血吸鬼 弐
風天丸は、妙な気配に気がついた。何者かが、こちらを見ている。
そう感じた風天丸は、握られた包丁の右手に力を込めた。……が、その正体に気付くと、鼻でいきをつき、再び魚をさばき始める。
「フウ。フウったら、あんたまだ二匹ぐらいしかさばけてないじゃないの」
隣で十匹ほどの魚をさばく髪の短い少女は、風天丸と同じ目の高さながら、足元に天まで届く塔でもあるかのように上から目線で「全く、遅いわね」とため息をつく。
「ふん、これが普通だっての。お前ぐらい忍として腕が立ってたら、俺だってそのくらい余裕だったさ、朔」
朔は「それはどうかしらね」と風天丸を冷たくあしらい、次々に魚を三枚におろしていく。が、突如その手を止め、風天丸の襟首をつかみ、風天丸の耳に自分の口をグイッと近づけた。
「……殺気を感じるわ。一人、誰か見てるわよ」
その正体を知っている風天丸は、「様子を見てくる」と、嘘がつけぬ舌で言い残し、自分たちが働いている姿を覗いている者の元へ行った。
二人が働いているのは、”南雲亭”。先代の店主、孫郎の代で一時繁盛はしたものの、彼が亡くなり二代目の店主、水之介がそれを継いでからは、どうにも上手くいっていない、小さな定食屋だ。
とはいっても、その原因は水之介ばかりでなく、先代にも責任がある。庭園が好きだった孫郎は、あまり金もないというのに「客が来るだろう」と大層な庭園を、小さな庭にこしらえたのだ。その庭園はそれは見事で、コケとモミジ、そして流れる清流が美しく配置されている、はずだ。今では雑草が生え、清流の流れは止まってしまい、澱みとなっている。風天丸は、そんな南雲亭の庭園の隅っこで、ひっそりと朽ちている石灯篭い目をやった。店に寄り添うようにして建てられた灯篭の上に、一生懸命、店の中を覗こうと背伸びをする赤い着物が見える。朔も感じた殺気の正体だ。
「……おぼろ、何でこんなところにいるんだ、長屋で待ってろって言っただろう」
「あッ 風天丸様です!」
おぼろはそう言うと、ピョンと石灯篭の上から飛び降りた。そして、さきほど朔が風天丸にしたように、風天丸の襟首をグイと引き、耳に顔を近づけた。
「事件で御座います! また”血吸鬼”が出たのでございます!」
血吸鬼。近頃、江戸の深川を騒がせている人殺しのことだ。最初に事件が起こったのは、まだ暑い夏の夜。ホタルが飛び交う柳の木の下で、男が一人、死んでいた。妙なのはその死に方で、血を全て抜き取られ、骨と皮だけの無残な死体となっていた。その日から、三日に一度は誰かが同じ死に方をしている。
江戸の住民は勿論、その知らせに驚いた。瓦版なんぞも作られ、それは、忍のくせに情報にはうとい風天丸ですら知っているほどだ。
それが、再び出たというのだ。
おぼろはこれが、妖怪の仕業であると言いたいらしい。が、風天丸は跳びはねるおぼろの頭を押さえ、言った。
「聞いた事ねえよ、血だけ抜き取る妖怪なんて。こりゃ俗に言う「変態」じゃないのか?」
「むうッ 風天丸様は、これが人がやったものなら、許せるというのでございますかッ」
「そ、そりゃ許せねえけどよ……」
その言葉を待っていたかのように、おぼろは風天丸の袖を掴んだ。
「ならば行きましょう! 事件は待ってくれないのです!」
「おぼろ、どこでそんな粋なセリフを覚えて来るんだよ……」
おぼろはぐいぐいと風天丸の袖を引き、連れて行こうとする。背中に背負った青柳と赤鬼も無理やり連れてこられたのか、朧の背中にきつく縛りあげられていた。
「嫌だよう……。今日は舞踊を見に行きたいんだよぅ……。赤鬼もそうでしょ……?」
「知ルかッ 舞踊なンぞニ興味は無イッ つイでニ人間が死ヌ事も、興味ハ無いッ」
無理に連れてこられた二人、いや二本の刀に、風天丸が不覚にも同情した時、自分がまだ仕事中であったことを思い出し、風天丸はおぼろの手を振り払った。
「悪い。俺はまだ仕事中だからな……。で、お前はさっさと見つからないように長屋に帰んな。妖怪退治なら、依頼が来さえすれば連れて行ってやるからさ」
風天丸はそう言うと、忍の速さで店の中へ戻って行ってしまった。おぼろはしょんぼりとして「お忙しいのですか……」と足元の石を紅い下駄で蹴飛ばした。
風天丸が店に戻ると、すっかり魚をさばき終えた朔が前掛けをたたんでいた。
「ちょっと、遅かったじゃない。結局、あの妙な殺気は何だったのよ」
「あ、えっと……。いや、気のせいだったんじゃないか?」
「里で一番弱いフウの「気のせい」なんて、信用できないわ」
