3 魂の記憶
3 魂の記憶
上条暎万
あの出会ったその日の興奮は、寝て起きても、日をおいても、消えなかった。また、あの思いをしたいと思いました。わたし、ベリーソースは何通りも食べたことがある。そして、わたしは異常体質とでもいうのでしょうか。一度食べたものの味、忘れないんです。特に美味しいもの、レベルの高いものの味。だから、あの時もあのベリーソースを見て、自分の中には舌にのせる前にもう経験からくる味が脳に伝わっていた。その予測が舌にのせた途端に裏切られた。
全く予想もしていない味だった。
でも、ベリーソースなんです。そして、それが、お店のレアチーズケーキの味と合っていました。どうして、あんなことができるんだろう?あの頃、暇さえあればわたしはぼんやりとあのソースのことを思い出していた。あのソースと片瀬さんのことを。
「暎万」
ばさっと頭叩かれた。いつものやつ、角田氏。
「お前、変」
「はい?」
「今週、変」
「どこがですか?」
「昼飯行かないでいいの?」
時計を見た。お昼の12時を過ぎていた。
「あ……」
「お前が昼飯食うのを忘れるなんて、今日、地球が終わるくらいありえないことなんだけど」
じっと角田氏の顔を見ます。たしかにいつもはお昼が近くなる頃は、今日のランチは何を食べるかで真剣に悩んでいます。
「ぼうっとしてました」
「好きなやつでもできたの?つうか、彼氏でもできたんか」
「なんで、そんな話になるんですか」
無理な会話の展開に眉をしかめる。
「恋は人を変えるからだよ」
恋ですと?でも、ケーキに恋をしていると言われれば、それはそうかも……。
「メシ行ってきます」
「なんだ、スルーかよ」
角田氏の声を背後に聞きながしながら外へ出る。歩きながら考える。時間が惜しいし、なんか食欲もないし、パパッとかけ蕎麦とかでいいかと思い、立ち食いそば屋へ向かう。てくてく歩く途中で、ふと立ち止まる。
いや、何かがおかしい。わたし、確かに変です。食欲がないなんて……。
しょ、しょ、食欲がないなんて。このわたしが……。
あまりのショックに道端にしゃがみこんだ。
生まれて初めてかもしれない。食欲がないの。
「あの、大丈夫ですか?具合悪いの?」
そう言われて、顔を上げる。親切そうなおばさんが道端にしゃがみこんでしまったわたしに声をかけてくれた。
「いや、大丈夫です。ちょっとお腹が空いちゃって」
「貧血?」
「いえ、食べれば治るので。すみません。お気遣いありがとうございます」
立ち上がり歩いてお店に入ると、とりあえずそばを食べる。とろろかけた。ついでに卵をぶっこんだ。七味もかけた。いや、やばい。どうにか短期間で解決しないと、頭を使え、暎万。このままではわたしが痩せてしまう。食欲を失い、食べることの喜びを忘れてしまう。
そこらへんの忙しい日本人と同じように、腹に入りさえすればなんでもいいやと思いながら生きる人になってしまっては、もう、わたしがわたしではなくなってしまうではないか。
その日の夜、エルミタージュへ閉店ギリギリの時間を狙い足を伸ばした。ただ居座るのもそれは失礼と、ショーケースの中にまだ残っていたケーキを買って、それからイートインスペースで紅茶を飲みました。
そして、ホールのお姉さんにお願いしました。
「あの、片瀬さんを呼んでいただけないでしょうか?」
ちょっとキョトンとした。お姉さん。
「あの、以前お店を取材させていただいたものなんですが……」
「ああ、取材」
以前取材の時にいた人とは別の人で、だから、わたしの顔とかもちろんわからず、でも、簡単な説明ですんなりと片瀬さんを呼んでくれた。
「上条さん?」
目を丸くしながら、片瀬さんが出てきた。
「先生ー!」
そう呼んだら、苦い顔された。
「えっと、やっぱりそれ、続くんですか?」
「お願いします」
テーブルに向かって勢いよくお辞儀して……。がんっ。あろうことか自分の額をテーブルに打ち付けてしまった。
「……」
「あの、上条さん」
「はい」
「すごい音しましたけど、大丈夫ですか?」
「たぶん……」
おそるおそる顔をあげました。額をなでながら言いました。
「赤いでしょうか?」
「赤いですね」
「前髪で隠すから大丈夫です」
