1991年
【ヴァレリー・ローズ・ムグラリスの記録】
ヴァレリーが日本にやってきたのは三歳の誕生日の翌日だった。よく分からぬままに飛行機に乗り連れてこられた異国の地。知らない言葉で話す人たち。ヴァレリーは恐れと怒りから家から出たがらなくなった。
しかし春を迎えると幼稚園に通わされることになり、ヴァレリーは絶望した。誰とも言葉が通じない。ヴァレリーは仕方なく日本語を学んだが、クラスでは語彙の足りなさから赤ちゃん扱いを受けて幼いプライドを傷つけられていた。
そんなヴァレリーが不思議な双子に出会ったのは夏休みの初日だった。今日から早起きしなくていいと言われたっぷりと睡眠をとっていると、家から知らない人の声がする。フランス語だ。フランスの子どもがやってきたのだろうか?
そう思って一階のリビングに行くと、そこには同じ顔をした子どもが二人、しかも一人は自分の席に座っている。反射的に言葉が出た。
「誰? それ、あたしの椅子よ」
「これは失礼」
ヴァレリーは目を丸くした。フランス語が返ってきたからだ。
そうして驚いている間に、子ども二人はひょいと椅子を降りて挨拶してくる。
「おはよう。私はテルネ。あなたのお母さんが開いているフランス語教室の生徒だ。あなたは、先生の娘の、ヴァレリー?」
ヴァレリーは絶句した。自分の名前を完璧に発音する日本人なんて初めて会ったからだ。他の日本人は、大人だって、何度教えても発音が変だったというのに。
「申し訳ない。椅子は借りている。嫌ならすぐに返そう」
ヴァレリーが何も言えないでいると、テルネは同じ顔の隣の子の耳に口を寄せた。
「何か失敗したか?」
「彼女はまだ三歳だろ? うまく喋れないだけじゃない? ペラペラ喋ってる君が異常なんだ」
「喋れるわよ! 赤ちゃん扱いしないで!」
ヴァレリーが怒りの声をあげると、テルネは「喋れるってよ」と言い、もう一人は肩をすくめた。
「それは悪かったね。僕はナルトだ」
「なんで家にいるの? ここはあたしの家よ!」
「聞いていなかったのかい」
「ヴァレリー、君の母さんはフランス語の教室を開いている。私たちはその生徒だ」
ヴァレリーは母が働いていることは(幼稚園に入れられる下りで)聞いていたが、それが教室とは知らなかった。ましてや、同年代の生徒がいるなんて。
「あなた、幼稚園は行かなくていいの?」
「行かない。その代わりにいろいろな教室に通っているんだ。ここはそのうちの一つだ」
「ママ!」
ヴァレリーは駆け出し、トイレから出てきた母に突進した。腹に頭突きを食らわせ、「ヴッ」と息をつまらせてやってから、輝くような笑顔で母を見上げる。
「あたしも今日から幼稚園の代わりにママの教室に通うわ!」
◇ ◇ ◇
果たしてヴァレリーが幼稚園を免除されることはなかったが、風邪をひいた日や長い休みでは、この不思議な双子と一緒に過ごすことが多くなった。
初めは警戒心の塊であったヴァレリーも、同じ言葉を喋る唯一の同年代との触れ合いに、次第に気を許すようになっていく。
そうして2年が過ぎ、再びの夏休み。
「あなたたち、もっと家に来たらいいのに」
いつものとおり教室にやってきた双子に、おやつタイムになって母が席を外すとヴァレリーはそう言った。
さすがに2年も経てばヴァレリーも日本語がネイティブと変わらないぐらい上達していたが、この二人は頑として――特にテルネがフランス語を話したがったので、フランス語で会話している。
「ヴァレリーがいない間にもっと来ているが?」
「それじゃ意味がないのよ!」
テルネはナルトの方を向く。目で「どういうことだ?」と聞いているのだろう、ナルトは呆れた目を返していた。
「もっと、土曜とか日曜に来なさいよ」
「他の教室に通っているから無理だ」
「他って、何をやっているの?」
「英語、北京語、広東語、ピアノ、絵画、バレエ、あと空手とか、体操とか、いろいろ」
ヴァレリーは――普通なら「いいな」とか「楽しそう」と子どもらしい感想を持つところを、その量に圧倒された。
「バレエに空手……?」
