2 尊敬してやまない神様
2 尊敬してやまない神様
4年後
上条暎万 社会人一年生 23歳
某出版社 雑誌編集 アルバイトあらため契約社員目前
「おい。暎万。ちょっと来い」
出勤したらすぐに角田さんに呼ばれた。打ち合わせに使うブース。
「はい」
覗くと、えりさんがいる。
「あ、おはよーございまーっす」
「おはよー。えまー」
えりさんが顔いっぱいの笑顔でニコニコしてる。ファッション雑誌の編集長している猛者です。
「お前から直接言え」
「ほんっとうにいいの?」
なにやら二人でゴニョゴニョやっている。
「言っただろ?俺は本人次第」
「まぁった。その余裕どっからくんの?」
なーんか、この二人仲いいんだよね。ま、同期だからかな。そんな2人のやり取りがあった後で、えりさんがこっち向いた。
「ね、えま。あんた今度バイトから契約に格上げされるんでしょ?」
「ああ、はい」
「うち、来ない?」
にこにこしてる。えりさん。今日も完璧メイクに完璧な着こなし。香水の香りがかぐわしい。
「へ?」
「えまみたいに根性ある子が欲しいの。なんかひらひらしてるだけで、すぐピーピーなく最近の若者はいらんのよ」
「……」
割と……、ここの会社、人事がこんな口約束から決まっちゃったりするんだよなぁ。だから冗談だろうと思ってはならんのです。こほん。
「わたしにファッション誌は逆立ちしても無理です」
「ええっ!」
わりと綺麗な見た目とリアクションにギャップのある人です。えりさん。思い切り仰天してる。歌舞伎の見栄をきるくらいリアクションおっきいよ。
「そんなん、えまが来てくれたら手取り足取りわたしが教えてあげるって」
うーん。参ったな。
「姉さん」
「うん」
思いっきりしっかりと姉さんを熱く見ました。
「姉さんのことは愛してます」
「うん」
「でも、ファッション誌は無理」
「えー!」
ふふふふふと角田氏が笑う。
「だから無理だって言っただろう?」
「なによ。わたしよりこんなバツイチのえせ臭い親父の方がいいの?暎万」
「ふん」
角田氏が少し拗ねる。
「姉さん。わたし、雑誌が作りたくてここにいるんじゃないんです」
「え?じゃあ、なんでいるの?」
「美味しい物のそばにいるため」
「はぁ」
「ひいては経費で美味しいものを食べるためです」
「……」
ぶっと吹き出す音がして、そばで角田氏が笑っています。
「どういうこと?」
「わたしが愛しているのは食べ物です。服や靴ではありません」
「ええー。女の子なのに?」
「女の子でもです。」
えりさんは盛大にため息をついた。
「ダメかー」
その声が可愛かった。
「かたじけない」
「暎万と一緒に働きたかったなぁ」
「でも、心はいつもえりさんと一緒にいますから」
「約束だよ」
「わたしがいき遅れたら、必ずえりさんの元に嫁ぎます」
「うん。わたしが食わせてやる。約束だよ」
「お前ら、キモいから。やめろ」
手に手を取り合ってそう言っていると、言われてしまいました。
自分の席に戻り、PC立ち上げるや否や、
「ほら、取材行ってこい」
角田氏に資料でばさりと頭叩かれた。
「あ、ケーキだ!」
自分の目が爛々と輝くのがわかった。
「そうだ。ケーキだ。特集。まだ回れてなかった何軒か、サクッと行ってこい」
資料を手にとって眺める。自由が丘のお店と、青山と、そして……。
「ああ、エルミタージュだぁ」
「なになに?そんな興奮しちゃって。そんなに美味しいとこ?」
先輩の桃山さん、桃さんが椅子のタイヤをころころならしながら、丸い顔を近づけてくる。
「前からのわたしの贔屓のお店なんです。バイト時代から取材行かせてくださいって何度も言ってたんです」
「どんなお店?」
「表参道にルグランってあるじゃないですか?」
「ああ、あの人気店」
「あの店のニ代目を決めるときに負けた人が吉祥寺移って始めたお店です」
「落ち武者の店か」
「はい。落ち武者の店です」
「負けた人のケーキなら美味しくないんじゃないの?」
「いや、違うんです」
今こそ答えましょう。その問いに。大演説を始めようとしたときに……。
