遠い記憶の中に
暑かった夏が過ぎ、少しだけ夜の涼しさを感じ取れるような季節になってきた頃。
僕の祖母が92歳で亡くなった。
幼い頃に両親と兄たちを亡くしていた僕にはたった一人残された肉親だった。
僕に遺されたのもの。
田舎の古い家と畑と、それから山。そして、想い出。
山だなんていうと大げさに感じるけれども大したもんじゃない。子供の頃に走り回った小さな裏山だ。
家は古民家といった感じのもの。夏は涼しく冬は暖かく、なんというか温もりのようなものが感じられた家。
畑は広い耕地があるのではなく、テニスコート二面ほどの土地。祖母はそこに様々な野菜を栽培していて、幼い頃の僕も毎日のように手伝ったものだった。
それが僕のものになる。
そう言われてもピンとこなかったし、僕にはどう使っていいのかわからなかった。何よりも相続するには僕のポケットが小さすぎたのが原因だ。23歳のしがない会社員の僕にとって。
『相続は放棄しよう。』
祖母は怒るかもしれないけれども心の中でそう決めていた。
祖母は厳しい人だったが優しい人だった。
小学生になる頃、両親たちを亡くしたのをきっかけにこの田舎にやってきた。それまではただ遊びに来るだけの田舎だったのに。
都会暮らしに慣れていた僕には、初めのうちこそ目新しさもあって楽しかったが、夜になると寂しさから一人枕を濡らす毎日だった。祖母はいつも僕の隣りにいてくれた。
中学生までこの田舎で祖母と二人で過ごし、高校進学を機にここを離れることになった。理由は簡単。高校がないからさ。
その時の祖母が僕に言った言葉はたった一言。
『元気にやれや。』
思春期真っ盛りの僕は、まるで祖母に反抗するかのようにムスッとした表情を浮かべたのを覚えている。
今くらいの年齢になれば、祖母の言葉が愛情以外の何物でもなかったと理解できるけれども、あの頃の僕には・・・出来なかった。
そして、祖母と僕はこれまでよりも少し疎遠になった。
大学まで進学させてもらい、それなりの企業に就職することができた僕は、祖母への今までの感謝の気持ちを伝えるために、初任給でプレゼントを送った。
『こんなものはいらん。』
祖母は僕に対して電話越しでいつものように文句を言っていた。けれども、久しぶりに聞いた声はほんの少しだけ元気が無いように聞こえた。
『たまには顔くらい見せや。』
そう言って一方的にブツリと電話を切られたのが数ヶ月前のこと。
あの時、どうしてすぐに会いに行かなかったのだろう。
”後悔、先に立たず。”
その思いが今でも胸の中に残っている。
大自然に囲まれた家の縁側で一人腰を下ろし、虫の声を聞きながらタバコに火をつけた。都会では美味く感じていたそれは、不思議なことに酷く不味く感じた。
「あんたが和弘かい?」
縁側に座る僕にそう声をかけてきたのは、庭に植えられた柿の木にもたれかかるように立っていた女性。僕と同じ年頃に見えた。
「あぁ、そうだけれど。あんたは?」
そう答えながら女性の顔を見たが、覚えのあるような顔ではなかった。こんな田舎では珍しく長い髪を金色に染めていたのが印象的だった。
そして、彼女は僕の問に答える前にゆっくりと僕の前に歩いてきた。彼女の目は細く切れ長で、肌の色は白い。派手めな服装と相まって、この場所ではどこか悪目立ちをしているような。そういった感じの女性だった。
あえて言うならば、都会ではたまに見かけることがあっても、僕には声をかけるのがはばかられるような感じ、といったところだろうか。
「私は、あんたの婆さんに世話になっていたものさ。」
女性はそう答えた。どこか淋しげな笑みを浮かべながら。
「でも、式には来られていなかったように思いますけれど?」
「・・・いや、いたさ。」
女性の答えは一瞬だけ間があったように思う。そして、僕は彼女がどこにいたのだろうと考えていた。これほどに目立つ女性だ。どこかで見かけたなら一瞬で気がつくはずなのに、僕は一向に気が付かなかったのだろうか。
「そうでしたか・・・失礼をしました。ところで、申し訳ありませんがお名前をお聞きしてもよろしいですか?」
僕の言葉に彼女は笑みを浮かべて答えた。
「・・・シズク。」
その名を聞き、僕は一瞬だけ首をかしげる。なぜかって?それはどこかで聞いたことがある名前だったからさ。
