面倒なことになった
福井に別れを告げ、社長室に戻る。誰もいないことを確認してから鍵を閉め、大きく深呼吸。
「ちくしょおおお面倒なことになったあああああ!!」
大丈夫、この部屋は防音加工されているので、こうやって叫んでも他の部屋には聞こえないんです。
それにしても本当に面倒なことになった。これまで自宅のマンションに、人を招いたことは一度たりとも無い。唯一の友人である明も、家族さえも。あの空間だけが自分が自分でいられる場所で、誰にも踏み込まれたくはない領域だったから。それなのに、さして親しくもない会社の部下を、しかも何日かに渡って泊めなくてはならないのだ。自宅にいながらにして、息が詰まりそうだ。窒息して死ぬかもしれない。ああいっそ、何か盗まれていれば警察に行っただろうに。傘振り回されたくらいで逃げるなよ、腰抜け泥棒め。
とりあえず、神奈に連絡を入れないと。携帯電話を取り出し、操作しながらふと思った。
――そういえば俺、神奈のことは普通に受け入れているよな。
最初こそ強引に押し掛けられたが、今となっては彼女が家にいることが当たり前になりつつある。そもそもこれまで、本気で彼女を家から追い出そうとしたことも無かった。保守的に生きてきた中で、少しの刺激が欲しいと思ったから。だが、神奈を受け入れた理由はそれだけじゃないはずだ。それだけじゃなくて――
プルルルルr
握りしめていた携帯電話が鳴りだし、思わず悲鳴みたいな声が漏れた。画面を見ると『中二病』と表記されている。ああ、神奈だ。
「<ピッ>俺の心を見透かしたようなタイミングで電話掛けてくるなよ。心臓に悪い」
『は?』
「何でも無い、こっちの話だ。……あ。そういえばお前、今朝はよくも騙してくれたな。雨降るどころか、雲一つない天気じゃないか」
『ごめんごめん、勘違いしてた。アタシが見たの、イギリスの天気予報だったわ』
「……お前、そんなに嘘をつくのが下手だったか?」
『別に良いでしょ、損したわけじゃあるまいし』
「要らん恥を掻いたよ。職場にレインコートで出勤したら、社員に体調を心配された。あと、葛根湯をたくさん貰った」
『なら良かった』
「全然良くない。そうそう、それと、大変なことになったぞ」
『なんだよ、次から次へと』
「今夜、会社の部下が家に来るんだ。しかも、何日か泊まるつもりらしい」
『お泊りするほど仲良しなの?』
「ただでさえ交友関係の極めて狭い俺が、会社関係の人間と仲良くなれるとでも?」
『……。ごめん』
「その部下が、まぁ、困ったことがあってさ。自宅に帰られないそうだ」
『そうか』
「だから神奈、悪いんだがお前には――」
『うん、分かってる』
「――俺の妹役をやってほしいんだ」
『何だって?』
「お前を紹介する時、その方が手っ取り早いだろ。くれぐれも大人しく、俺の妹らしく振る舞う様にな」
『アタシをしばらく追いだす、っていう考えは無かったんだ?』
「お前は何を仕出かすか分からないからな。目の届くところに置いておかないと不安だろう」
『反論の言葉も無いわ』
「それに、俺の心と表情の崩壊を防ぐ役割が必要だ」
『アタシがその役割なわけか。自分で何とかしろよって話だけど』
そう言いつつも、納得してくれたようだ。
窓の外では風が吹いている。街路樹の葉が大きく揺れていて、街ゆく人たちは寒そうに体を丸めていた。俺が家から神奈を追いだしたら、彼女はこの寒さの中、どこに行くのだろう。前に自分のことをホームレスだと言っていた。だからといってビジネスホテルなり泊まるだろうが、それでもやっぱり、イヤだな……
…………ん? イヤだなって、何がイヤなんだ?
『……刻也は甘いよ……』
「え?」
『ううん、何でも無い』
自問自答をしていたら、電話の向こうで神奈が何かを呟いた。よく聞きとれなかったけれど、それが何だったのかは教えてもらえなかった。
『帰ってくる前に連絡入れてね。服着ておくから』
「まるで俺がいないときには、全裸でいるかのような口ぶりだな」
『そんなわけ無いでしょ』
「だよな、良かった」
『下着は身に付けているよ』
「全然良くなかった! 半裸じゃねぇか!」
『だってこの家、床暖房完備だから暖かくて』
「床暖停められたくなければ、服を身にまとえ裸族」
『うぃす、善処しまーす。じゃあまたね』
「ああ、また後で」
己の外面の良さを恨んでいても仕方が無い。福井が泊まりにくることは、どれだけ嫌がっても変わらない事実なのだから、今は仕事に集中しよう。
と、部屋の扉がノックされた。慌てて鍵をあけ、扉を開くと、柊木さんが立っていた。
「柊木さん、どうかした? というか、その荷物は一体……」
柊木さんの両手には、栄養ドリンクやらゼリーやらレトルト食品やら、荷物でパンパンになったビニール袋が握られている。
「突然すみません。社長、体調はいかがですか?」
「体調?」
ああそういえば、レインコートで出勤した理由を、体調が優れないからだと嘘をついていたんだった。
「もうだいぶ良くなったよ。心配させたようで、すまなかったね」
「いえ、それなら安心いたしました。もし良ければ、これ、召し上がってください」
柊木さんが、ビニール袋を差し出してきた。
「もしかしてこれ、私のために? ありがとう」
「そんな。社長の体調管理は、秘書であるわたしの仕事でもあります。むしろわたしは、叱られるべきなのです」
「いや、私の自己管理がなっていなかっただけだから。それに、大したことでも無いし」
重たいその袋を受け取りながら、ふと、さっきの神奈との電話を思い出した。
そういえば神奈、どうして俺に電話をかけてきたんだろう。