「時間無駄にすんな」
角田氏にもう一度はたかれました。もちろん力はそんな入ってません。職場でがっつり殴るなんて時代が許しませんからね。
社を出て電車に乗った。カメラ一式持ってるし、結構重いですよ。それにこの仕事は歩くし。だから、わたしはハイヒールは選ばない。いつもローヒールか、下手するとスニーカーだかんね。
わたしの仕事はグルメ雑誌の編集です。大学生の時にコネを使って父のグループ会社の出版部門にバイトとしてねじ込んでもらった。そりゃ、なんでもやりました。雑用万歳ですよ。そんで、並々ならぬわたしの食に対する熱意が認められ、卒業後もここにいるんです。
かつてバブルの時代には、毎月発行されていた我が雑誌も、最近では隔月になっている。それで減った仕事の分は、旅行雑誌作っている部門のグルメ部分を時々下請けしたりして繋いでます。それにファッション誌のカフェ紹介のページとかね。
スタッフは限られてるし、1日に何件もハシゴして食べたりしなきゃいけないこともあるから、結構ハードな仕事なんです。でもね。わたしは気に入ってます。
昔からわたしは美味しいものを食べるのが好きで、花より団子の人間でした。でも、その趣味(というよりもはや生き方なんだけれど)共有できる友達というのがあまりいなかったです。もちろん、女の子の友達も甘いケーキとかは好きだし、そういうのは一緒に行くけど、ラーメン屋巡りはしないよね。築地の人気のお寿司店に早朝から並ぼうなんてのもちょっと違う。大人になるに従って、昔からの仲の良い友達と分かち合えないものというのが少しずつできてきていました。大学生になって特に。グルメの部分だけではなくて、みんなには花の方、つまりは彼氏もいたし。
そういう、普通の女の子が熱中する普通のこと、恋愛。そういうものを自分の人生からはカットして生きている。自分はそれで全然満足なんだけど、周りは緩やかに許してないんです。心配しているともいうんだけど、やっぱり許してない。あるいは異分子として見られる。
変わってる子。
変わってる子で結構。体重気にせず美味しいもの食べまくる。そして、恋をしない。それで結構です。わたしは恋愛なんていたしません。そんな、お腹の減りそうなこと。だけど、そうは言ってても、大学にたくさんいる女の子たちの中で、少しずつ自分の居場所がないような、そんな息苦しい気持ちを感じ始めてた。金魚が金魚鉢の中で苦しくて水面に口を出して、息をしているような、そんな状態だったんです。
そんな時に、バイトを始めた。自分より一回りも二回りも上の大人たちの世界にポンと飛び込んだ。自分以外は男の職場です。すごく緊張したのはほんと最初だけ、口を開いて見たら、みんなは同士でした。筋金入りのグルメオタクだった。わたしという個性がここでは浮かなかった。居場所という言葉が自分は結構好きなんですが、わたしは居場所を見つけた。家族という場所ともう一つ、家の外にも居場所を見つけました。
だからわたしはこの仕事が気に入っているんです。天職だと思ってる。
好きな仕事があれば、美味しいものが食べられれば、わたしは生きていける。ある時までわたしはそういう人間だった。
その日の取材は、吉祥寺のエルミタージュを最後に持ってきた。一番時間をかけたかったから。1軒目と2軒目の取材が終わり、午後を回ってから、エルミタージュへ向かう。
学生の頃はもっとちょくちょく来てたお店だけど、社会人なってから忙しすぎて足を運べてなかったので久しぶりだった。表通りから角を曲がる。道はしっかり覚えていた。裏通り。少し行くと昔通りそこにあった。Hermitageと書かれてぶら下がった看板。その少し古びた金属のそれが風に揺れて、キィと音を立てた。しばしそれを眺める。おいしい記憶がどっかに残っていて、体中の細胞がはやく店に入れと催促してくるじゃん。
ドアを開けると、からりとドアに付けられているベルが鳴る。
「いらっしゃいませ」
「あ、どうも」
ドアのところでぺこりと頭をさげる。店に入ってこない客をキョトンと眺める店員さん。
