朝永センパイ
朝永量子──我が大学の誇る才女である。そんな彼女に、どういう訳か、ボクは気に入られたらしい。と、思っていたのだが……。
本来なら学部の基礎課程を履修してる一年坊主のボクを、『統計物理学講座』に引っ張り込んだのが彼女である。そして、ボクの想い人であり、ついさっきボクの告白をあっさり振った女である。
ある意味、ボクが死にかけた遠因なのだが……。
「ワタシは、五年ばかり渡米していて、高校はもちろん、大学の単位も飛び級して向こうの学校で概ね取って仕舞ったんだ。帰国して普通に学業に復帰したら、今頃は未だ高校生をやらされていたろうね」
飄々とそう言うセンパイは、小柄で、大人っぽい服装が似合わないロリ系の外見をしている。いつも羽織っている白衣が無かったら、大学のキャンパスでは女子高生に間違われても仕方がない。と言うか、年齢的には高校生なのだ。
そんな朝永センパイが目を付けたのが、交換留学の制度だった。
米国の国籍も取得してしまったセンパイは、帰国子女として歳相応の高校には入りたくなかったらしい。それはまぁ、そうだろう。日本の高校生程度の授業を受けるのは、ギフテッドである朝永センパイにとっては、退屈以外の何物でも無い。そこで、交流のあったこちらの大学に、交換留学という形で潜り込む事に彼女は成功したのだ。
だから本当は、一浪して入学したボクよりも年下のはずなのだが、学年的には、先輩と後輩の関係が逆転して仕舞っている。
朝永センパイと出会ったのは、大学の入学式が終わった後、ボクがぷらぷらと学内をほっつき歩いていた時だった。
「おい、そこの君。ちょっといいかな?」
ちっこいくせに、やけに大人びた物言いをする娘だなぁ、とボクはその時思った。
「これ、持って行くのを手伝ってくれないか」
(何だ? どうして大学に高校生が居るんだ。学校を抜け出して来たのか? いやいや、それより何だよ、その偉そうな言い方は)
事情を知らないボクは、この時、畏れ多くも朝永センパイにそんな事を思って仕舞った。
「ど、どーしたのかなぁ。何か、たくさん本があるけど。近くの学校まで持って行くには、車か自転車がいるよぅ」
この時、ボクは完全に彼女を見くびっていた。だって、外見からはどう見ても、その辺の女子高生にしか見えないもの……。
「ああ、それは気にするな。すぐ近くだから。残念ながら、ワタシは非力でな。旧図書館で『掘出し物』を見つけたんだが、ここまで持ってくるのがやっとでね。君なら、軽々と持ち上げられるだろう。お礼はするから、手伝ってくれないかな」
彼女は、羽織っている白衣のポケットに両手を突っ込んだまま、下から斜め上を見上げるように、ボクの眼を見つめていた。
(言い方は尊大だけど、よく見ると結構カワイイ娘だな。ちょっとエロい肢体つきだし。それに、なんか期待を持たせるような顔つきしてるし……)
一浪した結果、二年半以上に渡って勉強漬けだったボクに、カワイイ女子高生の媚に敵う訳が無かった。この後のラブラブな展開を想像するな、という方が無理である。
「そ、そうなんだ。うーん、どうしようかな。ボクは、これから講義に使う教科書を買いに行かないとならないんだけれど」
ボクは、『この娘』と仲良くなりたくて、すぐには答えずにわざと思わせ振りな態度をとった。
「教科書? そうか、君、新入生なんだな。心配ない。教科書なら当てがあるぞ。だから、今はワタシを手伝って欲しい。頼むよ」
再び媚を売るような、斜めに見上げるような目線。
(ま、まぁ。これを断る男は居ないよね)
よって、白衣の美少女の懇願に、ボクは応じる事にした。
「分かったよ。えっと、この本を持って行けばいいんだね」