「そう・・・それで、シズクさんは僕になにか用事でも?」
彼女の目をジッと見つめながら問いかけるものの、彼女の口から答えは聞こえてこない。ただ、彼女も僕の目をジッと優しく見つめ返してきた。
「えーっと・・・?」
「あぁ、すまない。和弘の顔を見たのは十年ぶりくらいでね。」
そう言われても、ここで過ごしていた頃の記憶にはシズクという女性がいたというものはない。聞き覚えのあるはずの名前にも関わらず見知らぬ女性。僕はなにか不思議なものを感じていた。
「十年ぶり、ですか?」
「あぁ、立派になったんだな。」
そう言って微笑んだ彼女の顔は、既に記憶の中にしかない母親の笑顔のようだった。
「あなたはいったい?」
「あんたの婆さん。いい人だったよ、本当に。私は毎日のようにあの人と話をしていたんだ。まさか、とは思ったけれど。こんなにあっさりとはね。」
悲しげな表情を浮かべながらそう口にした女性の顔を見つめていた僕は、不思議なことに懐かしい気持ちと違和感を覚えていた。
だって、祖母の友人というには若すぎるし、あの厳しかった祖母がこんなフランクな話し方をする人と友人でいられるとは思えなかった。
しばらくすると、訝しみながら見つめていた僕の視線を無視して、彼女は、まるで遠くを見つめるようにして空を見上げた。僕もそれに釣られるかのように空を見上げると、いつの間にか徐々に星たちの時間が近づいてきていることに気がついた。
「そう・・・ですか。」
どこか納得のできない思いはあったけれども、なんとなく不思議と気の許せる相手のような気がした。
「あぁ。」
その言葉を境に彼女はしばらく黙り込んでいた。故人である祖母を偲んでいるのかもしれない。そう思った僕は彼女には声をかけずにいた。
「・・・私はね、あの人にキミのことを頼まれたんだ。」
少し小さめの声で彼女はそう口にした。
「僕のことを?」
祖母が僕のことを頼むような相手。そんな人がいただなんて知らなかったけれども、もしかすると、ご近所の?・・・とは言っても隣の家まで歩くと数分かかる程に、ここは辺鄙な場所なんだけれど・・・
「私はキミがここからいなくなってからは毎日、あの人からキミの話を聞かされていたよ。だから、あれから十年近くも時が流れただなんて思えなくてね。」
シズクさんはその時のことを思い出しているのか、軽く目を瞑りながら口元に笑みを浮かべた。
「毎日、ですか。」
僕は少し驚いた。祖母が僕と同い年くらいの女性にそんな話をしているとは思っても見なかったから。
「本当に、毎日毎日。いつもキミのことを話していたよ。それはもう、とっても自慢げにさ。良くも飽きもせずに話せるものだって思ったけれどね。」
彼女のその口調はそんな言葉とは裏腹に、嬉しそうに感じた。
「そうなんですか。」
「あぁ、だから、私はキミのことを本当によく知っているよ。とはいっても、あの人の知る範囲のことしか知り得ないけれどね。」
祖母とはここ数年の間、一度も会ってはいなかった。だから、祖母が話すことと言えば、僕がまだここに住んでいた頃の話や、たまの電話で話したことだけなのだろう。
そうして彼女は見上げていた空から目線を僕に移し、細い目でジッと見つめてきた。
「キミの右腕の火傷のことも。私は知っているよ。」
彼女の言葉に僕は思わず大きなケロイド状の傷が残っている自らの右腕を掴んだ。
あまりにも醜い傷であったがゆえに、僕がいつの間にか半袖を着ることを憚るようになった傷。
この火傷を負ったのは、もう・・・かなり昔の話だ。
僕が中学生になる直前くらいに近所で大きな火事があった。死者こそでなかったけれど、一軒をまるまる焼いてしまうほどの大きな火事だった。火災の原因だなんていうものは知らない。ただ、燃えさかる家を見ながら祖母の言葉を思い出した。
『ここのお家のお庭にはね、神様がおられるんだよ。』
そんな言葉を子供ながらに信じていた時代があった。
祖母が神様と呼んでいたそれはとても小さな社だった。そのあまりの小ささに、子供ながらに小さくてかわいそうだなんて考えいた。
僕は、炎が激しく暴れている民家の敷地内に駆け込んだ。あたりにいた大人たちが驚いたような声を上げていたような記憶がある。僕は燃えさかる民家を横目に見ながら、祖母が言っていた小さな社の前に立っていた。神様のお家である社にも既に火が燃え移っていた。
