ジブリ飯
翌日の朝、ボクは再び量子センパイの部屋の前に立っていた。
真夏の太陽は、出てきたばかりのくせに大量の電磁波を放射していて、それをボクに容赦なく降り注いでいた。
(さて、いつまでもこんなところに立っていると、不審者に思われかねない)
ボクは、意を決して右腕を持ち上げると、人差し指を伸ばした。そのまま、恐る恐る呼び鈴のボタンへと近づけていく。
──ドキドキドキ
心臓が早鐘のように鳴る。呼び鈴を押す──たったそれだけの動作なのに、何秒経っても指先はボタンに届かない。ジリジリとした朝陽のなか、ジミジミと浮き出した汗がこめかみから頬を伝い、珠となって滴り落ちる。
(お、押すぞ。押すんだ。今すぐ押す)
再び指先に意識を集中する。それからは、一瞬だった。
──ピンポン
センパイの部屋の呼び鈴が鳴る音が、ドアの向こうから聞こえてきた。
(お、押してしまった……。大丈夫なのかな)
今更後悔しても仕方のないことだったが、チキンなボクはこの後の展開が読めず、頭の中は真っ白だった。ココに来るまでは、あれだけ入念に思考実験を繰り返し、全てが最適化された行動を決定したというのに。
「はぁい」
ドアの向こうから返事が聞こえた。これこそ、まさしくセンパイ。朝からこの声を聞けるとは、ボクはなんて果報者なんだ。
「何だ、キミか」
少しばかり眠たげな様子だったが、彼女はボクを認めてドアを開いてくれた。
「お早うございます、センパイ」
今朝のセンパイの顔が見られて、ボクは元気よく朝の挨拶をした。
「ああ、分かった、分かったよ。朝っぱらから乙女の部屋に押しかけるとは、キミも大概だな」
Tシャツに短パンという、希にしか見ないような彼女の姿に、ボクは少なからず興奮していた。
「センパイ、早速ですが、ボクは娘々を当局に引き渡しに行きます。ですから、センパイは、ゆっくりとお休みしていて下さい」
何回も練習した。何度もイメトレした。その台詞を、なるだけ冷静を装って、ボクは口に出した。
「はいはい、そうだったね。とは言うものの、ワタシも、あの子の行く末を見届ける義務があると思うんだ。これから準備をするから、キミは、その辺の公園にでも行って、待っていて欲しい」
ああ、何と無体なお言葉。センパイは、ボクよりも娘々の方が大事だとでも言うのか……。
「もう、そんな顔をしない。……はぁ、仕方がないな。ちょっと待っていてくれ給え」
ボクの様子は、そんなに変だったのだろうか? 彼女は、一旦引っ込んでドアを閉めてしまった。
少し経って、再びドアが開く。
「お待たせ」
ドアから顔を覗かせた彼女の出立ちは、さっきとほとんど変わらない。ただ、何かしらの良い香りが、ボクの鼻腔をくすぐった。
「キミには、頼みたいことがある」
「何でしょうかっ」
すぐさま答えたボクの鼻先に、一枚のメモ用紙がひらめいていた。
「これからコンビニへ行って、これらの物資を調達しておいて欲しい。資金は、これで。レシートは、必ず受け取ること」
「はい! 分かりました」
反射的に答えて、ボクはメモとお札を手にしていた。視線がセンパイから離れた瞬間に、鼻先でドアが<バタン>と閉じられた。
うぐぐ。まぁ、いいか。大事なセンパイからの頼まれ事だ。しっかりと、お使いをしなくては。
そうして、約三十分後、ボクはコンビニで調達をしたあと、指定された場所──近くの公園に向かった。
(どこら辺にいるのかな?)