荷物を背負い直したボクは、そう言って屈むと、彼女の足元の本の山を持ち上げた。
「うぉ。結構重いな」
つい先月まで受験生だった身体には、ちょいキツイかった。
「スマンな。君、大丈夫か?」
白衣の少女は、少し不安げな声を発した。
「その本は、凄く貴重なモノなんだ。君、落としたり汚したりするなよな」
(そうか……。ボクの事を心配してるのじゃ無いのか)
手伝ってやるとしても、彼女はやっぱり尊大だった。
「じゃ、着いて来てくれ。すぐそこだから」
と、言われて連れて来られたのが、理学部研究棟の奥深くに潜むこの研究室だった。そこで、ボクは朝永センパイの事を知ったのだ。
その辺の細かいところは、今は省こう。
兎に角、そこで彼女は自分の事をこう言った。
「ワタシは、トモナガリョウコ。ノーベル賞物理学者の朝永振一郎先生の朝永に、量子力学の量子と書いて、量子と読む。なかなか、洒落てるだろ。まぁ、朝永先生の血縁かどうかは怪しいんだがね」
その時からボクの呼び名は、『君』から『キミ』に昇格したらしい。
そんな朝永センパイに、この密入国のクソ野郎は、
「オレ、娘々。魔法道士だ。ヨロシクな」
と答えやがった。
「ばっ、バカ。何て自己紹介だよ、娘々。それに、オマエは行かなきゃならないところがあるだろう。アイスだって、その約束で買ってやったんだぞ」
ボクは慌てたが、朝永センパイは、娘々の前にやって来て膝を曲げた。彼女と同じ目線にまで屈むと、こう声をかけた。
「ほうほう。『マホウドウシ』とな。今どき珍しいな。占いとか風水とか、出来るのか?」
バカにしている訳でも、子供扱いしている訳でもない。
センパイは、少しでも知的興味を惹かれる話には、こんな風にすぐに喰い付くのだ。
「センパイ。小さな子供の戯言ですよ。本気にしないでやって下さい」
ボクは焦った。ただでさえヤヤコシイ事に巻き込まれそうなのに、今更藪を突くような事は避けたかったからだ。
「まぁキミ、そう言うな。大陸のアレはアレで、膨大な量の経験と観察の結果が素になっているんだ。結構、侮れんよ」
彼女はそう言って、『うふふ』と怪しい笑みを浮かべていた。
「でも、魔法ですよ。ファンタジーの世界の話です。そんなの非科学的だし……」
ボクは何とか彼女の興味を、娘々から引き剥がしたかった。
「非科学的? そうか……。じゃぁ、キミは科学の何たるかを知っていると言うのかい」
ううっ。来た! 朝永センパイの攻撃。
ボクがこの問にしっかりと答えないと、この場を切り抜ける事が難しくなる。
「えーと、『論理と実験により検証された、現状で最も確かと考え得る説』、……ですかね」
かがんだ姿勢から首だけ捻ってボクを見上げるセンパイの眉根に、少し皺が寄った。
(えっとぉ、……間違ったかな。いや、だいたい合ってるよな)
センパイの口が開くまでの十数秒間が、ボクには永遠に感じた。
「ふぅ、八十五点。まぁ、良いだろう」
え? 今ので八十五点なの? センパイは、ちょっと不満げだし。ボク、何処で間違ったんだろう。
「つまり、キミの言うところの『実験による検証』という意味では、大陸の漢方や鍼灸術は、立派な科学と言える。現代の新薬の臨床試験など足元にも及ばない程の、膨大な人体実験の結果を背景にして成り立っているのだからな」
センパイは目を細めると、少し不満げにボクにそう言った。
「まっ、いいか。ところで、君、娘々というのか? 訛りの感じから、大陸でも奥地の方の出身だと思うが……。本当に魔法が使えるのかい?」
朝永センパイの興味は、もうボクには無いようである。屈んでいる彼女は、娘々の目線でそう問い掛けた。
「おう。オレ、魔法道士。魔法、使えるぞ」
