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三角関数なんて嫌いだ

 暑い夏の陽光の下。地面からも熱気が立ち昇る。その上、近くのコンビニのヒートポンプの熱交換器からの熱風ですら、ボク達をめがけて流れてくる。熱せられた大気の密度差で、景色は陽炎(かげろう)と化していた。

 正に三重苦のような過酷な暑さの中に、ボク達三人は立っていた。


「本当に、もう。分かっているのかい、キミは。ワタシ達は別に付き合っている訳では無いのだよ。しかも、キミは一回生で後輩。ワタシよりも格下なのだ。気安く下の名前で呼ばないで欲しい」

 少し幼気な印象の美少女は、憤慨したようにボクに注意した。この暑いのに、長袖の白衣を纏っている。

「誤解ですよ、誤解。ボクが言っていたのは、量子(りょうし)であって、センパイの名前の量子(りょうこ)ではありません」

 ボクは脂汗を滴らせながら、朝永(ともなが)量子(りょうこ)センパイに、そう弁解し続けていた。

「漢字にすれば同じ事だ。少しは自重し給え」

 ボクが密かな恋心を抱いている彼女は、そんなボクの心を全力で折りにきているようだった。

「それに、だいたい何なんだ。今朝のキミの言葉は。状況が状況だったら、愛の告白と間違われるだろう」

 今朝の言葉とは、ボクが一大決心をして、彼女に告白をした時の事だろう。その上で、この対応だ。いい加減、死にたくなるような状況だった。

 しかし、センパイの話はまだ続く。

「そもそも、『(はな)す』は『(はな)す』や『(はな)す』に通じる。一度口から出た言葉は、そのまま飛んで行って離れてしまう。もう取り返しがつかないだぞ。キミはもっと思慮深くなるべきだ。喋る前に一呼吸おいて、その言葉が妥当かどうかを一考することを身に着けなければならない」

 白衣の両腕を胸の前に組んで、朝永センパイはボクに教育的指導をしてくれていた。


(嗚呼……、そういうことね。センパイは、ボクの告白を全然認識してなかったんだ。……そうだよ。知ってたよ。センパイはそういう人だって。でも、これって失恋するのとどっちがキツイのかなぁ)


 強烈な熱波の中、ボクは精神的にも参ってきていた。


「そうだ、そうだ。オマエは、もう少しジチョウしろ」

 センパイの言葉に重ねて、生意気なキンキン声が重なった。不快を催すクソ忌々しい台詞(せりふ)の主は、自称魔法道士(まほうどうし)娘々(ニャンニャン)だった。センパイの左隣に立って、ボクの方を見てニヤニヤしている。その上、腰に手を当てて如何にも偉そうな振る舞いをしているところも、ボクの気に障った。

「ムカつくヤツだな、オマエは。今はボクとセンパイとで話をしているんだ。密入国者は黙っていろ」

 やり場のないボクの怒りは、そのまま娘々に向けられた。

 そもそもの話、コイツが来なければ、ボクは海に沈むことも無かったし、センパイに怒られることも無かったんだ。こんなヤツに情けをかけたのが、そもそもの間違いだったんだ。悪の元凶め。絶対に強制送還してやる。二度と日本に来たいなんて思わない目に遭わせてやる。絶対にだ。天に誓うぞ。

 ボクの決意は硬い。

 しかし、それをもセンパイは折りにきていた。

「さぁて、娘々。夕方まで何しよっか」

 と、彼女は傍らのチビ助に気さくに話しかけたのだ!

「ええー。ハンバーグは? まだ、喰えないのか。オレ、ハンバーグ、喰いたいよぉ」

 さっきアイスをボクに奢ってもらっておいて、まだ足りないのかよ。

「大丈夫だ。そんなに急がなくても、ハンバーグは逃げないよ。いっぱい食べるんだろう。だったら、お腹を空かせておかなけりゃ」

 センパイは、小さい子に言い聞かせるように娘々の目線まで屈むと、そう諭した。

「そうか! 姐さん、頭良いな。オレ、遊ぶ。遊んでハラ空かせる」

「…………」

 二人の会話の流れに、ボクは黙って見ていることしか出来なかった。


(娘々め。そもそもコイツの脳ミソはいったい何グラムなんだ? いとも簡単にセンパイの言葉に従ってしまったよ。いいよな、オマエは。どうせ、喰うことと遊ぶことしか頭の中に入っていないんだろうよ)


