16 ずっと眠っていた自分
16 ずっと眠っていた自分
片瀬大生
暎万が僕の手を振り解いて行ってしまってから、僕は静かな日々を送っていました。朝、起きて、店に出てもくもくと働きました。忙しくしている間だけ、あの娘のことを忘れられた。
あれから僕は味を追求することができなくなった。オリジナルのケーキを作れなくなりました。味の違いはわかる。人の作ったレシピ通りに作って、味見してそれがずれてないかどうかは前のように正確にわかるんです。僕ができなくなったのは、新しい味を生み出すこと。一つにやる気がなくなった。喜んでくれる人がいなくなってしまったから。もう一つ、それでも無理に自分なりに作ろうとした。すると、それが美味しいのかどうか、何も感じなかった。
暎万なら食べたらどういうだろう?
気づくとすぐにそう思ってしまって、そしてそのことが僕の心を裂きました。何度も何度もその痛みが僕を貫いた。
僕は自分のオリジナルのケーキを作ることを完全にやめた。
ただ黙々と作業に没頭するようになりました。
そして、仕事をしているとき以外は、暎万のことを想うのを自分に許してた。それが自分の心を刺すのだけれど、やめられずにいた。大人になった暎万の顔の合間にまだ小学生だったあの娘の顔が思い浮かぶ。
「たいせい君」
あのまっすぐなかわいらしい笑顔。そして、必ずと言っていいほどそのすぐ後にあの顔が浮かぶ。デブと言われてショックに歪んだ暎万の顔。涙が溢れて、去って行ってしまったあの日の映像が何度も何度も蘇る。彼女のかけていく後姿。小さいあの娘と大きくなったあの娘、その二つの背中を何度も見ました。起きている時も、夢の中でも。
会いたかった。もう一生会えないのかもしれない。いや、かもしれないではなくて、会えない。でも、会いたかった。想いが募って苦しい、その痛みを毎晩のように感じながら、僕は毎日を過ごしてた。
そんな時に暎万から電話が来た。
最初は僕の見間違えではないかと、何度も見直した。でも、スマホの着信画面は上条暎万を表示している。恐る恐る電話に出た。
「ひろ君?」
本当に電話の声は暎万だった。
「暎万?どうしたの?」
僕は夢を見ているのだろうか。
「あのね。いろいろ考えたんだけど、一度会って話せませんか?」
「……」
「だめ?」
「いいけど、どうして?」
「どうしてって……」
「ごめん……。急に会いたいなんて言われると、もう会えないと思ってたし」
期待してしまう。ダメだと知っているはずなのに。彼女は電話の向こうで息を吸い込んだ。
「お知り合いの人に勧められたの。前に進むためには、ちゃんとあなたと向き合って、過去言えなかったことを直接伝えるべきだって」
「うん」
「付き合ってもらえませんか?」
「うん。わかった」
彼女の声は淡々としていた。そして、淡々と電話を切った。
なんらの甘さも優しさもそこにはなかった。それなのに僕は期待することを止められなかった。うんと期待してたたき落とされるんだろうに。でも、止められない。
もう一度暎万に会える。もう一度。
僕は次の休みの日に、新宿御苑に呼び出された。約束の時間に門のところに着くと、スマホにメッセージが入って、温室の中にいるから探してという。なんか宝探しみたいだなと。或いは誘拐されて犯人に身代金を運び、代わりに人質を解放してもらうみたい。
チケットを買って中に入る。マップを取って温室に向かった。
平日なので人がまばらで、都心にもかかわらず静かだった。温室に入って中を探す。とても大きな温室だった。見つからなかったらどうしようと思ったくらいで。
暎万は奥の方にいた。様々な名前も知らない植物の奥に。
今まで暎万の前にも僕には好きな女の子がいて、何人かと付き合った。それぞれの人に対してその時の自分の精一杯で好きだった。だけど、その子達と暎万は違う。こんな言い方をすれば怒られるかもしれないけど、好きには重さがあるというか、程度があるというか……。ただ、そこに彼女がいるのを見つけただけで、泣きそうになるくらいに特別な人というのは暎万の前にはいなかった。彼女を久しぶりに視界に入れた時にそう知った。
近寄って行くと、彼女は僕に気づいた。
「久しぶり」
「久しぶり」
「わたし、やっぱり、どうかしてたのかな……」
「なにが?」
ほんのわずかに微笑んで、首を傾げた。
「小学校の卒業アルバムを取り出して、あなたの顔を確認したの。ちゃんと今のあなたの顔に面影が残ってるのに、どうして気づかなかったんだろう?」