「あの、わたし、今日取材で伺うってご連絡差し上げていたものなんですが……」
「ああ」
彼女はニコッと笑って、わたしが肩から下げているカメラ一式の大荷物をちょっと興味深そうに見た後に、ケーキを並べたショーケースの奥にある厨房の方へ顔を向けて、
「片瀬さーん」
誰かを呼んだ。おそらく取材に応対してくれるパティシエさんだろう。呼ばれた人が奥から出て来た。上下白い服着た人。
「あ、どうも」
ぺこりと頭を下げた。
「どうも。片瀬です」
「上条です」
若い人だった。多分同い年くらいなんじゃないかな。
「ええっと、名刺を……」
ごそごそやりだすと、片瀬さんはああっと言った。
「その、荷物一度あちらに置かれてはいかがですか?」
ケーキを売っている売り場に隣接して、イートインのカフェスペースがある。お客さんはまばらだった。
「ああ、すみません」
お言葉に甘えて、カメラだの何だの一旦椅子の上に置いた後、カバンから名刺を取り出した。
「本日はお忙しいところをありがとうございます。上条です。よろしくおねがいいたします」
片瀬さんはわたしの名刺を受け取ってじっと眺めた。それから、顔を上げてわたしをじっと見た。
「これは、えまさんと読まれるんですか?」
「あ、はい。そうです。よくお分かりになりましたね。ちょっと珍しい名前なんで、こちらから言わないと皆さんわからないんです」
「ああ、いえ」
そう言って片瀬さんはわたしが渡した名刺をテーブルにそっと置いた。そして、黙っている。何かなぁ。この人、おとなしい人なのかなと思う。
「ええっと、早速進めさせていただいてもいいですか?」
そう声をかけると、夢から覚めたみたいにハッとした。
「ああ、すみません。じゃ、今、うちのお薦めのケーキをお持ちしますんで」
そう言って立ち上がった。
ルグランは、表参道にある人気店です。フランスできちんと修行をした人が開いたお店で、本格的な味を楽しめる老舗です。わたしもルグランのケーキは好きです。厳かな中にもほんの少し、いつもルグランにしかない味わいが隠れてる。ならではの味がある。でも、そんなケーキも好きだけど、そのしっかりとした基礎を持ちながら、それをもっと大胆に崩して遊んでいる。自由奔放な味。それが、エルミタージュのケーキ。ここにはまた、ルグランにはない魅力があるんです。
「お待たせしました」
大皿の上に色とりどりのケーキが来た。
「うわー」
目がハートになりました。やべ。一瞬ですぐに顔をもとに戻した。でも、遅かった。片瀬さんにぷっと笑われた。
「すみません。でも、あんまりにも無邪気に喜ばれるんでつい」
「ああ、すみません。仕事中なのを一瞬忘れてしまいました」
声のトーンを普通に戻した。
「そんなにケーキ、お好きなんですか?」
「美味しいものは、生きる喜びですから」
わたしはきっぱりとそう言って片瀬さんを見た。
「すごい表現ですね」
「そして、美味しいものを作り出せる人は神様です」
相手がばかにしなかったので、調子に乗ってもうちょっと言ってみた。片瀬さんは楽しそうに笑った。
「大袈裟ですね」
「いえ、本当です。たくさんの人を幸せにするのだもの」
「じゃあ、今日も幸せになってください」
片瀬さんはそう言ってくれた。それを聞いて、この人優しそうな人だなと思いました。
取材を始めた。まず写真を撮る。角度を変えて色々なアングルで。それから一つ一つ説明を聞きながらメモを取り、そして味をみる。
「ああ、また、バリエーションが広がった感じですね」
「バリエーションですか?」
「ええ。わたし、ここの常連だったんですよ。今年からは社会人なったんで、なかなか来れていませんでしたけど」
「ああ、そうなんですか。去年なら僕いたけど。奥にいたからわかりませんね」
ちょっと興味が湧いた。
「片瀬さんって何歳ですか?」
「ああ、今年で23歳です」
「同い年だ」
一緒に出してもらってた紅茶を飲む。
「東京の方なんですか?」
「ええ」
東京のどちらですかと聞きそうになってふと思う。わたしは何をこんなに個人的なことをペラペラ聞いてんだ?