 ボクの(はらわた)は溶岩の如く煮えたぎっていた。しかし、それでは娘々を匿うと決めたらしいセンパイに逆らうことになるので、じっと我慢していたのだ。ところが、

「じゃあ、キミ。夕方まで適当に遊んでやっててくれ」

 と、センパイはにっこり笑うと、そう言った。そして、ボクの肩をポンと叩くと、そのまま何処(いずこ)かへと去ろうとしたのだ。

「ちょ、ちょっと待って下さいよ、センパイ。ボクがコイツの面倒をみるんですか⁉」

 あまりの事に、ボクはセンパイの白衣の背中を追って、そう声をかけた。

「ん? 何か支障でもあるのかな」

 さっきまでの興味は何処に失せたのか、彼女は淡々としていた。

「ありまくりです。第一、ボクがこんな密入国者に付き合う義理なんてありませんから」

 とにかく、これ以上はコイツと関わりたくない。ボクの頭の中はそれでいっぱいだったから。

「じゃぁ、このまま放置しておくのかい? その子、『密入国者』なんだろう。ちゃんと保護するのが、『正しい大人の行動』というものではないかな」

 センパイは首を捻って、白衣の肩越しにそう応えた。

「ま、まぁ……。放置する訳にはいかないでしょうが……。じゃぁ、何でボクなんです? その辺の誰かじゃ駄目なんですか!」

 これ以上コイツの面倒をみるのは無理だ。嫌だ。それを、センパイにだけは分かって欲しかった。

「そうか……。けれど、いいのか?」

 木陰の下で立ち止まった彼女は、改めてこちらを見やると、そんな謎めいた言葉を放った。

「いいって……。何がですか」

 ボクには彼女の意図が分かりかねていた。とにかく、これ以上の面倒事が嫌だったのだ。

「その子の持ってるMD機関マクスウェルズ・デモン・ジェネレータはどうするんだい? そんな危ないマシンを持っている小さい子を野放しにしておくのかい。それこそ、本当に何が起こるか分からんぞ」

 意地悪気な命題を出した美少女は、(さか)しげな笑みで以ってボクの返答を待っていた。

「うう……」

 ボクは言葉に詰まって、その場で呻いていた。

「なっ、困るだろう。だから頼むよ。夕食代はワタシがもつからさ」

 影の中でこちらを見ているセンパイの姿が揺らめいている。暑さでボクの思考も意識も、いい加減ぼやけてきていた。

 額で吹き出た汗の玉が目に染み込む。痛みを感じて、ボクは左手の袖で目を擦った。

「ええーっと……、夕方までですよね」

 あんなに嫌だったことなのに、いつの間にかボクは娘々の面倒をみる方向に思考を滑らせ始めていた。

「そうだよ。夕方までだ。……悪い話じゃないだろう」

 何だか上手く口車に乗せられているような気がした。でも、それではいけない気がする。

「だ、だったら、……センパイも一緒に面倒を引き受けて下さいよ。ボク一人だけでなんて、到底無理です……」

 夏の蒸し暑さに負けそうになりながら、ボクは抵抗を続けていた。それには効果があったのだろうか?

「むぅ、そうか。……仕方がないなぁ」

 一人木陰で涼みながら、センパイはそう言って何事かを思案しているようだった。

「まぁ、仕方ないか。……相変わらずキミは頼りがいが無いなぁ」

 クスクス笑いを拳で隠しながら、彼女はそう言って木陰から出てきた。そして、もう一度娘々の傍らにまで来ると、

「じゃぁ、君、お姉ちゃんと何して遊ぶ?」

 と、声をかけたのだ。

 ふぅ、最初からそうしてくれてれば良かったのに。

「はぁぁぁぁぁぁ、良かったぁ」

 ボクは長い溜息を吐くと、センパイに続いてチビ助の傍に行った。

「おう、オマエも遊んでくれるのか。オマエも姐さんも、イイヤツだな」


(オマエが全ての原因なんだよ! わざわざセンパイが遊んでくれるんだぞ。それなのに、偉そうにしやがって)