何も言えなかった。何を言うべきかわからなくて。
「わたしは好きだった人の顔をわすれちゃってたんだね」
彼女はそう言った。今度は笑っていなかった。ふと僕は頭に浮かんだことを聞いた。
「なんで新宿御苑なの?」
「え?ああ……。人が少なくてわたしたちの話を聞く人がいないところがよくて、でも、まったく2人っきりってのも寂しいような気がしてさ。ほら、植物はものは言わないけど、生きてるから」
僕はそっと彼女の顔を見つめた。
「つまり植物が立会人ってこと?」
この僕たちの話し合いの。彼女は少し考えた。
「そうね」
「変わってるね」
「そうかな」
僕たちは手すりに寄りかかって並んで立った。近すぎず遠すぎず僕は彼女の横に立ちました。透明のガラスの天井から燦々と秋の日差しが僕たちと立会の植物たちを温めている。
「手紙読んだ」
「うん」
彼女は少し黙った。
「わたし、あの頃ね。ひろ君のこと好きだった」
「……うん。なんとなくわかってた」
「あなたはわたしが人生で一番最初に家族以外で好きになった人」
彼女の声は弾んではいなかった。とても暗かった。
「隆君にいじめられて、家族以外の男の子って怖いって思うようになってた時、たいせい君の家ってさ。パン屋さんだったじゃない。あなたの家に行って、あなたと偶然会った時があって、その時の様子で、あなたはわたしやわたしの家族と同じ種類の人間のように思えたんだよ」
「うん」
「それから、多分覚えていないと思うけど、わたしの両親のことを褒めてくれたことがあって、それが好きになったきっかけ」
それから暎万は僕を真っ直ぐに見た。
「でも、たいせい君はわたしのこと、好きではなかったよね?」
「あの頃はまだ、そういうの、なかった」
「だから、わたしの気持ち、迷惑だったんだよね?」
「迷惑だったわけじゃない。戸惑ってはいたけど」
「嘘よ。」
すぐに否定された。
「それは嘘だ。あなたはやっぱり煩わしかったのよ。心の底では」
暎万の声はじんわりと僕の耳を震わした。
「だから、デブって言って、わたしのこと、遠ざけた」
「違う」
「信用できません」
そう、直接、はっきりと言われたことがショックだった。好きな人にはっきりと目の前で、信用できないと言われた。
「あなたが過去にしたこと、許すこともできない」
ずっと、長い間、忘れることができなかった。心の奥底に残っていた罪悪感。それは、でも、どこか存在の曖昧なものでした。血を流すことができない傷のようなものだった。そして、永遠に治ることのない。僕はどこかで暎万に責められたいと思っていた。
どのぐらい傷つけてしまったのかわからず、許されたいと思いながら、やはり許されないことなのかも確かめることができず、そして、忘れることができなかった。できないままに本当にあった出来事はいつのまにか僕の心の中で一人で歩いて、そして、何か違うものになっていった。
現実の暎万がどこにいて、どんな風に思って、どんな風に生きているのかとは関係ないところで、僕の中でただ忘れられない出来事として存在し続けていた。僕の中では暎万はずっと暗い顔をして生き続けていた。現実で再会した暎万は表面上は元気になっていた。
でも、本当の暎万は、今、ここで僕を真っ直ぐに睨んでいる。
僕を許せないといって、睨んでいる。
たどり着いた。長い時間をかけて、やっと本当の暎万に僕はたどり着きました。
もちろん、辛かった。好きな人に許せないと言われて。だけど、どうしてだろう?ホッとしていた。想像の中で様々に怒ったり恨んだり傷ついている暎万が僕の中にはずっといた。そして、僕の罪悪感も確かにずっとあった。
直接ぶつけてもらえないことに対する辛さの方が僕にとっては大きかったんです。
僕はずっと暎万の怒りを受け止めたかった。あの時からずっと。
上条暎万
静香さんは言った。あの時のことをひろ君と直接話しなさいと。そして、その時にわたしが本当にどうしたいのかわかる。そう言われた。
信用できないと言うと、ひろ君が目の前で傷つくのがわかった。ああ、あの日のわたしみたいと思った。デブと言われて傷ついたわたし。許せないと続けて言って、また、彼を傷つけた。
その表情をちゃんとこの目で見ました。
「あなたがたいせい君だと知らなければ、100%であなたを好きだったのに」
「……」
「ずっと騙してくれたらよかったのに」
