ハッちゃん
「ハッちゃんってあるじゃん」
「あの、マネキンの……?」
◇
うちの近く、ある愛知の駅前商店街には、ハッちゃんと呼ばれる大きなマネキン人形がある。
身長6mにしてモデル体型の、女性型のマネキン。スラリと美しい体つきで、足は驚くほどの長さだ。
八頭身のマネキン、だからハッちゃん。
彼女はマネキンだけあって、一年中さまざまなファッションで私たちの目を楽しませてくれる。
私が生まれる前から設置されているそれは、街の人々から親しみを込めて、ハッちゃんと呼ばれているのだ。
「恵美、知ってる? ハッちゃんがスカートものを穿いてる時って、寂しい時なんだって」
敦子は唐突にそう言った。
敦子は都市伝説が大好きだ。学生時代からちっとも変っていない。偶然地元の同じ会社に就職した私は、休み時間になると決まって、この他愛もない話に付き合わされている。
「へっ?」
思わず間抜けな声が出てしまった。
あのね敦子、私たちは大人になったんだよ。ハッちゃんの恰好は企業のディスプレイだと知っている。まして、スカートかどうかでその日の気持ちを決められたのでは、ハッちゃんもたまったものじゃないだろう。
しかし敦子は、甘いわね、と言わんばかりの口調で続けた。
「誘惑してるのよ、ゆ・う・わ・く! だって、ハッちゃんって6mくらいあるでしょ。足の間っていつもくぐれるようになってるじゃん」
そう、ハッちゃんは商店街の真ん中に、堂々と足を三角形に開いて立っている。もちろん迂回することもできるけれど、地元の人たちは彼女の足の間を、特に気にする様子も無く堂々と潜り抜けるものだ。
「でね、スカートを覗いちゃうようなイケナイ人間を見つけると、声をかけるの。声は普通の人には聞こえない。聞こえない相手には何もしないんだけど、もしその声を聞いちゃうと……」
「聞いちゃうと……?」
「ハッちゃんにお持ち帰りされて、オモチャにされちゃうんだって」
私は思わず、食べかけの弁当をブッと噴出してしまった。
冗談にしたって、あまりに品がない。都市伝説には都市伝説なりの、作法ってものがあるんじゃないのか。
それに、その話には矛盾があるじゃないか。
「その声は聞こえないんでしょ。お持ち帰りできないじゃん。私たちと同じ喪女じゃん、ハッちゃん」
私は自虐気味に笑う。
ところが敦子は、私のこの台詞を待っていたらしい。一段と嬉しそうな表情で語り始める。
「それが、あるのよ。ハッちゃんの声が聞ける方法が……」
敦子が身を乗り出したところで、昼の始業ベルが鳴る。私たちは大急ぎで食べかけの弁当を片付け、仕事に戻った。
◆
その日は忘年会だった。まだクリスマス前だが、予約の少ないうちに済ませてしまうのがわが社の通例だ。
特に予定のあろうはずもない私と敦子は、今年もやけっぱちとばかりに参加する。飲んで飲んでとにかく飲んで、泣いて吐いて、上司のカツラを叩き落とした。ああ、今年も素晴らしい忘年会だった。
どういうわけか、私たちがいると二次会が発生しないので、私と敦子は大人しく帰ることにする。
駅に着く。今、12時20分。その日の終電は終わっていた。
ふと駅前から、商店街のアーケードが見えた。ハッちゃんはクリスマスに合わせ、サンタのコスプレとも取れるような真っ赤なミニスカート姿だ。
それを見て不意に、お昼休みの話の続きが気になった。
「ねぇ敦子。教えてよ。ハッちゃんの声をきく方法」
私たちはハッちゃんの足元まで来ていた。こうして歩くと、アーケード内には意外とマネキンが多いみたいで、結構不気味だ。
肝心のハッちゃん。今日の下着は刺激的な黒のレース。誰を誘ってるんだこの勝負下着。
敦子が言う。
「12時34分になったら、一分以内にハッちゃんの足の周りを八回まわるの。そして『ハッちゃん様、ハッちゃん様。お慰み申し上げます』って言うんだって」
呪文までそんなのなのか、さらに品が無い。
「そしたらハッちゃんと、攫われた人の声が聞こえるようになるの。ハッちゃんは「おまーせさん」って言うんだって。で、もしその声を聞いたら、絶対に上を見ちゃダメ。見ちゃったらハッちゃんのオモチャだからね? いい?」
「分かってるわよ」
そうこうしている間に、時間がやってくる。
3、2、1……
夜の12時34分。時間だ。
私たちはそれぞれ、別の足の周りをぐるぐると走って8週する。酔っ払いの頭にはキツい。
それでも大した時間もかからずに回り切った私たちは、呪文を唱えた。
「「ハッちゃん様、ハッちゃん様。お慰み申し上げます!」」
……。
当然というか、なんというか。
何も起こらない。何も聞こえない。
やっぱり、都市伝説は都市伝説だった。そんなバカバカしさが、酔った頭に心地よい。
私と敦子は思いっきり笑いあうと、帰りのタクシーを拾うためアーケードの外へと向かった。
すると。
「……ケテ」
不意の声に私が立ち止まる。
耳を澄ませても、聞こえるのは遠くに走る自動車の音と、近くでふらふらしている敦子の足音だけだ。
「敦子、何か聞こえなかった……?」
「え? 別に何も」
「……タスケテ……」
今度はハッキリと聞こえた。敦子にも聞こえたらしい、私たちは体を寄せあう。
でも、これはハッちゃんの声じゃない。若い、男の声。それが、助けを求めている。
なんだろう、カツアゲだろうか。けれど争っている相手の声は聞こえない。
……タスケテ……タスケテ……タスケテ……
こうしている間にも、声はどんどん弱々しくなっていく。
「行こう」
私たちはゆっくりと、声のする方へと歩いて行った。
そして、私たちはある地点で足を止める。
そこは、ハッちゃんの真下にあたる地点。声はどうやら、この辺りから聞こえてくるらしい。
「タスケテ」
声がはっきりと頭上で聞こえる。
私たちの頭上に誰かいる。間違いなく何かが起こっている。けれど……
――オモチャにされちゃうんだって――
ピタリと当てはまりすぎる状況に、私は頭上を見上げる勇気が出ない。噂だ、あんなものはただの迷信だ、そう分かり切っているのに、どうしても声の主を確認する度胸が無いのだ。
敦子は、敦子はどう思ってるんだろうか。
確認しよう。二人で決めよう。
そう思って私は、後ろを振り返った。
――敦子?