 ヘラヘラとニヤけている魔法道士を見下ろしながら、ボクはこれからコイツをどう料理してやろうかと、復讐心をつのらせていた。

 そんなボクの思いも知らなさそうな朝永センパイは、少しばかり何かを考えているようだった。

「んんー、そうだな。簡単なところで、三角関数についての思考実験なんかはどうかな? うん、我ながらこれは面白そうだ。良いよな、三角関数で」

 センパイは、ぱぁと明るい笑顔を見せると、そんな事を言った。

「…………」

 対して、ボクと娘々の反応がコレだ。遊ぶのに三角関数って……、ないわぁ。

 ボクは、片手で頭をボリボリと掻きむしった。

「あ、……センパイ。ボクだけなら構いませんが、コイツに三角関数は無理ですよ」

 ボクの言葉に対してセンパイは、

「え? ど、どういうことだ。三角関数、面白いよな。……なぁ。な、そうだろ。なぁ、君も面白そうだと思うよなぁ」

 と、明らかに動揺を隠せないようだった。

「えっとぉ、……そのサンカクスイって、ウマイのか?」

 少し控えめだったが、想像通りの答が娘々から返って来た。

「サンカクスイじゃない。サ、ン、カ、ク、カ、ン、ス、ウ、だっ。知らないのか。サイン、コサイン、タンジェント、ってやつだよ」

 ボクの念押しにも、ニセ小学生は首を捻っていた。

「さ、さ、さいん? こささん? それに、たん、……たんじり?」

「何だとぉ。君、三角関数を知らないのかっ」

 センパイは驚いて屈むと、両手で娘々の両肩を掴んで、前後に揺すっていた。

「あ、あはは。姐さん、脳ミソが揺れるぜぇ」

 揺れるほどは詰まってないだろう、オマエの脳ミソは。それとも、詰まって無くてガランドウだから、揺れるのかも。

「……本当にか⁉ 本当に三角関数を知らないなんて……」

 センパイは、『信じられない』という顔をしていた。

「まっ、当然でしょう。実際、三角関数なんて憶えて無くても生きていけますし。それ以前に、コイツにそんな学があるわけ無いでしょう」

 ボクは、『ザマァ』と心中で囁きながら、娘々の無能を切って棄てた。そのつもりだった。

 しかし、センパイはゆっくりとボクの方を向くと、

「キミぃ、今、何と言ったかなぁ」

 と、恨めしそうな声で尋ねてきた。

 少し嫌な予感はしたものの、ボクは思った通りを応えようとした。

「何って、『娘々には三角関数なんて解らない』って言いたかっただけですよ。それが何か?」

 少しいつもと違うセンパイの様子に一抹の不安を感じながら、ボクはそう返答した。

「いや、そこじゃない。……キミ、『三角関数が無くても生きていける』って言ったよな」

 ああ、センパイの気を引いたのは、そこだったのか。

「まぁ、実際のところ、四則演算が出来れば、何とか生活できますから。三角関数を使うような買い物って、思いつかないし。たぶん、無いんだろうけど……。そうですよね」

 この時のボクは、思慮が浅かったのだ。だから、センパイに、こんな事を言われるハメになったのだ。

「き、キミってやつは、……本当にキミは……」

 文字通りセンパイは頭を抱えていた。


(あ、何かヤバそうな雰囲気だな。もしかして、……地雷、踏んだか?)


 危険な予感がして、ボクは思わず後退りしていた。

「待て」

 有無を言わさぬ恫喝のような声だった。

「キミ、三角関数が、如何に偉大なモノか分かっていないようだな。いい機会だから、よぉーっく教えてやる」

 センパイは眉を龍尾のように逆立てると、外見に似合わないドスの利いた声で語りだした。


(マズイ。センパイを怒らせたかな)