これまでボクに魔法の事を散々否定されてきたからか、まともな興味を持たれて、似非魔法少女は目を輝かせた。
「ふむ。道士というからには、道教系かと思ったが……、魔法とな。仙術や方術とは違うのかい?」
センパイは、少し首を傾げると、質問を続けた。
「おう、老師の編み出した、最新の魔法だぞ。スゴイだろ」
ま、まぁ、確かに凄いんだが……。問題は……。
「ほうほう、最新とな。で、君はどんな魔法が使えるんだい?」
ああ、とうとうセンパイは、核心部に触れてしまった。
「あ、あのう、そんな事より。そうだ、センパイ。ボルツマンの方程式について、議論しませんか。その方が、きっと有意義ですよ」
ボクは何とかセンパイを娘々から引き離したかった。
しかし、
「キミは少し黙ってなさい。魔法と言えど、同じ現象を繰り返し発生させる事が出来るという意味では、科学に似通っている。問題は、『それ』を起こさせる要因を『誰にでも納得できるように説明出来るか否か』だよ。その点では、科学も魔法も大差は無いのさ。……さて、お嬢ちゃん、君の一番得意な魔法は何だい?」
朝永センパイの質問に、娘々は誇らしげに、こう応えやがった。
「おう、美人のお姐さん。オレの魔法、知りたいんだな。オレ、風を起こす事が出来る。それから、熱い空気や冷たい空気を作る事も出来るぞ。どうだ、スゴイだろ。フヒヒ」
とうとう言って仕舞ったか、この密入国者め。さて、センパイは、と言うと……。
「ほうほう。確かにそれは凄いな。……うーむ。試しに、ひとつ披露してくれないかな」
と、興味津々である。
「センパイ。風を起こすのなら、扇風機でも出来ますよ。それに、熱い空気も冷たい空気も、ヒーターやクーラーで作れます。この現代に魔法なんて要らないでしょう」
ボクは、海辺の納屋で、このクソ生意気なオバサンに言ってやった事を繰り返した。
「もうっ。だから、キミは黙ってろと言ったぞ。この子の言ってる『魔法』とやらで電気製品と同じ事が出来るとして、コストや効率が上回るのであれば、それは立派に研究する価値がある。……ゴメンな、お嬢ちゃん。さて、君の得意技を、ひとつ披露してもらえんかな」
朝永センパイは、ボクの意見を鮸膠も無く退けると、娘々に向かってニッコリと微笑んだ。
「そうか、お姐さん、魔法、見たいか。いいぞ、見せてやる」
ボクとは反対に、センパイが魔法に興味を持ってくれた事が嬉しいのか、娘々は例の悪魔的な黒いポシェットを両手で胸の前に抱えた。
「そうか。では、さっそ……、いや、いかんいかん。ここではマズイな。お嬢ちゃん、外でやろうか」
センパイはそう言うと、ボクを放っといて、娘々の手を取った。そのまま手をつないでコンビニの外に出ると、適当な空き地を見付けて彼女を引っ張って行った。
「うわっ、あっちぃ。……センパイ、本当にやらせるんですか」
二人に着いてコンビニを出たボクは、白衣の彼女に念を押すように訊いた。
「無論だ。……さて、ここなら良いだろう。キミも良く観察しているんだぞ。……えっと、君は……、娘々と言ったか。ここで、ワタシに魔法を見せてもらえないかな」
センパイは、空き地の真ん中にワンピースの小生意気なクソガキを連れてくると、もう一度ソイツに、魔法を見せるように言った。
「よし。分かったぞ。今、見せてやるからな」
インチキ魔法道士はそう言って、件の黒いポシェットを両手で持って胸の前に掲げた。
「……んー、むっ」
そして、何かを念じるように、微かな掛け声のような唸り声が上がった。
そして、次に起こった現象を、ボクは今でも鮮明に思い出す事が出来る。
吐き気を催すような薄ら笑いを浮かべる、小学生くらいの少女。
その前に、少し屈み込んでいるセンパイ。