前髪をしっかりと前にたらしなおす。笑われた。当たり前といえば当たり前だが。
「すみません。なんか、コントみたい。わざとやりました?」
「いいえ」
「でも、こんなの、コントとか以外でやる人、初めて見た」
まだ笑われている。しょうがないので片瀬さんが笑い終わるまで待ちました。
「ええっと、それで、今日はどういったご用件で?」
「あの……、ちょっと言いにくいんですが」
「はい」
「禁断症状が出てしまって」
「はい?」
「日常生活に支障が出てきているんです」
片瀬さん、顔が固まった。
「えっと、それは、麻薬とか覚せい剤とか、そういう?」
「いいえ」
「じゃあ、何?」
「先生のケーキ」
「は?」
しばらく沈黙がありました。これはね、とある国では天使が通ったっていうんですよ。
「食べられないために日常生活に色々な支障が出てきました」
「いや、そんなこと言われても」
わたしはずいっと身をのりだしました。片瀬さんが引く気持ちもわかります。でもね、わたしだって必死なんです。
「何をすれば、いいですか?」
「何をって?」
「何をすれば、食べさせてもらえますか?こう、雑巾掛けをしろとか」
「なぜ、雑巾?」
「荷物を持てとか、あるいは、やっぱり、お金?」
「……」
「それとも……」
テーブルの端っこを右手と左手でガシッと掴んだまま、じっと片瀬さんを見ながら考える。女の人としてのあれやこれやを要求されたら、さすがにそれは断らねばなるまい。だけど、もう、むしろ、食べるためだったらいいのではないか。だって、別に、たまたまとってあっただけで、そこまでこだわりがあるわけじゃ……。
「あの、なんかすごい怖い顔してますけど、何を考えてるんですか?」
「いや、別に他愛もないことですけど」
すると、片瀬さんはため息をついて、座ってた椅子の背もたれに寄っ掛かると、
「あの、仕事中なんですよ。今」
すごーく冷静に言われました。お店に置いてある置き時計がこちこち言っている音と、もはや我々2人以外いないホールで、ぱたぱたとお姉さんが何かを片付けてる音がする。
「はい」
「その、もし待っててくれるのなら、仕事が終わってから聞きますから」
「はい」
そして、一人になると、なんというかちょっと前のめりすぎたというか、いや、ストーカーみたいだよね、わたし、と思う。確かに恋は人を変える。ケーキに対するものを恋と言って良ければだけど。しばらく一人で黙々と考えるうちに、だんだん反省モード入ってこれでもかとテンション落ちました。カフェスペースに居座るとホールのお姉さんがしめ作業をできないと思って、外に出た。お店の前で、エルミタージュの看板をぼんやり見ながら立ち尽くしていた。
学校で廊下に立たされた経験は、わたしはないんだけど、立たされたらこんな気分じゃなかろうか。
「こんなとこにいたの?」
どのぐらい待ったんだろう?時間の感覚がおかしくなっていてよく分からない。不意にぱっとお店のドアが開いて、片瀬さんが顔を出した。
「中で待ってたらよかったのに」
「でも、お店の迷惑になると思って」
そういうと、私服に着替えていた片瀬さんはふっと笑いました。
「お腹減ってる?」
「そういえば、ご飯食べてなかった」
「上条さんは何が好きなの?」
「美味しいもの」
もう一度、ぷっと笑われた。今日は笑われてばかりだな。
「それでは答えになりません」
「ええっと……」
面白いカレーを出す店があるんだよと言って、片瀬さんが歩き出した。あ、知ってます、そこ。さすがですね、みたいな会話をしながら、二人で歩きました。後から思い出して不思議だった。
どうしてだろう?初めて二人で並んで歩いた時に、もう感じていました。
圧倒的な安心感。
こういうのは、理屈ではないのでしょうか?ずっと男の人を避けて、恋愛というものも素通りしてきているわたしは、恋の仕方なんて知らない。絶対に。それなのに、教わる前にわたしの体が知っているのでしょうか?それとも……。
それは魂の記憶とでもいうのだろうか。
確かにわたしはひろ君に対して、最初から安心していました。お兄ちゃんやお父さん、おじいちゃんと一緒にいるのと、ひろ君と一緒にいるのは似ていました。
まるで家族のようだった。