ゴミ箱
僕はベッドに横たわっている。見えるのは黄ばんだ天井と小さ照明の電球の窪みだった。顔を少しずらすと大きな窓の向こうに雨空としけた灰色の海が見えた。雨は降り続いて窓にも雨粒が当たるのを感じた。窓に掛けられているカーテンは沼のような深緑色で蔦のような模様が這っていた。ここからは見ることが出来ないがカーペットの色は赤と僅かな黒が混ざったような血液のような色をしていることを僕は知っている。そのカーペットも確か植物のような模様だった。ここは岬にある小さなホテルの一室だ。二週間前に僕はこのホテルのこの部屋を借りた。アルバイトで貯めたありったけのお金を下してフロントのホテルマンにこの金で滞在出来る限り滞在したいという旨を伝えると白髪の老いたホテルマンは黙って頷き僕にこの部屋の鍵を渡した。そして食事は1日二回朝と夕に一階のレストランで出ると言った。それから僕はエレベーターに乗り、一目散に廊下を歩いてこの301号室の扉を開けた。部屋の匂いはじとじととした湿気を含んだかびた香りがした。僕は天井を見つめてこれまであった出来事を思い出していた。僕は地方都市にある私立大学の学生だ。その大学は大きな学校だった。
僕が2年生になった時、僕は彼女に出会った。彼女は大学の構内を清掃する仕事をしていた。ある日僕が講義を受けていると斜向かいに座っていた女子学生が顔を真っ青にして突然もどしてしまった。教授はひどくうろたえていたが決して女子学生の体に触れようとしなかった。それは僕も含む周りの人間も同じだった。僕は鞄の中に手を入れ、ポリ袋とタオルに手を伸ばした。だが、その手を中々鞄から出すことが出来なかった。その時、講義室の扉が開き、清掃道具を持ち薄緑色の清掃員の制服を着た彼女が現れた。彼女はまっすぐ女子学生の元に近寄ると、これに、と言葉を掛けて黒いポリ袋を差出し、自分は手袋をはめると女子学生が床にもどしてしまったものを手際よく片付け、霧吹きで水のような液体を振りかけると去って行った。女子学生は隣に座っていた友人と共に保健室に行った。教授は安心した様子で講義を再開した。だが、僕の頭の中は先程の光景でいっぱいだった。講義室の扉を開けて現れた彼女はあの時正に救世主のような存在で後光さえ差していた錯覚さえ覚えた。そしてあの手際の良さを思い出した。彼女はマスクをしていたから正確な年齢は分からなかった。ただ、目元だけ見ると僕と年齢はそう変わらないように思えた。それから僕は2日間学内を歩き回って彼女の姿を探した。そして、大学の外れにある茂みの近くにあるベンチに彼女が座っていたのを見つけた。ちょうど4限目の講義が終わった夕時だったと覚えている。ストーカー男だと勘違いされる覚悟で僕は彼女に声を掛けた。すると彼女は本から顔を上げた。彼女は長い黒髪を後ろでひとつに束ねていた。そして2日前に見たよりもずっと小柄に思えた。僕は自分の名前を名乗った。彼女は掃除のおばさんに話しかけるなんて物好きね、と似合わない冗談を言って笑った。彼女はおばさんと呼ぶには随分若かった。それから僕は2日前の彼女の素早い対応に感謝を述べた。すると学内で誰かが嘔吐すると自分達が呼ばれるのだと話した。そして、その清掃方法も講習を受けていて心得ていると話した。彼女の様子は誰かがもどしてしまうことを迷惑に思っているそぶりが全くなかった。そして、それが自分達の当然の職務のように話した。そしてあの霧吹きは次亜塩素酸というウイルスを殺菌する消毒液だと説明した。彼女の本のカバーの裏には大学図書館のバーコードが付いていた。僕がそのことを尋ねると彼女は大学の図書館で本を借りさせてもらっていると話した。その日から大学で彼女を見つけるとあいさつをするようになった。マスクを付けた彼女は控えめにあいまいな笑みを浮かべ、挨拶を返した。そして、その2か月後に彼女は大学から姿を消した。僕は歩き回り、彼女の姿を探した。僕の友人はそんな僕の行動を不可思議に思っただろう。大学の階段の踊り場にも、講義室にも、そしてあのベンチにも彼女の姿を見つけることはできなかった。彼女一人がいなくなっても誰も気に留めることは無いように思えた。ただ、僕は彼女がいなくなったことでまるで視野の一部がえぐりとられたような気分になっていた。
僕はある日大学の廊下に置いてあった大きなゴミ箱の蓋を開けた。僕はその中で彼女が膝を抱えて座っているという錯覚に襲われたのだった。そのゴミ箱は小柄な彼女が身を隠すには十分な空間があった。しかし、当然そこにはごみと夏の熱で腐ったにおいが漂っているだけだった。その時、僕の姿を見つけた友人は得体の知れない物体を見るような眼差しで僕を見ていた。その時、僕は自分の今の状態があまり正常でないと深く自覚した。それから気持ちの整理が付かなくなった僕は旅行をしようと企ててこの岬のホテルまでやってきた。それは旅行というよりも現実逃避をしたいという僕の弱さに他ならなかった。ベッドの白い布団の感触はやわらかい。その心地の良さに僕は甘やかされて2週間経った。外は雨が降り続いている。僕はなぜあの時常軌を逸した行動を取ったのだろう。彼女に対する感情は恋だったのか好奇心だったのか、それとも別の感情なのか。それは自分でも上手に説明することはできない。ただ、僕は彼女に関心を持っていた。躊躇なく女子学生がもどしたものを片付ける彼女の姿に惹かれていた。彼女とあいさつをしたときに、心のどこかでそれ以上のことを尋ねようかと躊躇していた。どこに住んでいるのか、名前は何というのか。もう一歩踏み込めば今度一緒に食事をしないか、とか。僕はその機会を自分で逸した。もう僕に彼女を見つけることはできないだろう。それは僕が臆病だったせいだ。町中のゴミ箱を開けても彼女はどこにもいない。ベッドから立ち上がり、窓の外を見た。このホテルの周辺は砂浜になっているようだ。僕は窓を開けた。塩気の含んだべたついた風が吹く。そろそろこのホテルから出てアパートに帰ろう。自然とそう思えた。