風天丸はバツが悪そうに皿を洗いはじめた。小さな店なら、いっそ来なくてもいいというのに、物好きな客もくるものだ。だが、もし本当に客が来なくなれば、風天丸と朔は職を失ってしまうため、我慢して皿に力を込めて布をこすりつけた。朔はまだ、先ほどの殺気が気にかかるようだ。
殺気の正体はおぼろだが、なにも風天丸や朔を殺そうとしていたのではない。いうなれば先ほどのものは「殺気」ではなく「妖気」。妖怪が、無意識に発してしまうものだ。おぼろの妖気は、妖怪になる前に色々あったのか、そこらの妖怪より一段と強い。それゆえ、朔は刺客か何かと勘違いしたのだ。
おぼろは見た目こそ、可愛らしい十歳ほどの娘にしか見えないが、立派な妖怪だ。そのため、朔にに会わせるわけにはいかないのだ。
此の八方ふさがりな問題に直面し、ため息をついていると、少ない客足が途絶えたのか、前掛けをした若店主、水之介が顔を出した。
「ふぅ、全く疲れるったらありゃしねェ。ここは人不足ってやつだ」
今のところ、働いているのは、水之介と風天丸、そして朔の三人だけというありさまである。水之介はよほど困っているのか、二人の方を、うつむきながら掴み、言う。
「二人とも、誰か良い人を連れて来てくれねえか。そうすれば、もっとましな料理ができるだろうさ」
「そんなこと言ったって、その人に払えるお金なんてあるの?」
水之介は黙りこむ。客足もあまりよくない南雲亭では、この上さらに人を雇うほどの余裕はない。風天丸だって、一人で生活していけるほどの金はもらっていない。共に長屋で暮らす師匠、白と、その部屋の持ち主であるお扇に助けてもらって、なんとか生きていけているのだ。風天丸は「自分たちに言われても困る」と、水之介の光のない目を見た。
「水之介さんがいい人と結ばれれば、少しは楽になるんじゃねえか? 金持ちの娘さんと結ばれなよ」
風天丸はそう言うが、水之介は女に人気があるわけではない。というのも、毎日が忙しいため、店から出ることができないのだ。そのうえ買い出しなどは全て朔が行っているため、その顔や、名前すら知らない人が多い。名も知らぬ男に、女が寄ってくることなどあるだろうか。
水之介は「どうしたもんかなァ……」と、座敷で石のように固まっている。すると、水之介と朔、二人の目が離れたすきに、風天丸の頭上に、一枚の小さな紙が舞い降りた。顔にひっついた紙をはがし、その内容をみると、小さな字で「依頼」と書かれている。風天丸はそれを見ると、抑えられないにやけ顔を必死にこらえながら、二人に向かって「ちょっと散歩に行ってくる」と走ってのれんをくぐってしまった。
「ちょ、ちょっとフウッ 仕事はどうするのよッ!」
「どうせ客なんか来ないんだから、同じだって!」
小さくなっていく風天丸の声を聞き、水之介はますます石のように固まってしまった。
風天丸が向かった先は、民家の裏。
陽光も当たらぬ影でできた道を、並べられた石畳がひんやりと冷やす。そして、その先に、風天丸の目的地がある。壁にトカゲが張り付いており、風天丸に気付くと、その隙間から逃げ、そしてそれと同時に、紅色ののれんが見えてくる。昼間だと言うのにともされた提灯は、風天丸が歩みを寄せると「いらっしゃい」と言うように、中で火を揺らめかせた。古ぼけた看板で「火」と書かれたその店に入ると、中は完全に真っ暗で、昼間とは思えぬほどだ。
だが風天丸は億さずに進み、そのまま、座敷の上に正座する。
「八影の風天丸が来たぞ、女将」
風天丸がそう言うと、闇で見えなかった眼前に、ロウソクの灯りがともされる。そして、その一歩向こうでは、着物を着崩した、女郎のような格好の女が、キセルに口を着けて風天丸を眺めていた。
「来たみたいだねぇ、風ちゃん。さすが、ウチの看板娘は仕事が早い」
その言葉に、その後ろに座る桃色の着物を着た少女が静かに礼をした。室内だと言うのに、その手には朱色の傘が握られている。
風天丸はキセルを持つ女に、目を光らせて近づいた。
「それじゃ、昨日の依頼の報酬をおくれよ! たしか、米が貰えるんだったよな!?」
女は風天丸に向かって「ふふ、そうだねぇ」と笑うと、後ろに置いておいた米を風天丸に手渡した。そのあまりの少なさに、風天丸は思わず「は」と声を漏らしてしまい、そして「してやられたッ」と言う顔で女を睨みつけた。
「辰子さんッ 俺は米俵が貰えるって聞いてたぞッ!」
「ああ、確かに貰ったさ。でも風ちゃんにあげられるのは、そのくらいかね」
「どケチにもほどがあるだろッ どうやったら米俵が、升一杯になるんだよッ!!」
「そりゃ、聞いてた話より簡単な依頼だったから、その分減らせてもらっただけさ」