夏の晴天の太陽の下、白衣が眩しく光を反射している。
その下には、年頃の女子高生らしい淡いブルーのシャツと、モスグリーンの膝丈のフレアスカートの裾が覗いていた。
少女と目線を合わせる為に、少し曲げた足の膝小僧から踝までの生足のきめ細かい肌の白さに、ボクは見惚れて仕舞っていた。
次の瞬間、猛烈な旋風が、ポシェットの少女を中心に巻き起こった。
そしたらどうなる……。
ボクは胸の奥底で、これから起こるであろうシーンを予期して、心待ちにしていたのかも知れない。
<ぶぅわぁ>
と言う擬音語が相応しい風に巻き込まれて、朝永センパイの艷やかな黒髪が棚引いた。それと同時に、着ている白衣と、その下のスカートが翻る。
そして次の瞬間には風が止み、翻った布は、何事も無かったかのようにフワリと元の形状に復元した。
──その間、約ゼロ・コンマ・ナナ秒
更にそれから一秒を経て、やっとセンパイの顔にある表情が生まれた。
夏の紫外線をも受け付けない白い肌に、徐々に汗の玉が滲んで来る。それと共に、彼女の頬に薄っすらと紅が点し始めた。
「……おい、そこのキミ」
振り向きもせずに掛けられたその声だけで、ボクはその場に金縛りにされたような気がした。
「……はい。な、何でしょう」
あからさまな悲鳴を上げない分、彼女の羞恥が伝わって来る。
「今の……、見たか」
低い威圧感のある、センパイの声だった。
(ど、どっちだ? MD機関の起こした風の事か? それとも、別のアレか? どっちが正解だ……)
ボクが返答に困っている数秒の間に、朝永センパイの顔は耳まで赤くなっていた。
「見たのか? と訊いている」
再びセンパイの声。
「は、……はい」
ボクは渋々、呟くように応えた。
「そうか……。それで……、キミはどう解釈する?」
飽くまでも冷静 (を装っているよう)なセンパイの問に、ボクは迂闊にも、こう応えて仕舞った。
「え、えっと。……よくお似合いでした。朝永センパイらしい、シンプルでフィナボッチ数列を連想させるデザインが好印象を与えています。更に、淡いブルーの布とセンパイの肌とのコントラストが最適なスペクトル分布を構成していました。素敵だと思います」
「…………」
「……あっ」
無言の威圧感に、ボクは初めて間違いに気付いた。
「そうか……。キミらしい意見だ。だが、『それ』は忘れてくれ」
こんな状況でも慌てない──いや、一周回って慌てられないのだろう──朝永センパイの顔にびっしりと浮かんだ汗が、頬を伝って滴っていた。暑い太陽の下、地面に落ちたシミが、マンデルブロ集合のような模様を描いている。
「あ、あの……、えっとぉ……」
ボクが次の言葉に詰まっていると、
「忘れろ、と言ったぞ」
と、更に一オクターブ程音程の下がった声が、ボクの内耳で反響した。
「……はい」
その時のボクには、そう応えるのがやっとだったのだ。
朝永センパイのあんなモノを見て仕舞ったのだ。忘れられる訳が無い。
(センパイには悪いけど、今のシーンはボクの胸の奥底に未来永劫焼き付けておこう)
ボクが海馬をフル稼働させて、さっきの情景を脳の長期記憶に固定しようと躍起になっている時、ヤツの下卑た声が聞こえた。
「どうだ、お姐さん。魔法、スゴイだろ」
その無遠慮な言葉に、センパイは顔を赤くしたまま苦笑いを浮かべた。
「ああ、凄いな」
怒っているのか、困っているのか、良く分からないセンパイの表情など意に返さないヤツは、
「だろ。オレ、立派に魔法、使った。この、『マクスウェルズ・デモン・ジェネレータ』を使ってな」
と、例の悪魔的な意匠のポシェットを持ち上げて見せた。
その、大陸特有のニヤけた顔に返されたのは、
「ええっ‼」
と言う、朝永センパイの驚きの声だった。