにもわたしに作用した。影響を与えた。ずっとうきうきする気持ちが止まらない。エンドレス。そして、何をやっていても疲れない。なんでも頑張れちゃう。毎日は跳ねるようにすぎた。初めてだった。こんな、足元がふわふわと浮いているような毎日は。
少し遅めの時間、照明はいくつかを残して全部落とされていて、お昼の灯りの中とは違う顔を見せる閉店後のエルミタージュの中で、片瀬さんは2回目の魔法を見せてくれました。
「どうぞ」
わたしはドキドキしていました。片瀬さんはじっとわたしを見つめながら、落ち着いているように見えた。けど本当はやっぱり緊張していたんだってずっと後になってから言っていた。
「果物がついているとか、デコレーションとかはしなかったんだね」
「そうだね。なんか、今回はあまり色々な味が重なるのが嫌で」
スプーンに入れて一口、口に入れた。
「ああ……」
とっさには言葉が出ませんでした。
「どう?」
「苦さと甘さが……」
「うん」
「……」
わたしの仕事はですね。味を言葉にすることなんですが……。このときはうまく言葉が出てこなくて。
「こんな風に交わるのは初めて」
「じゃあ、合格?」
顔をあげると、すぐ近くに片瀬さんの顔があった。
嬉しそうに笑っている顔を見たときに、もう一度じんとした。最初は美味しいものを食べた後だから、じんとしたんだと思った。わたしはとにかく、おいしいものに弱いから。でも、本当はもうこのくらいの頃から、境目がなくなっていたんだと思う。ケーキに恋をしているのか、そのケーキを作っている人に恋をしているのか。
それからも二人でわたしたちはそのゲームのようなことを続けました。ロールケーキ、チーズケーキ、タルト、シュークリーム、片瀬さんにとってわりと難関だったのは、チョコレートです。あの、割るととろーっと中から溶けたチョコレートが出てくる、フォンダンショコラ。
「なんか迷ってます?」
「うーん」
「味が迷ってます」
「そんなことってあるの?て言うか、なんでそんなことがわかるの?」
不思議そうな顔された。
「ああ、なんとなく」
別に深く考えたことない。全て感覚と直感の出来事です。
「実は、黙ってたけど」
「はい」
「チョコがあんまり好きじゃない」
「はい?」
しばらく二人で黙ったよね。外の通りを通り過ぎる人の立てる物音が聞こえてきた。
「いや、それはダメですよ」
「うん。わかってる」
「一般人なら許されても、パティシエがチョコ嫌いって」
「うん。わかってる。食べれないわけじゃないけど、興味が持てなくて」
それからしばらくは、暇さえあればありとあらゆるチョコを買って、わたしは片瀬さんの元へ通った。いわゆる名店と呼ばれるお店のチョコたちです。仕事帰りに二人で食事に行って、オーダーした食べ物が来る前にテーブルの上にいろんなチョコを並べて食べた。
「このくらいお酒が入ってるチョコは嫌いなの」
「嫌いなのになんで買うの?」
「嫌いな味が教えてくれることは多いと思ってるんで」
そう言ってわたしがそれを口に入れると、片瀬さんは微笑んだ。
「嫌いなのに、なんで食べるの?」
「やっぱりまずい」
水を飲んだ。今日もダメでした。わりときちんとしたお店のものなんだけど。少し落ち着いてから片瀬さんに答える。
「ある日、いきなり嫌いだと思ってた味が好きになることってあるじゃない。それを逃したくなくて」
「なにそれ?どんだけ冒険家?」
「ああ、その言い方いいね。わたしは食の冒険家」
わたしがそう言うと、片瀬さんは吹き出して、そして両手で顔を覆ってしばらく笑っていた。わたしはその様子を見ていた。その瞬間、心が満たされていた。
「暎万さんといると飽きない」
「ええ?そんなこと言われたの初めて」
「そうなの?」
本気で驚いていた。
「そうだね」
わたしが見つめると、彼もわたしを見つめていた。ふと息苦しく感じて、話題をかえた。
「先生、嫌いだから作れる味もある」
「どう言うこと?」
「どうして嫌いなのかわかれば、それをどうすればまだマシな味にできるかわかるでしょう?題してチョコ嫌いにしか作れないケーキ」