みどり
金縛り、という現象を誰しも耳にしたことがあるだろう。
夜。寝ていると、突然体が動かなくなる。それこそ金具で縛られたように、体が自分の意思では動かせなくなるのである。いや、厳密に言うと、「自分の意思が体に伝わらなくなる」と言った方が正しい。
なぜ私がそれを「正しい」か判断できるのかというと、実際にそれを体験したことがあるからだ。
それも一度ではない。少なくとも10回は遭っているし、「条件が揃えば」今でもかかりうる。その「条件」を回避しているために、最近はかかっていないだけだ。
草木も眠る真夜中、「鬼門」を向いて眠るとそれは襲い来る。何かの拍子に寝返りでも打って北東を向いていると、意識が薄れるころになって体が「こわばる」のである。筋肉を体の内側から何者かに引っ張られているように感じ、微塵も身動きできなくなる。動かそうとしても動かせない。
鎖や縄で縛られていると、いくら体に力を入れても動かない、という感覚になるが、この現象ではそもそも「体に力が入らない」。力を入れようという意思はあるのに、体にそれが伝わらない。めいっぱい力を入れているつもりなのに、目蓋の開閉はおろか、指先さえ動かせないのである。
そういう時私は決まって、「南無妙法蓮華経」と唱えることにしている。動かない口で必死に唱えようともがき、心の中で何度も反芻していると、やがて「こわばり」が消え、体は自由になる。
今でこそこれらの経験則を得ている私だが、初めのうちは対処法がてんで分からなかった。
「南無妙法蓮華経」は仏教において究極とされる「題目」であり、これさえ唱えておけば超常の存在には対処できる(と私は信じているし、実際なんとかなってきた)。しかし、現象の発生原因は分からない。武器をもっているとはいえ、それを使えるのは攻撃を受けた後で、いわゆる「後手」にまわってしまう。金縛りを受けてから打ち消すのでなく、そもそも金縛りを受けないにはどうすればいい?
そうして何度かの経験と試行錯誤の末にたどりついたのが、「鬼門」という結論だった。金縛りは決まって北東を向いて寝た時に起きる。古来より風水において、建物の北東・南西は「鬼門」「裏鬼門」とされており、鬼の通り道として恐れられている(北東が入口、南西は出口なので「裏」)。そのため、家屋の北東には鬼が嫌うとされるヒイラギを植えることが多い。
私の家の北東にもヒイラギは植わっている。しかし三階にある私の部屋は、どうもその防衛圏から外れているような気がしてならない。もし外れていないのなら、ここまで頻繁に、それも確実に金縛りにかかるだろうか……。
閑話休題。
とかく、私はこれらの経験を得たことで、現在は金縛りにかからずに済んでいる。すなわち、北東を向かないよう気をつけることにしたのだ。それだけで金縛りはぱたりと病んだ。
しかしながら今でも、少しでも北東を向くと、金縛りにかかりそうな「気配」がすることはある。体の奥の方がなんとなく「こわばって」くるのである。そうした感覚がしてきた時は、すぐさま北西に頭の位置を移すことにしている。
このように何度か金縛りを経験し、そしてある意味「克服」したとも言える私は今回、数ある金縛りのなかでも際立って「異様」だったものについて書こうと思う。
数年前の晩、私は何度目かの金縛りにうなされ始めた。体は動かず、目も開かず、声も出せない。閉目の暗黒のなかで、私はその時、「ヴィジョン」を見たのだ。
昼日中のマンションの一室と思われる場所で、小太りの男が包丁を私に向けている。髪型は2000年代前半のチャラ男のようなトゲトゲした長い茶髪で、白黒ボーダーのTシャツを着て、顔は芸人の星田英利(元・ほっしゃん。)によく似ていた。部屋の中には私と彼、そしてあと二人、波打ったロングの茶髪の女たちがいた。皆、ひと昔まえの風貌をしているのが奇妙な違和感だった。女性たちは悲鳴をあげていて、私は包丁を自分に向けるほっしゃん似の男を説得しようとした。
否、正確には、「私の口が勝手に男を説得しようとした」。そういうふうに、勝手に動いたのだ。このとき私の体は私のものではなく、私は自分が「私」だと思っていた「彼」のなかで、ことの運びを見守るだけだった。体は「彼」のものであった。しかし「彼」は説得むなしく、包丁の男に刺されてしまった。私は鋭い刃物が体に突き刺さる感覚をおぼえた。へその少し上あたりで、皮膚が、内臓が寸断された。刃物は抜かれず、そのまま「彼」≒私はその場に倒れた。
目の前が真っ暗になった。その暗い視界の中で、彼は最後に「みどり」とつぶやいた。彼の口がそう動き、私の耳はそれを聞いた。
そこで私の金縛りは解け、体は自由になった。
あの時の感覚は、今思い返しても「奇妙」としか述べようがない。ただ、彼の最後の「みどり」というつぶやきだけが、私の耳に不思議と残っていた。それは愛する人に語りかけるような、無念と愛情の入り交じった声色であった。
「みどり」とは、結局誰だったのだろう? あの場にいた女性のどちらかだろうか。いや、そもそもこの「ヴィジョン」は何だったのか? 中国では「幽霊」としての意味を持つ「鬼」が、私の家の「鬼門」から「裏鬼門」へ抜ける際に、どうか誰かに知って欲しいと念じて伝えたものだったのだろうか。あれは本当に「ひと昔まえ」に起きたできごとで、その無念の思いを「彼」が私を通じて、今も生きている「みどり」に伝えようとしたのか。
そのようなことを考えて、2000年代初頭の殺人事件について少し調べてみようか、とも考えた。しかし、結局何も調べはしなかった。この「ヴィジョン」が私のただの夢である可能性も否めないし、何よりも私の人生は私のものであって、死者のために動かなければならぬというのは、なんとなく気持ちの悪いものを感じたのだ。私は今生きている人間として、彼の分まで人生を楽しもう。そう結論して、私はこの件について考えるのをやめた。
しかしあの「みどり」というつぶやきだけは、私の耳に残って消えない。悪意や怨嗟とは程遠い、あの純粋な「善」なる意思から出たとしか思えない切ない声色は、今でも時折わたしの胸を刺すのである。