「すみません。お忙しいのに、雑談してしまって」
そして、仕事に戻った。次のレアチーズケーキへと進む。
「あ、ベリーソースですね」
「ええ」
「じゃあ、まずはつけないでいただいてから」
いいお味でした。それからつけて口に入れた。
「え……」
「どうかしました?」
ちょっと心配そうな顔して、片瀬さんがわたしの顔を見ている。
「あ、すみません。もう一口」
そして、もう一度口に入れた。やっぱり。変わった味だった。甘酸っぱさや香りの広がり方がケーキの味の前に来ない。でも、ちゃんとした存在感がある。あの、3歩後をついてくる奥さんみたいなソースだ。
「まずいですか?」
「あ、いや、今まで食べたことがない味」
「え?」
「わたし、ケーキに関しては本当に色々なお店でいろいろなものを食べてるんです。もちろんお店によって少しずつは違うんですけど、でも、やっぱり似ているものなんですね」
「はい。」
「でも、これは違います。食べたことがない新しい味」
「まずいですか?」
「いえ。美味しいです。感動した。新しい」
「よかった」
そう言って片瀬さんが顔をくしゃっとさせて笑った。
「それ、作ったの僕なんです。そのソース」
「え?」
「まずいって言われたらどうしようかと思った」
「え、でも、片瀬さんってまだ新人さんですよね?」
「あ、はい」
「新人さんがこのソース作ったんですか?」
「え?あ、はい。ダメですか?」
少し困った顔でこっち見ている片瀬さんの素朴な顔をしばらく見つめた。
「天才……」
「へ?」
ぽかんとした。片瀬さん。
「わたし、まだ若いですけど、でも、これでも筋金入りのケーキオタクです。このわたしが保証します。あなた、天才」
「はぁ……」
「先生と呼んでもいいですか?片瀬先生」
わたしがそういうと、片瀬さんはぎょっとした。
「えっと……。僕と上条さんは同い年だし、それに僕、そんな先生と呼ばれるようなベテランじゃないですよ」
「わたしが呼ぶだけですから。片瀬先生」
「……」
「先生」
わたしは身を乗り出した。
「先生が作ったケーキはないんですか?ソースではなくて」
「あの……。まだ新人ですから、自分が作ったケーキなんて置かせてもらえないんですよ」
「でも、試作とかしないんですか?練習は必要でしょ?」
「……」
「お金出してもいい。食べさせてください。あなたのケーキ」
これが、わたしとひろ君の出会いでした。片瀬大生君。
出会った瞬間に虜になった。そう、彼の作り出す味の虜にです。
わたしは家族以外の男の人がずっと苦手で……。初対面の男の人に自分から一生懸命話しかけるなんて珍しいんです。でも、この時は不思議と、そういうことを全く考えなかった。それは、ケーキを介しての出会いだったからだと思います。大好きなものを目の前にして、わたしは、ありのままのわたしでいました。そして、ひろ君はあの時わたしにとって、わたしの苦手な男の人ではなくて、わたしの尊敬してやまない神様、パティシエだったんです。人を幸せにするものを作り出せる人。