そして僕は・・・一つ深呼吸をしてから真っ赤な炎が燃えさかる小さな社の中におもむろに手をつっこみ、そこから何かを掴んで必死でその場から走りさった。
幸いにして僕は死ぬことはなかった。
けれども、祖母にはものすごく怒られたことを覚えている。それも無理はない。だって、その時の行動が原因で僕は右腕に大やけどを負ったし、髪の毛もチリチリに焦げてしまったのだから。
『生命があったことをありがたく思いなさいっ。』
そう言って抱きしめてくれた祖母の温かさは今でも忘れることが出来ない。
そして、あの時に小さな社から何を持ち出したのか、僕は何も覚えていないし、それがどこにいってしまったのかもわからないでいた。
「そうですか。我ながら、馬鹿なことをしたもんです。」
僕は右腕の火傷を軽く撫でながら自嘲気味にそう口にした。
「あぁ、まったくだよ。あんな物のために自らの命を顧みない行動をするだなんてさ。」
彼女も呆れたような表情を浮かべている。
「あんなもの・・・というのはどうかと思いますけれど。」
そう、あれは神様だったんだ。祖母がそう言っていたんだ。それを『あんなもの』呼ばわりされたことが少し癪に障った。
「『あんなもの』なんだよ。あれは所詮はただの『モノ』なんだから。人の命には代えられるような代物じゃないんだ。」
そのあまりに真剣な眼差しと言葉は、僕の短絡的な行動を責めているのではなく、むしろ、僕自身の体のことを案じての言葉だったようだ。
あの時の祖母の言葉も・・・同じものだった。
「でも・・・私は嬉しかった。」
彼女の口にした言葉は僕には理解が出来なかった。
「いや、なんでもない。まぁ、キミの姿も見ることが出来たし、私にはもう、思い残すことはないよ。あの人にはキミのことをさんざん頼まれていたけれど、今のキミを見たらそんな心配はなさそうだしな。」
彼女は笑顔でそう言って会話を打ち切り、クルリと僕に背を向けてこの場から立ち去ろうとした。
「待ってよ。」
「なんだ?」
僕が掛けた声で彼女は立ち止まる。
どうしてか、ここで彼女を引き止めなければ二度と会うことはできなくなるという思いが溢れてきた。
「そんな話のために、ここに来たんですか?」
「あぁ・・・そうだな。一度、話をしてみたかったんだ。キミとな。」
彼女は一向に振り返るような素振りすら見せない。それどころか今にも立ち去ってしまいそうな雰囲気を醸し出している。
「僕が持ち出したもの、あれは今どこにあるんでしょうか。」
焦った僕が切り出した言葉。それにどんな意味があったのかだなんてわからない。
だって、彼女が知るはずもないのだから。あれは祖母がどこかへ持っていってしまった。僕だって行方を知らないあれのことを。
そしてあれが一体なんだったのか・・・
「知らないのかい?」
彼女は相変わらず僕に背を向けたままでそう言った。
「知らないんだ。」
僕は頷き、彼女の問に答える。確かに知らないあれの行方について。
「そうか。私はてっきりキミも知っているのだと思っていたが。」
そして彼女はゆっくりと振り返って庭の片隅を指さした。
その時、一陣の風が吹き抜けて彼女の長い髪を一気になびかせた。
「あ・・・あれは・・・まさかっ。」
今の今までまったく気が付いていなかった。そこには幼い頃に見た小さな社とそっくりな形をした木で作られた社が佇んでいた。
僕は思わずそこに駆け寄り、一人で笑みを浮かべた。
「そっか・・・ここに・・・」
そう独り言をつぶやき、ハッとなって彼女の姿を探した。しかし、庭には既に彼女の姿はなかった。
その日の夜。
久しぶりに僕は夢を見た。
妙にリアルに感じる夢。
昔々、この地域はとても豊かに栄えていた。
水も食べ物も豊かで、誰しもが平和に過ごせる場所だった。
しかし、ある年。それまでに経験したことのないような大雨が続き、川は荒れ果て洪水を引き起こし、田畑を押し流し、多くの民家も巻き込まれた。
おかげでその年は過去に例を見ないほどの凶作となり、飢饉が起こった。
そして翌年。今度は幾日も雨の振らぬ日が続いた。川は枯れ、井戸水までほとんど湧き出さなくなった。
昨年の大雨の際に、『雨は金輪際いらぬ』と口にした村人までが雨を望んだ。
しかし、その後も雨は殆ど降ることがなく、その年もまた凶作となった。