「子ども用のダンススクールが見つからなくてな、バレエしかなかった。まあ基礎を習うつもりでとりあえずやっている。流行はそのうち変わるし。空手はやはり型だな。アクションのモーションを出すならやはりある程度はサマになっていないと」
「テルネはそんなに教室に通って何がしたいの? 遊ぶ時間もないんじゃない?」
尋ねると、テルネは少し言葉に詰まった。
「……いい学校に行きたいんだ。小学校を受験するためだな」
「え? 小学校は来年行くでしょ?」
幼稚園で「来年から小学生」とことあるごとに言われていた。特にテストがあるという話は聞いていないし、せいぜい校区の話がおませな子達の間でされて騒ぎになったぐらいだ。
「テルネとあたしの家は同じ校区でしょ?」
「そうだけど、その学校には行かない。別の学校を受験して行く」
「え……ナルトも?」
「うん」
ヴァレリーは衝撃を受けた。
そもそもの話、ヴァレリーが日本に住むことに納得し始めたのは双子の存在があったからだ。同じ言葉で話し合える、もしかしたら自分よりかしこい子ども。その二人がいるから、フランスに帰りたいなんて言わなくなったし、両親も腰を落ち着ける気になったようなのだが……。
そんな二人が、小学生からは会う機会も増えると思っていたのが、違う学校に行く。
「どうしてよ!?」
「あー……レベルの高い教育を受けたいんだ。ここの小学校じゃ英語さえ学べないし」
勉強がしたい、という子供らしからぬ理由は、しかしテルネに限って言えば納得できるものだった。母とのフランス語教室でさえ、ものすごい集中力で真剣に受けているのだから。
「……ナルトは?」
「テルネについていくよ。放っておけないだろ?」
うそぶくナルトに、テルネは顔をしかめる。しかしヴァレリーはナルトも本気であることがよくわかった。格好つけているが、ナルトはテルネにべったりのお姉ちゃんっ子(最近双子のどちらが姉か知った。というか、テルネが女の子であることのほうが驚きだったが)なので。
二人は本気だとヴァレリーは知り――
「ずるい」
ポツリと言葉を漏らした。
「それならあたしも二人とおなじ学校に行く! 受験する!」
「簡単に言うがご両親の都合も――」
「行くの!」
ヴァレリーの目から涙がこぼれる。カッとなって二人がずるいこと、一緒にいられないのがずるいことを訴える。
「わかった、わかったよヴァレリー」
嗚咽とともに掴みかかってくるヴァレリーに、テルネは疲れたような諦めたような――何か企むような声で請け負った。
「私からもヴァレリーのご両親に頼んであげるから」
◇ ◇ ◇
「それでテルネ、なんでヴァレリーを受験させることにしたんだい?」
「言語は反復学習が必要だ。今後も私とお前で曜日ごと言語を変えて話すつもりだったが、小学校じゃ他の人間が理解できない言葉で話すなとイチャモンをつけられるかもしれない。その点、ヴァレリーがいれば堂々と喋れると思わないか?」
「……裏切られると分かっているのに、君に人間らしい回答を求めてしまうのはどうしてなんだろうね?」
◇ ◇ ◇
【ステラ・リーの記録】
ステラ・リーはいわれのない中傷に苦しんでいた。
ステラは女性ではあるが、だからといって批判に黙るようなことはしない。自分に間違いがないと分かっていれば、どんな強面の男性にだって反論しにいく。そのせいでこの日本人社会で多少立場を悪くしたところで、知ったことではない。
だが相手が子ども、それも特別な子どもだったときはどうしたらいいのかわからなかった。
きっかけは自分の一言であった。
「二人とも、秋にあるピアノコンクールに出ませんか?」
ステラが日本で始めたピアノ教室に、この不思議な双子がやってきたのは一昨年の秋のことだった。
はじめての挨拶で、二人は北京語で自己紹介してきた。驚き、自分も北京語で挨拶を返す。だが双子はわずかな違和感から首を傾げた。
「二人の話したのは北京語ですね。私は香港の生まれです。香港の人は広東語を使います。私は北京語は少しわかります」
すると双子の女の子のほうが目を輝かせて言った。