両手にレジ袋をぶら下げ、公園内を彷徨いていたら、前方の木陰からボクを呼ぶ声が聞こえてきた。
「おーい、キミ。こっちだ」
声の方向を見ると、薄いブルーのワンピースにクリーム色のカーディガンを羽織った美少女の姿が確認できた。傍らに、何かしら人に似た小さな存在が見えた気がするが、それは思考から追い出す。
「センパーイ。今すぐ、そっちに行きまぁーす」
大声で答えたボクは、足早に彼女のところへ向かった。
「お待たせしました。頼まれたモノ、買ってきました」
ボクは、そう言うと、レジ袋を持ち上げて見せた。そして、メモとレシートとお釣りの入った封筒を、彼女に手渡す。
「ご苦労さま。助かるよ」
「遅いぞ、オマエ。徒弟は、もっとキビキビ動くね」
ねぎらいの言葉をかき消すように、偽小学生のキンキン声がボクの耳を襲った。チキショウめ。出来れば、オマエの顔なんか二度と見たくなかったよ。
ボクは、センパイの隣にちゃっかりと腰を降ろしている、一見小さな女の子にしか見えない姿を睨みつけた。そんな空気の悪さを感じたのか、
「まぁまぁ二人共。落ち着きなさい。せっかくの気持ちいい朝が、台無しになるじゃないか」
「そうだ、オマエの所為で、朝が台無した」
「こぉーのクソチビめ、誰のための買い出しだと思っているんだ。少しは、ありがたがれ」
一向に納まらないボク達をみて、センパイは深い溜息を吐いた。
「それくらいにしておきなさい。それはそうと、キミ。指示通りにしてきたかな?」
お叱りの言葉のあと、話は現実の問題へと切り替わる。
「はい。メモの通りです」
そう言ってから、ボクは袋の中から買ってきたものを取り出し始めた。
「助かる。ほら、娘々、コンビニご飯で申し訳ないが、朝食だ」
そう言って差し出したのは、三角おにぎり塩鮭味であった。
「おう、さんきゅー、姐さん。気が利くぞ」
クソ生意気なチビ助は、早口で答えると、差し出されたおにぎりをかすめ取った。すぐさま封を切り、パッケージの番号に従ってプラフィルムを抜き取ると、パリパリの海苔に包まれた三角おにぎりの完成だ。そして、すぐさまそれに齧り付く。
「むふぉお、ふまいぞぉ」
「おいおい、そんなに急がなくても、ちゃんと人数分を頼んだから。よく噛んで食べるんだぞ」
「おぅふ、わはってるそ……」
口ではそう言うものの、娘々はあっという間におにぎりを食べ尽くしていた。
「もっとないのか。喰い足りない」
と、堂々とお代わりまでを要求する始末。
ボクが、そんな娘々を殺気立って睨みつけていると、センパイは一旦ボクの顔をチラと見上げた。そして、唇の形だけで、メッセージを伝えてきた。
──す・ま・な・い・な・あ・り・が・と・う・♡
それだけで、ボクは天にも昇れるような心持ちになった。尤も、最後のハートマークは、ボクの妄想だが。
「次は、どれにしようか。……おっと、これこれ。ほら、おかかのおにぎりだよ」
彼女の差し出した手を認めると、またしても似非魔女っ子は、ひったくるように三角の塊を奪い取った。そして、あっという間にパッケージを剥がすと、二個目のおにぎりに齧り付いていた。
「こら、娘々。失礼だぞ。四十過ぎのいいオバハンの癖に、マナーを知らんのか」
ボクはそう怒鳴ったが、ヤツにとってはどこ吹く風。知らん顔をして、おにぎりを喰い尽くそうとしている。
「もうっ、本当に」
あからさまに不機嫌なボクに、センパイは、こう語りかけてくれた。
「まぁまぁ、小さい子のやることだ。大目に見てやれ。それより、キミもどうだ。ほら」
差し出された手には、三角形のパッケージ。ただし、こちらはサンドイッチである。
「遠慮するな。キミは、これ、好きだったよな」
「あ、はい」
短く答えたボクは、自分の耳が熱くなるのを感じた。差し出された三角サンドを受け取ると、その場に立ったままだったが、封を切った。野菜にマヨネーズの酸味の混じった香りが、辺りに漂う。
(センパイ、ボクの好みを覚えてくれていたんだぁ)
そう思うと、なんだかジーンとしてきた。
「どうだ?」
