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    ◆



「え……」


 零れたの驚愕だった。鳴彦は、その場で唖然と立ち尽くしてしまう。

 左右を見回す。

 知らないレンガの壁だった。それが両側にずらっと背丈の二倍以上の高さでそびえ立っている。

 思わずレンガの壁に手を触れると、ひんやりとした温度と、ざらりとした感触が手のひらに伝わってきた。

 ずりずりとそのまま壁に手を滑らせる。


「どこだ……ここ……?」


 堪らず独り言が零れた。

 混乱に焦点の合わない瞳で、鳴彦は辺りを見渡す。

 さっきまで明け方の商店街の隅でギターを弾いていたのに、目を閉じて開いたらレンガ造りの見たこともない場所にいるという現状。理解なんて、できるはずがなかった。

 上を見上げる。夜明けの空は藍色で、普段から見ていると謙遜がないように見えた。

 変わっていないものを見つけて、思わず安堵のため息が漏れる。


「なんだ、夢か……」


 ぽつりと呟く。空しい抵抗だとうすうす勘付きながら。

 そして、そのままギターケースを抱え込みながら、レンガの壁にもたれかかるように座り込む。

 まぶたを閉じる。

 夢の中で、夢よ醒めろと思い、また目を見開いたら、あの寂れた商店街にいることを想像しながら。




 目が覚めた。上を見上げると、太陽は頭上の辺りで燦々と輝いていた。

 鳴彦は現状の把握を始める。目の前にはレンガの壁。もたれているのは、寝る前と同じくレンガの壁。眠る前と全く同じ光景だった。

 唯一違うのは、奥の方から人々の喧騒と、良い香りが漂ってくることだ。

 ぐぅ、と鳴彦の腹が鳴り、香ばしい肉が焼ける匂いに唾を飲込んでしまう。

 鳴彦は匂いと喧騒につられるように、ふらふらと路地裏を歩きはじめる。

 そのまま数分歩くと、レンガ通りから道が開ける。

 太陽光が鳴彦の目を焼く。堪らず手で影を作り、あたりの風景を確認する。

 そこは、異国の情景だった。鳴彦の前を横切るように大きな大通りとなっており、その脇で様々な露天商が店をだし、大通りを歩く大勢の人々相手に商売を持ちかけている。

 喧々諤々(けんけんがくがく)とした人々と、トカゲに似た馬のような荷車を引く動物が奏でる様々な音が混ざり合い耳朶じだを打ち、日本では聞いたこともない音色と音楽が溢れていた。


「どこだよ……ここ……」


 あまりの光景に、徐々に鳴彦の心を恐怖が覆いはじめる。

 その時、先ほどの匂いが鼻孔びこうをくすぐった。

 疲れと混乱で思考が停止した鳴彦は、ふらふらと匂いに釣られ、一軒の焼き鳥屋の前に立つ。


「おう、坊主」


 その焼き鳥の髭を生やしたごつい店主が、にこやかな顔で鳴彦に声をかけた。


「らっしゃい。一本、二十五セロだぞ。食ってけ食ってけ!」

「せ、セロ?」


 威勢のいい声で値段を告げられるも、その聞いたこともない単位に成彦は目を白黒したままごつい店主を見つめてしまう。


「え、と……」

「なんだ坊主、金がねえのか!」


 返事をしあぐねていると、店主はガハハと笑って串を一本鳴彦に差しだす。


「んじゃ、これを食えよ」

「え?」


 突然の申し出に、再び目を白黒させてしまう。無一文の鳴彦に商品を差しだすなんて、意味がわからなかった。

 何か裏があるのか、それとも本当にお人よしなだけか。

 警戒が鳴彦の中で強くなる。


「そんなに警戒すんなよ」


 店主は再びガハハと笑いながら言う。


「あんた、吟遊詩人ぎんゆうしじんなんだろ? 飯をこっちが提供する代わりに、うちの宣伝の曲を一曲売ったってくれればいいからよ」

「え……吟遊詩人? おれが?」

「なんでぇ、違うのかい。後ろに背負ってるもんは、リュートかなんかなんだろ?」

「え、あ、これ……?」


 慌てて背中の存在を思い出す。背中には、確かにアコースティックギターを背負っていた。

 そうか、だから吟遊詩人。

 吟遊詩人に一曲歌ってもらって、客集めに一役買ってくれそうだから串をくれようとしたのか。

 ようやく鳴彦は店主の意図を理解する。


「吟遊詩人じゃねえんだったら、流石にタダで串はやれねえなぁ」


 その時、猛烈な空腹を鳴彦は覚えた。

 そう言えば、目が覚めてから何にも食べてない。しかも、辺りや気温から考えるに、おそらく今は昼過ぎ。深夜のバイトが終わってからも何にも食べてなかったから、かなりの空腹だ。しかも、そんな空腹時に目の前香ばしい肉の香りがある。たまったもんじゃなかった。

 それなのに、これを買う金はない。正確には試していないからわからないけど、というか、そんな余裕は混乱の境地にある今、そこまで思考が回らなかった。ここで店主の提案を蹴るのは、空腹具合から鑑みても、動かない思考から鑑みても、選択としてあり得ないと思えた。


