少しだけ、少しだけ
いつもはコーヒーを入れる俺のカップにココアを入れて、座っているソファまで持ってきてくれた。それを受け取りながら、頭を切り替える。
「サンキュ。……」
「静かに匂いを嗅ぐなよ。変なものは混ぜて無いから」
「油断はできないからさ。じゃあいただきます。……うん、甘い」
「甘いね、確かに」
「仕事は無事に終わった?」
「アタシは無事」
「あ、うん」
「だけど向こうはもう、ヘンタイなことになってしまった」
「タイヘンなことじゃなくて?」
「新たな世界を広げてしまった」
「どういうことなの」
「まあ気にしないで」
「気になるけど、うん分かった」
「刻也が寂しがってると思って、早く帰って来てあげたよ」
「あ、どーも」
「冷たい反応だなぁ」
そう言って笑う彼女の頬に、小さな傷が見える。朝は無かったのに。
「どうした? その傷」
「え、怪我してる?」
「してるよ、ほらここ」
頬へと手を伸ばし、優しく傷に触れてみる。
「痛くない?」
「…………」
「神奈?」
どうしてだか黙ってしまった彼女の顔を覗き込もうと、腰を浮かすが、
「痛くない、大丈夫」
そっけなく答えて、神奈は俺に背を向けてしまった。オッサンに触られるの、嫌だったかな。
「刻也は、明日休み?」
「ああ。1週間の中で最も心安らぐ日曜日だからな。毎日が日曜日なら良いのに」
「世界がニートで溢れるね」
「神奈は?」
「アタシも休み」
「休みが多くて羨ましい」
「お前も殺し屋に転職したら良いよ」
「嫌だな」
「だよな」
「お前の後輩になるわけだろ? それは嫌だわ」
「ああ、そこなんだ問題は」
「重要だろ。職場の人間関係で、仕事が楽しいかそうでないかも変わってくる」
「刻也は?」
「楽しそうに見えるか?」
「聞くまでもなかったわ」
「神奈は?」
「ん」
「本当の仕事は何だ?」
「殺し屋だよ。言ってるじゃん」
「ああそうかい」
「本気にしてないな」
「現実味が無いからさ。本気にしようが無い」
「ならアタシが」
「ん?」
「…………今夜は冷えるな」
「何だよ。何か言いかけただろ」
「これこそ、聞くまでもないことだから」
「気になるから言ってくれ」
「…………アタシが、お前の目の前で人を殺したらどうなるかなって」
「……」
「別に良いんだ、何となく聞いてみただけだから。忘れてよ」
「ん……」
そうは言われても。神奈の表情はどことなく真剣に見えて、その質問を流すことが出来なかった。まぁどれだけ考えてみたところで、やっぱり現実味の無いことは分かりようがないのだけれど。
そこまで思って、ふと俺は気付いた。
「正直、分からないな」
「だろうな」
「いくら想像力を広げても分からない。実感が無いとさ」
「無くて良いよ」
「けど、考えてるんだよ、俺」
「?」
「神奈と会ったばかりの頃は、お前はあくまで他人だったからさ。関心は持てないし、大抵のことは受け流せたし、さっきと同じ質問を もしされていたら俺は、特に考えもせずにテキトーな答えを返していたと思う」
「うん」
「でも、今はすごく考えてる。お前からの質問を、前のように軽くは流せない。お前が俺にとって、他人ではなくなってきている――ということなんだろうか」
「…………」
「いや、ごめん。だから何って訳ではないんだ。お前にとって俺は他人かもしれないから。今のは何かを伝えたかったんじゃなくて、自分の考えをまとめるための大きな独り言だと思ってくれ」
「……」
「歳を取ると、独り言が多くなるんだ。嫌だね」
「確かに、40歳はジジイだもんな」
「まだ38歳だ」
「アタシより上はジジイで良いんだ。面倒だから」
出会った頃より大人しくなったと感じていたが、自分を中心に考えているところは、全く変わっていないらしい。
「まぁ、お前から見たら俺はジジイか」
「刻也おじいちゃん」
「それはやめて。孫ほどの歳の差は無いだろ」
ケラケラと小馬鹿にしたような笑い声を上げながら、神奈は俺に背を向け、再び窓に近付く。
「まぁ、アタシにとってもお前は他人では無いわな」
「おお、そうか……!」
「標的だからな」
「ああ、そうか……」
彼女に何を期待していたのか、その答えが少し残念に思えた。
「それに、悪くはないし」
「ん?」
「ここの居心地は、そんなに悪くない」
『ここ』が『俺の家』を指すのか、『俺の傍』を指すのか。それを訊く前に、彼女は呟くようにこう被せる。
「……だから困るんだよ」
それは、どういう意味なんだろう。心にモヤモヤとした疑問が残るが、どうしてもそれを口には出来なかった。口にしたら、俺と神奈の関係が終わってしまうような気がしたから。