以津真天 上
華のお江戸の江戸端会議。井戸水を汲む女たちが、たわいもない小話や噂話に興じる刻である。女はどうしてか、男より良くできているらしく、忍の白や風天丸ですら知らぬ情報や、辰子のもとにすら入っておらぬ噂話を平然と話してのけるから驚きだ。
その中でもひときわ、女たちに楽しみにされているのが、お扇の友人のスズであった。皆からは“千里聴の鈴”とひそかに呼ばれ、その噂話はピンキリあるが、どれも楽しく、面白い。その日もお扇は、長屋の皆と水を汲みながら、その友人が来る姿を心のどこかで待っていた。
「それにしても、お扇さんも大変ねぇ。あの狭い長屋に男二人と暮らしてるんだろう?」
そう言って野菜をせっせと洗うのは、風天丸達の隣の長屋に住むおヨネ。今年で三十になるが、夫婦仲が良いせいか、五歳は若く見える。また、実家が農家なだけあって、野菜を洗うのもどこか手慣れている。
お扇は着物を洗いながら「そんなことありませんよ」と手を動かす。
「お二人とも良く働いてくれますし、毎日が賑やかですから」
「いいねぇ、アタシもあの人と会ったころにゃ、同じように毎日が楽しかったもんさ。……今もだけどね」
その言葉に嘘偽りはないことは、おヨネの目を見れば了然である。
初夏とはいえ明け方はまだ涼しく、稀に頬をなでる風が心地よい。風天丸と白の着物も洗い終え、最後に残った自分の着物に手を掛けるとき、待ちに待った声が耳に届いた。
「お、皆さんやってますねェ。ちょいと私も混ぜてくださいなっと」
「千里聴の鈴」の登場だ。待ってましたと言わんばかりに数名が掛けより、人より小柄なその体を取り囲む。
「やあ、楽しみがやって来たねぇ」
おヨネは洗い終わった野菜を笊に置き、お扇を連れてその数名の仲間に入った。
「で、で、どうなんだいおスズちゃん! こないだ聞いた、浮気した兵吉はどうなったんだい?」
「なんでも、奥様が近所の女を集めて襲撃したそうですよ! それも二十人! 夫さん、ぼっこぼこにやられて奥様に土下座させられてましたねェ」
「あーあー……まぁしょうがないね、浮気した兵吉のやつが悪いのさ。……それにしても、あそこは本当に恐妻家だねぇ……」
ヨネはそれを聞くと「そのうちこの子ンとこもそうなるかもしれないよ」とお扇の方に目を向けた。お扇は顔を真っ赤にして手を振り、すぐにでも飛んで帰りたいような気分になった。
「わ、私と白さんはそう言うんじゃなくてその……父さんと仲が良いから……」
「あれあれ、まだ何も言ってないのにねぇ。ふふふ」
するとスズは“友人のため”と指をパチンと鳴らすと、お扇の肩を強くつかんだ。
「なんなら、うちの瓦版で広めてあげましょうか! “長屋のお熱い恋愛事情”とか、これは売れますよ!」
「スズちゃんッ!」
一しきりお扇を皆でからかうと、スズは「あ、そうでしたそうでした」と再び噂話を話す目になった。
「うちの先輩の兄さんが仕入れたんですけどね? どうも最近、この近辺で妙な者を見かけるんですって!」
お扇も含めた皆の興味が一気にスズに向けられる。スズは声を小さくして「実は……」とその噂話を話し出した。
○
「……今日も閑古鳥が鳴いてんな」
「ツバメなら、玄関のところに巣を作ってたけどね」
風天丸と朔の愚痴は曲線を描く矢のように、厨房の水之介に突き刺さる。無意識に胸を押さえこむ水之介の隣で、牙助は笑いをこらえているようだ。
「へ、へんッ 腕は落ちてねえんだから、問題はねえってんだ」
「客が来ないから、その腕も草むしりに費やされてんだけどな」
「うるさいってんだッ いいからさっさと仕事しやがれッ!!」
水之介は怒鳴ったが、その“仕事”がないから二人がのんびり話していることを思い出し、ボロボロの床板を踏み抜きたい気分を押さえこんだ。
「でも、確かにお客さんが来ないのは困ったわねぇ。魚が食べられなくなっちゃうわ」
「牙助さんは、よくまぁ毎日魚ばっかり食っていけるねぇ。米や野菜も食ってんのかい?」
「米なんて食べられないわよ、良いとこでお豆ぐらいかしら」