彼女に訊かれて、
「はい、美味しいです」
反射的に答えるボク。
「そうか、良かった。では、一緒に座って食べようではないか」
そう言ってボクを見上げる美少女は、にっこりと微笑んでいた。
「は、はい……」
消え入りそうに呟いて、ボクは彼女の左隣に腰をかけた。右側には、娘々が座っていたからだ。
「よしよし、いい子だ。……さて、ワタシもっと」
そう言うセンパイは、もう一方のレジ袋の中を探索すると、鶏の唐揚げが入った紙カップを取り上げていた。
「ふむ、指示通りに、温かいものを買ってきたのだな。よろしい、よろしい」
もう一度笑みを浮かべた彼女は、貼り付けられていた楊枝をつまむと、それで唐揚げの肉のうちの一つを突き刺した。注意深く持ち上げて口まで運ぶと、カプリとそれに噛み付く。
「うん、美味しいな。ちょうどよい温かさだ。スパイスと塩も、いいバランスだ」
そんな分析口調になるのは、センパイが根っからの研究者だからかも知れない。
「あっ、それ、美味そうだな。オレにもくれ、くれ」
(むぅ、センパイの食べ物を横取りしようとするとは。こいつは、クレクレタコラかよ)
ボクの心中を知ってか知らずか。センパイは、二つ目の唐揚げに楊枝を突き刺すと、それを娘々の方に差し出した。
「ほうら、熱いから気をつけるんだぞ」
そんな優しい言葉が終わらないうちに、唐揚げは既に消失していた。MDGなんかより、こっちの方がよっぽと魔法のようだ。
「こら、娘々。そんな食べ方があるかよ。センパイに失礼だぞ」
ボクの言っていることが、果たして分かっているのか。
「ほうふぁ。ふまいぞぉ、ふぉれ」
と、口をモグモグさせながら、横柄に答えた。いい加減に切れそうになるボクを、
「まぁまぁ、キミも。小さい子のやることじゃないか。大目に見てやれ」
と、センパイはかえってなだめ役になる始末。
(この野郎め。今日こそは、国外追放だ)
決意を新たにして、ボクは自分の分の三角サンドを噛み締めた。
「それよりもセンパイ。昨夜は、一体何してたんですか? 遅くまで起きて」
朝飯ついでに、ボクは、気になっていた昨日のことを尋ねてみた。
「昨夜? ああ、結構遅くまで起きていて……。いや、どうしてキミはそんな事を知っているんだ」
「ええーっと、それはそのう……」
ボクは、センパイと扉の前で別れてから、彼女の部屋の灯りが消えるまで、三時間以上も外から見守っていたのだ。そのことがバレてしまった。
「しょうがないなぁ、キミは。それは、ストーカー的行為だぞ」
彼女は、ボクから少し離れて座り直した。そして、『見下げ果てた』という目つきを送ってきた。
「す、スイマセン。どうしても、センパイのことが心配で。それよりも、昨夜はこの偽魔法使いに変なことをされませんでしたか。大丈夫でしたか」
ボクの印象が多少悪くなったって構わない。それよりも、センパイの方が大事だ。
「ふぅ。分かった分かった。心配してくれたのには、感謝する。だが、年頃の女性の部屋を、夜中まで監視するのはいただけないな」
センパイは、ボクから視線を逸らすと、改めてチキンを口に運んでいた。少しだけ彼女の頬が赤みを増したように見えるのは、ボクの気の所為なのかも知れない。
「まぁ、いいだろう。今度やったら、本気で怒るからな」
「ゴメンナサイ……」
ボクは、消え入りそうな声で、謝った。
「それはそうと、本当に何してたんですか? 部屋でMDGの検証実験なんてしてないでしょうね。アレは危険なんです」
ボクは、心の底から心配していた。ボクは、娘々の所為で散々酷い目にあってきた。だけれど、量子センパイに迷惑がかかるのは、もっと許せない。『本当に何にも無かったか』を確認しておかねば。
ボクは、そんな熱意のこもった目で、センパイの横顔を注視していた。
そんなボクの気持ちを汲み取ってくれたのだろうか? センパイは、「ふぅ」と溜息を吐くと、改めてボクの方に顔を向けてくれた。
「何にもなかった。本当だよ。ただ、この子と二人でビデオを観ていただけだよ」
