彼女との出会い
神奈に初めて会ったのは、今から1週間前だ。
その日も仕事を終えてからスーパーで買い物を済ませ、いつもの帰り道を歩いていた。確か、夜の7時ころだったと思う。
△△
「さみ……」
11月に入り、吹く風は日に日に冷たさを増してきた。早く帰ろう。自然と歩調が速くなる。人通りが少ない薄暗い道を歩いていると、ふと何かが視界に入った。
街灯の下。そこに、誰かが倒れている。うつ伏せになっていて顔は見えない。小柄な体にまとうのは、真黒なフード付きのコートと黒いズボン。肩まで伸びるボサボサの髪に至るまで真黒だ。街灯の下にいなければ倒れていることに気付けない程、闇に溶け込んだ格好だった。
速まる鼓動に対して、遅くなっていく歩くスピード。そして、気付けば俺は立ち止っていた。どうしてこんなところで人が倒れているんだろうか。酔っ払いのサラリーマンなら道端でたまに見かけるが、あの人は髪の長さと体格から見て、女性のようだ。一体どうしたというのか、とても気になる。
しかし俺は息を殺し、女性から遠ざかった。何も見なかったことにして、通り過ぎてしまおう。俺のモットーは、触らぬ神に祟りなし、なのだから。
「おいこら、待ちやがれ」
しかし、通り過ぎようとした俺は、ドスを利かせた女の声によって引きとめられた。冷や汗をかきながらも振り返る。倒れていたはずの女は、こちらに顔だけ向けて俺を睨んでいた。若い女だ。
「いたいけな女の子が倒れているってのに、無視するとはどういう了見だこの野郎」
「えっと……いや、すまない。気付かなかったんだ。でも、元気そうじゃないか」
「元気じゃない。死にかけてるんだ」
「それなら救急車を呼ぶから、どこが痛いのか教えてくれ」
「お腹が減った」
「は?」
「お腹がすいた」
「は?」
「アイムハングリー」
「は?」
すると女は、俺が持っていたスーパーのレジ袋を指さした。
「ニンジンにジャガイモ、玉ねぎと鶏肉も入っているな。カレーか? ……いや、バターと生クリームもあるから、シチューだろ」
見事、袋の中身を当てて見せた女。こいつ、エスパーか?
「それがどうした?」
女は、突然ガバっと起き上がった。
「お腹が減ったと言っているだろう?」
「そこの雑草でも食べればいい」
「今日は寒いからさ。ちょうど、シチューが食べたいと思っていたところなんだよ」
「そうか、それは良かったな。じゃあ、俺はこれで」
「来栖刻也」
名乗っていないはずだが、女は俺をフルネームで呼んだ。こいつがエスパーである可能性が高まった。
「どうして、俺の名前――」
「来栖刻也、1978年2月14日生まれの38歳独身、出身は岩手県小船渡市小船渡町、現住所は同市盛々町のマンション、株式会社シトル社長、血液型はA型、スリーサイズは上から――」
「もう良いわ!」
おめでとう、この女はエスパーです。
「何なんだよ、お前は」
「黒崎神奈」
「いや、名前じゃなくて」
「シチューが食べたいなー」
「……」
「――骨密度は86.38、血圧80、家族構成は――」
「分かった分かった! シチュー食べていいから!」
「サンキューベリーマッチョ」
△△
――刻也宅、リビングにて
「もぐもぐもぐもぐ……うん、イケる」
「そうかい」
「でも、ブロッコリーが少し堅いな。煮詰め直したらどう?」
「文句があるなら食べるな。お前もろとも煮詰めてやろうか」
「いや、歯ごたえがあるのも嫌いじゃないよ。合格」
「何様だよ」
神奈は、俺お手製のシチューを食べながら、文句というかイチャモンをつけてきた。その割とすでに3杯のシチューを平らげている。沢山作っておいて正解だったな。
その後もバクバクと食らい尽くすと、満足げにソファにゴロンと寝転がった。
「げふ、ごっそさーん」
「はいはい。お粗末さまお粗末さま」
「で、刻也」
「俺の方が年上なんだが」
「トッキー」
「刻也でいい。何だ?」
「アタシは、どこで寝ればいいの?」
「家で寝ろ」
「刻也の?」
「お前自身の家に決まっているだろ」
「そりゃ無理だよ。アタシはホームレスだからな」
「え。そうなのか」
「ああそうだ。居場所が知れると厄介だからさ」
「知れるって、誰に? どうして厄介なんだ?」
「アタシはソファでも寝れるから安心してくれ」
「俺の質問に答えなければ寝かせない」
「アタシに答えを強要するなら、ネットでこれを流す」
そう言うと神奈は、コートのポケットからボイスレコーダーを取り出した。レコーダーからは、俺の声が流れてきた。
『<俺の方が年上なんだ><から><今夜は><俺の><家で寝ろ>。<だが><大人しく><寝られる><とは><思うなよ>』
「お前……! いつの間に……! 勝手に編集した挙句、俺を変態に仕立て上げるな!」
「で、どこで寝ればいいの?」
「……ソファ、貸すから」
「ヤッフー!」
駄目だ、完全に弄ばれてるぞ、俺。38の男が、たかだか20代前半くらいの小生意気な女に、完全に主導権を握られてしまっている。しかし、追い出すに追い出せない。どんな抵抗をされるかと思うとぞっとするしな。などと考えている内に、神奈の寝息が聞こえてきた。うぅむ、黙っていれば可愛い方なのにな、こいつ。口調は荒いし態度は大きいし、自分勝手でわがまま。正体不明のくせに俺のことは恐ろしいまでに知っている。
ああもしかして、眠りにおちている今なら、こいつを外に放り投げることができるんじゃないだろうか。そうだよ、俺のポリシーは触らぬ神に祟りなし。面倒事にはあえて首を突っ込むことなく、波風を立てるようなこともせず、平凡で穏やかな毎日を送る。今まで、そうやって生きてきたじゃないか。そんな日々を送る俺にとって、非日常的でイレギュラーなこいつは、もはや天敵と言っても過言ではない。だから俺は今から、この天敵をそっと追い出して、またいつも通りの穏やかな日常を……穏やかな、日常を……
くしゅんっ
神奈が、小さくくしゃみをした。
「……仕方ないな」
俺は、自室から毛布を持ってきて、それを神奈の体にそっと掛けた。
本当は、そんな穏やかでつまらない日常から抜け出したいと、心のどこかで思っていたのかもしれない。