そんな不幸が更に数年続いたとき、一人の女性がこの村を救うためにやってきた。
彼女は幼い頃から不思議な力を持っていた。
その祈りは天まで届き、雨を降らせ
その願いは地に届き、実りを与える
そんな奇跡を起こす女性だった。
彼女は山にこもり、この村のために幾数日も神に祈りを捧げた。
そして、それから数日後、日照り続きの村に待望の雨がやってきた。
枯れ川には水が戻り、井戸水も蘇った。それらはかつての姿を取り戻した。
植物たちも息を吹き返したように芽吹き出し、村人たちは歓喜に湧いた。
村は一人の女性によって命を救われたのだった。
山を降りてきた女性は村人たちに笑みを向け、共に喜びの時を分かち合った。
そして、その翌日、お礼の品も受け取らずに村を去った。
『私を待っている人が他にもいますので。』
それが彼女が村に残した最後の言葉だった。
しかし、彼女が村を去った直後、噂を聞きつけた不遜な者たちに捕まってしまった。不遜な者たちは彼女の力を用いて金儲けを企んでいたのだった。
だが、そんな不遜な者たちに決して屈することのない彼女は自らの特別な力を封じた。己の力を悪用をされないようにするためだったのだが、それが彼女の運命を不幸な方向へと変えてしまった。
不遜な者たちは利用価値の無くなった彼女をあっさりと殺し、その遺体をまるでゴミのように村の片隅へと打ち捨てたのだった。
彼女の無残な姿を見つけた村人たちは嘆き悲しみ、せめて自分たちだけでも彼女を崇め、讃えようと質素ではあったが社を建てたのだ。
この村を救ってくださった神をして。
これが、あの社の神様の話だよ。
和弘、あんたは忘れてしまっていたのかい?
あぁ、そうだった・・・ね。
大丈夫、ちゃんと覚えていたさ。
まったく、いくつになってもボーッとしているんだから。
素直に『忘れていた。』って言えばいいんじゃないのかい?
ほら・・・もう朝だよ。いつまでも寝てるんじゃないよ。
待ってよ、もう少し話を・・・
そして僕は目覚めた。
朝日が差し込む祖母の気配がする部屋で。
そして、もう一つのことを思い出す。
村を救ってくれた女性の名前を。
子供の頃から憧れていたあの女性の名前。
その名は確か・・・
僕は家と畑の処分を止めた。
いつかまた彼女に会える日が来るまで、小さな社とともに僕が守っていこう。
そう決心し、ここに戻ってきた。
在宅で仕事を行い、畑で野菜を育て、そして、社に手を合わせて話しかける。
そんな毎日だった。
そして、それから数年の時が流れた。
「まったく・・・私はそんなことを望んだわけじゃないんだよ。」
あの時と同じように縁側に腰を下ろし、虫の声を楽しんでいた僕は女性の声を聞いた。
僕はあの時よりも少し大きく成長した柿の木の方に目を向ける。
そこにはあの時と少しも変わらない彼女の姿がそこにあった。
「僕が、望んだのさ。」
あの時には見せられなかった笑みを、僕は彼女に向け、彼女も僕へ笑みを向けた。
その時、僕の隣には祖母の気配を感じた。
『ほら、惚れたんなら、自分から行かんかい。』
相変わらずのキツイ口調に苦笑いを浮かべながらも、無言で僕は頷き・・・
「ずっとここにいてくれるんだよね?」
僕の言葉に彼女は優しい笑みを浮かべたまま言った。
「あぁ、ずっとキミの側にいるよ。あの人にも頼まれていたしね。」
彼女は照れたような笑みを浮かべて僕の顔を見ている。
「シズクさん。僕はあなたの意思で、ここにいて欲しい。」
僕は柿の木に近づき、彼女に右手を伸ばす。
「・・・やれやれ。とんだ坊やもいたもんだよ。」
そんな言葉を口にしながらも彼女は僕の手を取ってくれた。
その手は、とても温かくて柔らかくて。
そして愛にあふれていると感じた。
「もう、二度と自分の命を危険にさらすなんてことはしないで。」
彼女はもう一方の手で僕の右腕の火傷の痕を優しくなでた。
「あぁ、わかってるよ。」
僕が全てを失いながらも望んだもの。
それは、ほんの少しの幸せな時間。
たった一つだけ残された場所で得られたもの。
それは、何物にも変えることが出来ないもの。
それを今、手に入れたような気がした。
少しだけ、現代から逃避できそうな話を描いてみました。
楽しい話・・・とは言えない内容ですけれども、どこかホッとできる話を目指したつもりです。