 ボクはそう思うと、怖ず々々と手を挙げた。

「あのうー、……それって長くなりますか……」

 最後の方は消え入りそうな声だった。我ながら情けない。

「長くなるかどうかは、キミしだいだ。いいから、そこに座れ。とくと言い聞かせてやる」

「うう……」

 ボクはセンパイに言われるままに、炎天下の雑草の上に踞った。

「違うだろう、キミ。わざわざ、ワタシが教えてやろうというのだぞ。きちんと座り給え」

 センパイに叱咤されて、ボクは座り直した。

 こんなところで正座なんて、お説教をされているみたいじゃないか。……いや、あながち間違ってはいないのだが。

「そうそう。それで良いんだ。……では、ワタシが三角関数について、しっかりと教えてやる」

 と言うことで始まったのが、次のような内容だ。


 まず、森羅万象の基本は円であり、球であり、振動である! とのこと。

 円周は閉じた完全な図形であり、中心点と半径という、ごくシンプルな定義で示される。そして、宇宙(そら)を見上げれば、丸い星々が煌めいている。その軌道は真円でこそ無いが、楕円の組合せで記述が可能だ。更に、円周を巡る点をX軸に射影すれば、その動きは正に振動である。

 この宇宙は、円と球と振動に支配されているではないか。


 しかしながら、人間はそれを完全には理解できない。


 何故か?


 人間が直接的に測定し理解できる幾何学図形は、多角形、もしくは多面体だからだ。

 円や球体の細部の測定は、人間には出来ないのだ。


 どうして?


 π──すなわち円周率が無理数だからだ。


 つまり、人間がどんなに頑張って円周の長さを測ろうとしても、正確には測れない。

 先人の数学者は、越えられないπの壁に、『そんなはずはない』とのたうち回ったと云う。完全なる宇宙を示す円周率が、割り切れる数値ではない事が我慢ならなかったようだ。

 結局、円周率をπ(パイ)として表記することで我慢することにした。


 そして、宇宙の真理を記述するための第一歩が三角関数である! というのが、センパイの持論らしい。


「あらゆる物理現象の記述に三角関数が使われている事は、キミも知っているよね」


 まぁ、そういった諸々の事を、きっちりと小一時間ほどボクに説明し終わると、センパイはそう訊いてきた。

「…………」

 ボクは、事を荒げたくなかったので、黙ってコクコクと頷いてみせた。

「ん? 本当に分かってるのかい。……何だか頼りないなぁ」

 彼女はそう言うと、両腕を胸の前で組んだ。


(そんな事を言われたって……、暑いわ、蒸れるわ。……もう、意識が飛びそうだよ)


「だから、三角関数は大事なんだよ。多角形の解析よりも、むしろ振動現象や回転体の解析に欠かせない。……なっ、大事だろう」

「…………」

 意識が朦朧としてきたボクは、またしても、首をコクコクと縦に振った。表情の方は……、微妙だったかも知れない。

 ボクのいい加減な答に満足したのかどうか。彼女は改めて首を横にひねると、今度は傍らの娘々に問いかけた。

「君には解っただろう。三角関数は大事」

 上からの目線には違いないが、ボクによりも遥かに優しい問いかけ……。

「おう、大事、大事」

 本当は何一つ理解していないだろうに、大陸の奥地から渡来したニセ小学生は、元気よくそう応えた。

「うんうん。素直でよろしい。ほら、こんな小さい子でも分かってるんだぞ。キミももう少し精進したまえ」

 そんな二人を前に、汗でベトベトのボクは熱中症の一歩手前だった。


(嫌だ。もう嫌だ。……三角関数だって? 魔法はどうしたんだよ。ファンタジックな説明は? 何一つ無いのかよ、魔法っぽいの。何でもいいよ。風の精霊とか、大地の龍脈の力とか……。五次元の世界へのダイブとか、異世界との共振とかでも良いよ。……あっ、共振って、やっぱり三角関数で方程式を組むのかな? それって固有振動の計算だけど……。いや、この場合は指数関数を使うべきなのかな? 共鳴周波数とかが算出できれば解決しそうなんだけれど……。そうか、テイラー展開すれば、なんとか力技で数値計算できそうだな……)


 ボクは、ハタとして顔を上げた。

「朝永センパイ!」

 ボクが突然にそう叫んだので、彼女は少し驚いたようだ。

「な、何だね」

 ビクッとしながらも、白衣の少女が訊き返した。

「三角関数って、……偉大ですね」

 大地に正座する姿勢から、真剣な目で見上げるボクの口から出たのは、そんな言葉だった。

「そうかっ! キミにも解るか」

「ハイ! センパイ」

「よしっ。じゃあ、計算するか」

「しましょう、計算」


 ボク達先輩後輩が三角関数に目覚めたところを、事の元凶たる魔法道士はエヘラヘラとニヤけた顔で眺めていた。




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