「ずっと一緒にいたら、いつかは、わかるでしょ?その時が遅ければ遅いほど、君が傷つくと思って」
ひろ君は少しだけ涙ぐんでいた。
「ひろ君はわたしの何が好きなの?」
「……」
彼はしばらく黙っていた。それから、口を開いた。
「おいしそうに食べる顔」
「それから?」
「なんか独特というか、君の話は時々、予想できないような方へ走っていってしまうから、新鮮で、飽きない」
「……」
「僕にとって、ケーキを作ることは、仕事だった。他にすることがなくて、そして、僕は、まぁ、真面目なタチだから、コツコツできることはしていたけど。やりがいとか、燃えるような気持ちとか、別になかった」
ひろ君はとつとつと話し始めた。
「仕事だけじゃなくて、僕の人生は、もっと淡々としたものだったんだ。不満はなかったけど。それが、君が現れた途端に変わった。君は僕の仕事に意味を与えた。それは、生きる意味のようにも思えたんだ。大げさかもしれないけど。あなたが、急に僕のことを天才だなんて言って、そして、僕を新しい世界に連れて行ってしまった」
そして、ひろ君は目からポロリと涙をこぼした。
「暎万、俺、やっぱり君と離れたくない」
その時、わたしにはひろ君の体から発する波動のようなものが見えた気がします。それは、波動というのか、それとも、何だろう?そして、その波動はわたしからも出ていたのではないかな?どうしても触れ合わずにはいられない。どうしても惹かれあってしまう何か。
二人でいた時のあの感動。なんでもないことが、何倍にも何十倍にも思えるくらい、心に響いた。他の人ではきっとダメなんだろうと思う。この人でなくては。
「あなたは今、わたしを好きだと言っても、いつか将来、突然わたしのことをまた、嫌いになってしまうかもしれない。信用できません」
「……」
許すという行為は、自分のプライドを捨てる行為です。自尊心のようなもの。あの自分。ひたむきにまっすぐに彼のことが好きで、ある日裏切られた。あの時の自分は惨めだった。2度と信用するなとわたしの中のわたしが言っている。
「あの日のことは一生忘れられない。だから、わたしは、もう……」
一生誰も好きにならない。そう言おうと思った。
その時に聞こえました。やっとその時になって……。
本当にそれでいいの?
ずっと一人のままで生きてくの?
もう誰も信じないの?家族と、女の子の友達以外は。
自分が見えた。
小学生の頃の自分。その自分はわたしに向かってニッコリと笑ってました。
ああ、それは、あれです。まだたいせい君が好きだった頃の自分。
毎日、学校に行くのが楽しみだった。話しかけるタイミングを測っていた。うちに帰っても、その日あったこと、たいせい君のことを中心に思い出していた。
あの時、本当に自分は幸せでした。
そして、この前までの自分。ひろ君と少しずつ近くなって、そして、一つ一つ、彼のことを知る喜び。
もう一回、勇気を出して。あなたは大丈夫。あなたはデブなんかじゃない。
自分でここから出ないと、いつまでたってもあなたは幸せになれないよ。
わたしの中のわたしが、ずっと眠っていたあのたいせい君のことが一途に好きだった自分が、蘇った。思い出した。あの時の気持ち。
「暎万?」
不安そうにわたしを見るひろ君の顔がすぐ横にありました。傷ついた顔。
わたしはひろ君の手を取りました。ひろ君の片手を両手で取った。この手はあれなんです。わたしの大好きな神様の手。パティシエの手です。その手を自分の頰にあてた。
ケーキの香りがした気がしました。
「離れたくない」
「……」
「信じられない。許せない。きっとあなたといたら、わたしの中にはぐちゃぐちゃな気持ちがある。あり続ける。でも、離れたくないよ」
それが結局答えなのだと思う。
「暎万……」
「うまくいくかどうかわからないけど、もう少しだけ試してみる」
「本当に?」
「……」
「本当にそれでいいの?」
わたしは返事をしなかった。ひろ君はそっとわたしの頰から手を外して、それから両手でわたしを抱きしめました。いつかみたいに彼の腕の中にすっぽり入ってしまった。
彼の心臓の音がしました。そして、ぬくもり。
どうして、離れられるなんて思ったんだろう?もう一度彼の香りとその温もりに包まれてぼんやりと思う。どうして手放せるなんて思ったんだろう?
きっとわたしにはもう無理です。ここから抜け出せる気はしません。