「それはちょうどよかったです」
「え?」
「月謝は割増でお支払いしますので、広東語のレッスンも同時にお願いできませんか?」
何を言ってるんだと思ったが双子の女の子のほう――テルネは本気だった。親に確認したが問題ないという。
まあ、割増料金をとれるなら。そう考えて了承し、以降この双子とは広東語でコミュニケーションをとっている。
「コンクールですか?」
「そうです」
はっきり言ってこの二人の才能は非凡なものがある、とステラは考えていた。
ピアノを習いに来る未就学児は教室に何人かいるが、大抵親に通わされているだけの子どもで、レッスンなんてまじめに10分もできていない。
それがこの二人は家が近いとはいえ二人だけで歩いて自主的に教室を訪れ、幼児とは思えない集中力と根気強さでレッスンを受ける。この年齢においてはそれだけで輝かんばかりの才能といえた。期待からステラ自身も、一日のレッスン時間をこの二人のために長く確保するようになっていた。
弟のナルトの方はやややる気に欠けるが、それもテルネと比較してのことだ。耳コピや作曲にまで興味を示すテルネがやや異常なだけで、二人ともコンクールで十分な結果を残せる見込みがある。いや、間違いなく賞が取れるはずだ。それもぶっちぎりで。
だから水を向けたのだが――
「出たくないです」
「へ?」
テルネにキッパリと断られるのは予想外だった。
「え……ええ? こんなにピアノが好きなのに? あ、それとも人前に出るのが恥ずかしい? 客席はそんなに見えないと思うよ?」
だから出てみない? と問いかけると――テルネは困った顔でナルトを見る。
「参ったな。どう断ればいい?」
「出ればいいんじゃない? スケジュールぐらい調整しなよ」
「目的のためにもそれはだめだ。……なんで先生は私をコンクールに出したいんだろう?」
「そりゃあ」
そして、いわれのない中傷が始まる。
「名誉のために決まってるじゃないか。教室を開いて優秀な生徒を集めて、コンクールに送り込む。生徒が優秀な成績をおさめれば指導者の実績になるわけで」
「なるほど。そうすればより生徒が集まって資金が集まるな」
「生徒が国際的に成功でもしてごらんよ。私が育てましたって大きな顔ができるようになる。国際的な音楽家の仲間入りだね。自分が賞を取れなくたって、そうやって身を立てる方法はあるものさ」
「つまり先生は金と名誉が欲しいわけか」
何を言い出すんだこの子たちは。
自分がコンクールを勧めたのは生徒のためを思ってだ。自分の実力を知るのは成長の糧になるし、自覚すれば本気で音楽の道を選ぶきっかけになるかもしれない。そうすればさらに先の道へ進みやがて世界的なピアニストになって、そうなれば経歴も調査されて嫌でも私の音楽教室の名前が、あれ?
完全に否定できず、ステラは固まる。金や名誉は主目的ではないのだが、だからといっていらないわけじゃないし。
「先生」
ステラが己と戦っている間に結論が出たのか、テルネが申し訳なさそうな顔で話しかけてくる。
「もしコンクールに出場することが必須なら、この教室は今日限りやめさせていただきます。残念ですが……」
「ええ!? そこまで!?」
「はい」
いやまさか、と思ったが、テルネに限ってはありえそうだった。他の子は嫌だと言っても親が通わせるだろうが、テルネは自主的に通っているし、広東語の件を考えてもかなりの決定権を持っていると(子どもなのに!?)考えられる。コンクールを強要すれば、迷いなくやめるだろう。
「……わかりました」
結局、ステラはコンクールを諦めた。この双子を手放すよりは、割増料金をもらうほうが(よく考えると伸ばしたレッスン時間でトントンなのだが)得だし、何より。
デキる子の教育は楽しいのだ。
何、いつか気が変わることもあるだろうし、他の教室に行ってからそうなったら育て損じゃないか。
「お、悪いこと考えてる顔だよ、あれは」
「お前が言うか?」
「……君が言う?」
結局、ステラ音楽教室から才能ある双子の噂が世に出ることはなかった。
本日はここまでになります。毎日更新します。