牙助は吸血鬼故、「魚の血以外は豆ぐらいだ」という意味で言ったのだが、水之介には「てめぇの風天丸への給料がすくねえから、魚以外は豆しか食えねえんだよ」という意味で聞こえた。水之介はさらに顔を青くしてうなだれた。
二人揃って水之介に皮肉をぶつける風天丸と朔だったが、ああまでしてへこまれるとこちらとしても多少の罪悪感が胸に湧いてくる。二人は「客寄せでもしてくるよ」と肩を並べてのれんをくぐり、江戸の町へ足を踏み出した。
「俺達忍がいるってのに、なんだか情けないな」
「でも、下手に目立つと私達が忍ってこともばれるんじゃない?」
「だからってこのままだと、俺達の生活だって火の車だぜ」
二人揃って同じように腕を組み、同じように「ううん」と声を上げて歩いていると、ふと、風天丸の顔に顔ほどもある紙がべったりとくっついた。いつものことながら「依頼か!?」とその紙を取る風天丸。隣に朔がいるのにというのに、やってくれたな、と辰子と陸奥を恨みながら紙を見たが、そこには“依頼”の二文字ではなく、もっと細々とした文字が敷き詰められていた。それと同時に、向こうの方でその紙をばらまく元気な女の声もする。
「へーい、瓦版だよー。『お江戸の町に落ち武者出現、大坂の陣の兵士か!?』、真相は、瓦版を見てちょうだいなー」
「待ち中でうるさいヤツだなぁ……あれ、アイツどこかで見た気がするぞ?」
首をひねる風天丸に、朔はあきれた様子で「あのねぇ」と瓦版を拾い上げ、その鼻先に突きつけた。
すると思わず風天丸は「いっ!?」と声を上げてのけぞった。突然目の前に落ち武者の顔が現れたのだ。妖怪を見慣れている風天丸でも、これは驚くにきまっている。それを見て朔は少し笑いをこらえ、咳払いをして話を続けた。
「ほら、あそこで瓦版を投げてるのがスズさんよ。この絵を描いたのもあの人なの」
「へぇ……子供のくせに良く働くなぁ」
「違うわよ、ああ見えてもスズさんはお扇さんと同い年なのよ?」
風天丸は驚いて再びスズの姿を見る。が、どう見ても自分たちと同じか、一歳違い程度にしか見えない。するとその時、後ろから耳と同じ高さで声がした。
「ちょっと君達、内緒話は瓦版屋から千里は離れてやってください!」
「うぇッ 聞いてたのかよ。人の話を盗み聞きしやがって……」
「それが、私達瓦版屋の仕事ですからね。こっちのお嬢ちゃんは可愛らしいのに、最近の男の子は生意気なもんです」
喉まで出かかった「お前も同じようなもんだろ」という言葉を押さえつけた風天丸は、興味がないように朔から瓦版を手に取ると、改めてそれを読んだ。
『江戸の町を夜な夜な徘徊する落ち武者。見かけたら斬りつけられるという。大坂の陣で戦死した侍だろうか。身長は高く、顔は青白い。見た目は若い』
「ふぅん、どうにも信じられねえなぁ」
皮肉のつもりで言った風天丸だが、スズは予想に反して首を縦に振り「ですよねぇ」とため息をついた。
「“千里聴の鈴”なんて呼ばれてますけど、この目で見たわけではないですし……いまいち信憑性に欠けるネタが多いんですよ、私の書く瓦版」
つい口から「自覚はあったのか」とこぼした風天丸の耳をすかさず朔がつねり、風天丸は赤くなった耳を押さえて腰をかがめる。朔はそれをさとられまいと風天丸の前に出た。
「まあ、それは大変ですね。私達にも何か、お手伝いできるようなことはありませんか?」
「お手伝いですか……それじゃあ、落ち武者の霊を連れて来てもらえませんかね? 対談すれば、それこそ瓦版が飛ぶように売れるはずです! ……まったく、ウチの兄さんは変な噂ばっかり聞きいれてくるから……」
「お、落ち武者の霊をですか……? フウ、私仕事あるから、戻っておくわね」
逃げるように去っていく朔を恨めしそうに睨み、自分も続こうとした風天丸だったが、当然スズに肩を掴まれた。
「そいじゃ、お願いいたします! お礼はキッチリお支払いしますね!」
その威圧には、うなずくほかなかった。
本来ならば二部作のつもりだったんですが……文字が多すぎになりそうなので三部作にしました。