動き出す
雨は降らなかった。
レインコートを着て、傘も持って、タクシーを呼んで、運転手に「お客さん、どうしてそんな雨対策してるんです?」と不思議がられ、それでもコートを脱がずに耐えたのに。晴れ渡った空からは、一滴たりとも雨は落ちなかった。柊木さんに聞いたが、今日は1日晴れの予報だそうだ。
くそ、神奈のやつ。裏サイトで俺の評判が良かったからって、こんな地味な嫌がらせを。今日の晩ご飯は、もやし と ちくわだけにしてやる。
と、決意しながら社食に入る。お昼時だから当然のことだが、社員がたくさんいるなぁ。ああ見られてる見られてる。いつだって周りに見られている。飯を食べに来ただけなのに、どうして社員たちはあんなに期待したような目で俺を見るんだろうか。
まぁでも、1人で食べられているだけマシか。これで誰か(柊木さんは良しとして)が「一緒に食べましょう」なんて言ってきた暁には、俺の表情筋は痙攣を起こしかねない。
「社長、お昼ご一緒しても良いですか?」
危うく舌打ちしかけたのを、わずかな理性で食い止めた。言った側からこれだよ、嫌になるね全く。
誰だ、俺の表情筋を痙攣させんとする社員は。
「ああ、福井か」
「お疲れ様です、社長」
そこには、福井優が立っていた。入社してまだ2年目で、歳も24と若いのに仕事が出来る、将来有望な社員。クリクリとした大きく円らな瞳と、愛らしい笑顔が特徴的で、穏やかな性格ということもあり、女性社員からの人気が高い。ほら、周りの社員たちからの必死に抑えた歓声が、嫌でも聞こえてきたよ。
「お邪魔しますね」
俺は1人で食べたいんだから、そこをどけ! とは当然言えず、笑顔で福井を迎える。
「社食で福井を見たのは初めてだな」
「初めて来ました。普段はデスクで食べるので」
「そうなんだ」
「僕、仕事が遅いので、お昼休みも返上で働かないといけないんですよ」
「謙遜するな。ということは、デスクで仕事しながら昼飯を食べているのか」
「はい」
「忙しいのは分かるが、昼休みくらいちゃんと休まないと。若いからまだ良いが、私みたいに歳を取ったとき大変だぞ」
神奈におじいちゃん呼ばわりされたことを思い出して、少し泣きそうになった。
「社長はまだまだお若いですよ。服装にも気を遣っていて」
「そうか?」
ああ、服装と言えば。
「福井、この前は時計ありがとな」
少し前に、福井が腕時計をプレゼントしてくれたことがあった。「いつも気に掛けてくださるお礼です」とか言って。社長として、福井を特別可愛がっているつもりも無かったが、折角買って来てくれたものを突き返すわけにもいかず。とりあえず、そのあと晩飯をご馳走した。
「いえいえ。むしろ高いお店に連れて行ってもらったので、こっちが得した気分です」
「そんなことは」
ある。すごく高い店だった。しかし部下にプレゼントを貰って、そのお礼にファミレスや牛丼チェーンに連れていくなんて出来ないだろ。だから仕方なく、取引先の接待でしか訪れたことのない店で、泣く泣く大枚はたいてご馳走したのだ。永遠に感謝してくれ。
「社長と晩ご飯をご一緒できるなんて、夢のようでした」
「そうか」
夢なら良かったよ。でも店を出た後、自分の空の財布を見て、これは現実なんだって泣きそうになった。いや、金はあるんだけどな。だが結局、信頼できるのは金くらいだ。いくらあっても困らないものだから、後々のために出来る限り貯めておきたいと思うのは、他のサラリーマンと同じじゃないだろうか。金は使ってなんぼだと言う人もいるが、その役割は一部の富豪に任せる。俺は保守的にいきたいんだ。
「あの時計、気に入っていただけましたか?」
「え? あ、ああもちろん」
俺はそこまで変だとは思わなかったが、神奈に「似合っていない」と言われてから、実は一度も身に付けていない。そもそもあの夜にリビングで外してから、行方不明になったんだよな。
「あまり傷つけたくも無いからな。大切に保管してあるんだ」
「そうでしたか。最近身に付けていないようでしたから、もしかして趣味に合わなかったのかと」
「ははは、そんなわけないだろ」
ちゃんとチェックされていたのか……。帰ったら探してみないと。
罪悪感を抱きながら、ラーメンをすする。