その言葉で、ボクは安堵した。一気に肩から力が抜ける。
「そっかぁ~、ビデオを観ていたんですね。面白かったですか?」
ボクは、センパイに質問したつもりだったが、答えは、更にその向こうから聞こえてきた。
「ああ、面白かった。昔の魔法使いというのは、デッキブラシで空を飛ぶんだな。オレも、宅急便、やってみたい」
(あっそ。魔女宅を観ていたと……)
「そういうことだったんですね。はぁ……、心配したんですよ、本当に」
「そういうことだ。いいだろう、それくらい」
その言葉のあと、センパイは、またボクから視線を逸した。
「まぁ、いいですけど。……さて、腹も膨らんだところで、コイツを引き渡しに行きましょう」
不明瞭だった点が解決されて、ボクは本来の目的に戻った。
「なに! オマエ、この可愛そうな子供を、悪辣な官憲に売り飛ばそうというのか。ヒドイぞ」
似非魔道士が、未だ抵抗しようというのか。小銭なんか要らないよ。むしろ、金を払ってでも引き取って欲しいくらいだ。
「娘々、オマエは密入国者で、怪しい術を使う怪しい者だ。それを知らせるのは、国民の義務だ。観念しろ」
この言葉を何回使ったことだろう。MDGの正体なんて、ボクには、もうどうでも良かった。早いとこ、コイツと関わった面倒事から開放されたい気持ちでいっぱいだった。
「娘々。どんな理由があっても、不法入国は犯罪なんだ。それに、どう贔屓目に見ても、その魔法道具は危険物だ。ワタシも心苦しいが、他に取るべき方法はないんだよ」
センパイに優しく言われて、遂にコイツも観念したようだ。シュンとしながらも、首を立てに振った。
「じゃ、行くぞ娘々」
ボクは、立ち上がって、そう声をかけた。センパイも続いて立ち上がった。娘々は、未だシュンとして座っている。
「ほら、立てよ。もう、これ以上粘っても無駄だぞ」
再度の声かけに、遂に偽小学生も、嫌々ながら立ち上がった。そして、俯いていた顔を上げる。
「よし、良い子だ」
「行くぞ。しっかり着いて来いよ」
ボクが歩き出そうとした時、急に娘々が首を捻った。まるで何かに気が付いたように。
「おい、オマエ。アレ、何だ!」
(何って……。今度は何だよ)
ボクが苦虫を噛み潰したような顔をしていると、
「アレだ、アレ。魚みたいなヤツ」
と、大声で息巻いている。
「騒々しいな。魚って、何だよ。……何処にあるんだ?」
「ほう、アレだな。もうこれっきりなんだ。付き合ってやろうよ」
センパイも、チビ助の見つけたモノに気が付いたらしい。同じ方向を見ている。
「そうか! 姐さん、良いヤツ。なら、ひとっ飛びするぞ」
「ひとっ飛び……って、オマエまさか」
嫌な予感がした。しかし、ボク達三人は既に宙を舞っていた。
だが、それも一時のこと。
地面に降り立った時には、ボク達は、赤いのれんの下がっている屋台の前にいた。
「これだ、これこれ。なぁ、ジブリ飯だぞ。喰いたい。オレ、ニシンのパイを喰いたい」
既に四十を過ぎたオバハンは、まるで小学生のように──いや、見た目はまんま小学生だが──はしゃいでいた。
「ジブリ飯だって? そんなの、こんな屋台で売ってんのかよ」
赤い暖簾をよく見ると、確かに魚の絵が描いてあった。でも、これって……。
「まぁ、形はよく似てるな。でも、ニシンのパイではないぞ」
(そうか。それでこの騒ぎか)
「娘々、違っているぞ。これはなぁ、たい焼きだ」
そう、それは、皆が知っているたい焼きを売る屋台だった。
「らっしゃい。焼き立てだよ。しっぽまであんこが詰まってるよ」
屋台の奥から、威勢の良いおっさんの声がした。
「たい焼きくらい良いじゃないか。買ってやろうよ」
センパイに言われて、ボクは渋々おっさんに人数分のたい焼きを頼んだ。
そして今、ボクの目の前には、未だ不法入国者が立っていた。口には、たい焼き。ほっぺには、あんこをくっつけて。
「美味いな、コレ。ニシンのパイの中身は、甘いんだな」
ボクの分のたい焼きをも奪って食しているこの厄介者から開放されるのは、一体いつになるのやら。
ボクの不幸は未だ終わらない。