「で、できます! やらせてください!」


 引っ込みかけた串に飛びつきながら、鳴彦は慌てて店主に言う。


「なんでぇ、やっぱりできるんじゃねえか。もったいぶるなよ」


 ガハハと笑って、店長は店越しに鳴彦の肩をバシバシと叩く。

 むせながら、鳴彦は串にかぶりつく。肉汁が溢れ、その香ばしい旨みに一瞬で食べきってしまう。意外とこの一本で空腹感はだいぶ満たされた。


「さ、一曲頼むぜ」


 言われ、慌てて油の吐いた手を布でふく。

 そして、背中に閉まったギターを取り出し、店の横に陣取る。


「え、と……、どんな曲を?」


 何を弾けばいいのか聞くのを忘れていて、鳴彦は恐る恐る店主に尋ねる。

 店主は、


「なんつーか、こう、身体が熱くなって肉が食いたくなるような曲を頼むよ」


 と笑いながら言う。

 その無理難題に鳴彦は思わず頭を抱える。

 しかし、現物支給で給料をもらっただけに、一応社会人である鳴彦は引き下がるわけにはいかなかった。

 そして、思いついたのはアツいロックである、A'sの曲。肉が食いたくなるような曲は思いつかないが、あの曲なら大丈夫だろう。

 なるようになれ。

 鳴彦はジャンジャカとギターをかき鳴らし、歌い始めた。

 すると、意外なことに人々が足を止め始める。それに気をよくした鳴彦は、店主との約束も忘れて熱唱してしまう。

 曲が終わり、ほっとしていると拍手が鳴り響いた。

 観客からの拍手。そう言えば、今まで誰かの前で歌ったことはほとんどなかった。だから、これは初めての、観客からもらった拍手だった。

 思わず胸が熱くなる。そして、いつもはほとんど意味をなさない「良かったらお金を入れてください」という張り紙がついたギターケースを前に設置する。張り紙を読めるかどうかまでは自信がなかったが、ニアンスを汲み取ってもらえると思ったのだ。


「次の曲、いきます!」


 拍手が鳴る。

 鳴彦の初ライブは、唐突に幕を開けた。




     ◆




「ありがとうございました!」


 たくさんの拍手を前に、鳴彦は深々と頭を下げた。

 ひとり、ひとりギターケースにお金を投げ込みながら雑踏に戻っていく。

 鳴彦は達成感でいっぱいだった。

 はじめてのライブがうまくいった。

 たくさんの拍手、たくさんの賛辞の声、観客がわっと湧いて、興奮が渦巻いていく感覚。

 最高だった。どれもこれも、最高だった。

 人垣が崩れる。

 その割れた先に、フードを被った小柄な人物と、かなり大柄な人物がいた。

 人々がほとんどいなくなったのを見計らったように、小柄な人物がずんずんと鳴彦の前まで歩いてくる。


「ありがとうございました!」


 高揚の中にいる鳴彦は、沸き立つ心のまま目の前に歩いてきた小柄な人物にお礼を言う。



「あなたの歌……嫌いだわ」



 不意に、フードを被った小柄な人物が呟いた。

 その声色は、綺麗な湖面のような少女の声だった。


「演奏も雑、歌声は調子はずれ、リュートの音色も変、それに……」と少女は一瞬口ごもる。「……とにかく、私は嫌いよ」


 言うだけ言って、少女はくるりと体の向きを変え、雑踏へ向かって歩き始めた。


「ず、ずびばぜんね…」


 妙に鼻にかかったような低音の、しかし柔らかく温かな声音が聞こえたかと思うと、一緒にいた大柄な人物が頭を下げていた。そして、大柄な方も、少女の後を追って雑踏へ消えていく。

 鳴彦はその二人の背を呆然とただ見送った。

 高揚していた気分が、一気に沼地に落ちた。

 やっぱりヘタクソだったのか。上手くない自分は音楽なんか、人前で聞かせるべきじゃなかったのか。人前での演奏なんか、まだ早かったのか。

 沼地に足を取られ、ずぶずぶと沈んでいく感覚が内心を満たす。


「よっ、お疲れさん」


 不意に力強く肩を叩かれた。

 振り返ると、串屋の店主が満面の笑みで鳴彦を見ていた。


「お前さん、不思議な音楽を奏でるな」店主は上機嫌にガハハと笑った。「おかげで、坊主の曲を聴いていた客がガンガン串を買って行ったぞ! いやー、あんがとな!」


 言いながら、店主は串を数本鳴彦に押し付ける。


「これはお礼だ。食っといてくれ」

「え…………、ああ、どうも」


 ぼそぼそと礼を述べ、鳴彦は店主から串を受け取る。

 そして、ギターケースに投げ込まれている見たこともないお金を袋に集めると、ケースの中にギターをしまい、その場を立ち去った。

 歩きながら夕焼けの空を見た。

 そこには先ほどまであった高揚も興奮もなく、徐々に橙から藍色になる空のような心情だけが残されていた。



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