狗之食堂にて
某日。
真昼を過ぎた店内には、カウンターに座る1人の男以外、客の姿は無かった。
「さっきもお店に来たんですけど、満席で座れませんでした。繁盛しているんですね」
男の言葉に、少し申し訳なさそうに笑う店主。
「すみませんねぇ、2度も店に来させちゃって」
「いえ、そんな。この前来た時に食べた味が忘れられなくて。どうしてもこのお店のご飯が食べたかったんです。注文しても良いですか?」
「嬉しいね、そう言ってもらえると。食べたいもの何でも言ってよ」
店主は注文を取ると、調理を始める前に店の外に出た。出入口の戸に掛かった札を『営業中』から『支度中』に変えると、厨房へと戻り、調理を始める。
「ところで、今日は神奈ちゃんと一緒じゃないの?」
店主の質問に、一瞬眉をひそめる男。が、すぐに表情を戻して問い返す。
「どうしてですか?」
「この前店に来てくれたときに、神奈ちゃんと長いこと話をしていたみたいだからさ。てっきり親しくなったのかと思っていたけど」
「別に親しいわけでは。彼女に、お願いをしただけですよ」
「お願い?」
「はい。でも、あまり進展が無いというか……」
「そっか。それがどんなお願いか、私には分からないけども。まぁ、気長に待ったら良いんじゃないかな」
「そうですかね」
「うん。それに神奈ちゃん、今は他のことに気を取られているようだし」
「他のこと、ですか」
あまり興味無さげな男の様子も気にせず、心底愉しそうな笑みを浮かべる店主。
「そうそう。実はなんか最近ね、神奈ちゃんの雰囲気が変わったんだよ。どうしてだと思う?」
「さぁ……」
「ふふ。私が思うにあれは、恋をしているのさ。あの男っ気の無かった神奈ちゃんにも、遂に春到来なんじゃない?」
すると、突然目の色を変えて、前のめりになる男。
「大将、それ、いつ頃からですか?」
「うーん、そうだなぁ」
男の反応に、わざと焦らすような間を開けてから、店主は答えた。
「この前お客さん、店に来てくれたでしょ? その少し後からだったと思うよ」
ガラガラ。店の戸が開き、新たに1人の客がやってきた。
「いらっしゃい、リュウさん。毎度どうもね」
白髪混じりのその男性客は、先に来ていた男の3つ隣に腰掛ける。そのタイミングで、今まで座っていた男が腰を上げた。
「おや。どうしたんですかお客さん?」
「すみません大将。急用ができました」
「え? ご飯は?」
「そちらのお客さんに差し上げて下さいっ」
言うや否や、カウンターにお金を置いて、店を飛び出した男。
「彼に、何を言ったんですか?」
出ていった男の背を見送りながら、『リュウさん』が尋ねる。しかし店主はそれに対してはっきりとは答えず、自論を口にした。
「……人生はさ、少し刺激があった方が面白いと思わない?」
「そうですかね」
「平凡で穏やかな生活っていうのは、たまには良いけど、やっぱりそれだけじゃつまらない。特に若者は刺激を楽しまなくちゃ。心が枯れて死んじゃうよ」
「その考えが間違っているとは思いませんが」
「でしょう?」
でも、と『リュウさん』は続けた。
「結局、楽しんでいるのはあなただけですよね」
「ははは。うん、そうだよ」
悪びれもせず笑う店主。その姿を見つめる『リュウさん』の目は、呆れでも軽蔑でもなく、むしろ、尊敬の色で塗り潰されていた。
彼らにとってこれは、平凡で穏やかな日常の一場面。店を飛び出した男にとっては、『刺激』の幕開け。