敦子がいない。ついさっき、ほんの一瞬前まで、私のすぐ後ろに居たはずなのに。
「敦子? 敦子、いやだよ、隠れてるんでしょ? 冗談やめてよ」
……しかし、敦子の返事は無い。
「ねえ、ねえってば! 敦子、返事して、敦子!」
すると、敦子の声がした。
「……ケテ。助けて、恵美、助けて……」
そう、私の真上から。
私を呼ぶ、良く知ったその声に、私は思わず、反射的に上を見上げた。
そこにあったのは。
真っ白なハッちゃんのマネキンの体と、巨大な黒い下着。
そして、その間からはみ出している、敦子の下半身だった。
敦子の体はじたばたともがいていたが、徐々に力を失っていく。私も手を伸ばすが、届かない。そうこうしているうちに敦子は、ゆっくりとスカートの奥へ飲み込まれてゆき、最後には完全に、消えてしまった。
私はその光景を、呆然と立ち尽くして、見ているしかなかった。
「おまーせさん」
可愛らしい、女性の声が響いた。
……しまった。
気づいた時には遅かった。
声の主が、ゆっくりと視線を私に向ける。
「おまーせさん」
私は体中がガクガクと震え、その場にへたり込む。
「おまーせさん」
声の主の真っ白な顔が、私を覗きこむ。
私はもうだめだ、と思った。
だってその声の主は紛れも無く。
紛れも無く、ハッちゃんの、声だったから。
ハッちゃんの大きな手が、私を捕まえようと伸びてくる。
私は無我夢中で走る。
ガタンッ! ガタンッ! ガタンッ!!
ショーウインドーのマネキンたちが一斉に硝子を叩く。
嫌だ! 嫌だ! 嫌だ! 捕まりたくない、消えたくない、助けて、助けて、助けて……!!!
◆
気が付くと私は、自分の部屋で目を覚ました。
二階の借り部屋、いつものベッド、いつものパジャマ。寝汗だけはぐっしょりとかいていたけれど。
「そうだ、敦子!」
私は急いで、敦子に電話を掛ける。
すると敦子は、あっさりと電話に出た。
私が事情を説明すると、敦子は大笑いだ。
「酔っぱらって、変な夢でも見たんじゃないの?」
この言葉を聞いて、私はほっと胸をなでおろす。敦子は、起きるのに丁度よかったよと言ってくれた。そうでなければ、とんだ迷惑になってしまうところだった。お互い今日も仕事なのだ。今日の身支度を始めなくては。
「それじゃ、朝からごめんね、敦子。また後で」
何気なく電話を切るつもりだった。けれど、私は彼女の、次の一言で凍り付いた。
「ええ、今から迎えにいくよ、おまーせさん」
ひっ、と声を上げ、私はスマホを落とした。スマホは割れ、もう音はしていない。
敦子の悪戯? けれど、いまの声はまるで、まるで。
ハッちゃんの声、そっくりだった。
おかしい。何かがおかしい。
いつもの部屋なのに。いつもとは何かが決定的に違う。
ふと、カーテンが閉めっぱなしであることに気が付いた。
……部屋が、暗い。いつもなら、もうとっくに日の光が入って、明るくなっているはず。たとえ、カーテン越しだったとしても、もう少し明るかったと思う。
私は、カーテンを開く。
すると、そこには……
「迎えにきたよ。おまーせさん」
窓を覆い尽くすように部屋を覗きこんでいる、ハッちゃんがそこに居た。
ハッちゃんの手はガラスを砕き、一つかみに私の体を握りしめる。
「いやあああ! いやああああああああ!!!」
必死にもがくけれど、全く逃れることができない。
「おまーせさん」
ハッちゃんのたくし上げるスカートは、もう目の前に迫っていた……
◇
「……ってことがあったんだって」
「えー、何それ」
高校生たちはそんな話をしながら、ハッちゃんの下をいつものように通り過ぎていく。
……タスケテ……タスケテ……
「おまーせさん」
ハッちゃんは今日も、スカート姿で人々を誘惑するだろう。
しかし、あなたがハッちゃんの声を聞くことはない。
夜の12時34分、秘密の儀式を行わない限り……。