風天丸はギクリと背筋を伸ばし、それと同時に、辰子の後ろですまし顔を構える少女を睨みつけた。
「やい、陸奥ッ てめえ、またジロジロ俺の様子を見てやがったなッ!?」
陸奥は風天丸の言葉に耳を傾けず立ち上がると、音も立てずに店の奥の闇に溶けて行く。辰子は愉快そうに笑うと、煙をふぅと吐きだした。
「全く、”鬼の大群”のはずが”餓鬼の群”じゃねェ。当然の減給さ。しかも、手傷を負ったらしいじゃないか、それも原点の対象だねェ」
「ぐ……そ、それなら辰子さんがいけばいいじゃねえか。陸奥がいるだろ?」
「やなこったい、あたし達には、”火島屋”をやっていく義務ってのがあるからねェ」
「どうせ繁盛してないだろ」と喉から出かかった言葉だが、風天丸はそれを押しとどめた。だが、南雲亭と同じく、閑古鳥が鳴いている火島屋だが、辰子も陸奥も、それほど気にしているわけではない。それは当然、口入れ屋の方が収入が良いからだ。
酒屋は言わば隠れ蓑。近ごろは「口入れ屋は人さらい」なんて言われるため、それを隠すために人通りの少ない通りに店を構え、さらに先代から店を受け継ぎ、いまのカタチとなった。
すると、風天丸に次ぎ、小汚い男が入ってきた。何日も風呂に入れていないのか、髪はべた付き、無造作にひげが生えている。男はのしのしと大股で歩いてくると「邪魔だ」と言わんばかりに風天丸を押しのけ、辰子の前にドスンと腰かけた。
「常陸の次郎兵衛でござる。仕事を、いただきたい」
頭を下げる次郎兵衛に笑みを向けると、辰子は右手を、虚空にかざした。すると、何時の間にやら店の奥から書類を持ち出して来た陸奥が、その右手に一枚の紙をそっと置いた。
「はいよ、これで手を打とうじゃないかィ。いつも通り、報酬の四割はあたしらに回しとくれよ」
次郎兵衛は「ありがたい」とその書類を受け取ると、自分をジットリと睨みながら鼻をつまむ風天丸を睨みつけ、そのまま店を出て行った。風天丸の口から、止めていた息が一気に吐き出される。
「はぁ……なんだよ、あの汚いおっさんでも六割は貰ってるのに、俺は升一杯分なんてッ」
「人間の依頼は嘘がないだろう。でも妖怪の依頼は、話が膨らんぢまうからねェ、当然の話さ」
むくれる風天丸を見かねたのか、陸奥は辰子の肩を叩き、朱色で”風”の判がおされた紙を持ってきた。その判の意味は「風天丸専用」つまり、妖怪関連のお仕事だ。
辰子はそれを見ると、思い出したように「あぁ、あぁ」とうなずく。
「風ちゃん、この依頼を頼まれてくれないかねェ。結構な収入だよ」
「フンッ どうせまた馬鹿みたいに膨らんだネタを持ってくるってんだろう?」
辰子が「それはどうかねェ……」と笑うと、陸奥はその紙を持ち、風天丸の眼前につきつけた。近すぎて見えぬため、風天丸はその紙を受け取り、改めてその紙に書かれた内容を目の当たりにする。
「……血吸鬼……? って、最近話題の、生き血をすするっていう奴か?」
陸奥は静かにうなずくと、その細い唇を静かに開いた。
「丁度いいでしょ……。人形の子、行きたがってた……」
「お前どこで見てんだよ、まさか……俺の行動も全部把握してるんじゃないだろうな!?」
辰子はその言葉に対し「今更だよ、何時でも収集できるように、知り合ってすぐに把握してるさ」とキセルの灰を受け皿に落とす。赤みを帯びたその粉たちは、徐々に黒ずみ、ぼろりと崩れた。
「なんにしても、妖怪退治は風ちゃんの十八番。役所も妖怪までは手が回るまいし、頼まれてくれないかねェ」
「けっ どうせ報酬なんて、これっぽっちも貰えないんだろ。また偽者にきまってるからな」
「本物だったら、十両貰えるそうだよ」
それを聞き、風天丸と陸奥の目が大きく見開かれ、そしてキンキラと輝き始めた。
「女将……本当?」
「ああ、本当さ。名前は出せないけど、依頼主が結構なあきんどでねェ。自分の店のすぐ近くで血吸鬼が出るもんだから、客が寄り付かなくなっちまったんだとさ。「奴がいなくなるなら、十両は払います」って、酒を片手に頭下げてたよ」
本当に十両貰えるとしたら、下手すると妖怪達専用で小さな屋敷ていどなら建てることができる。そうなれば、風天丸からしても楽なことこの上ない。それに、いつも「新しい着物を買ってください」と煩いおぼろの口を閉ざすこともできるだろう。
「乗ったッ さっそく今夜、血吸鬼を退治しに行ってくる!」
風天丸はそう言うと、紙をぐしゃりと握りしめ、妖怪や白への報告のため風のような速さで火島屋を後にした。
残った辰子はキセルを置き、頬杖をついて風になびくのれんを通し、見えなくなった背中を見つめる。
「全く元気なもんだねェ。陸奥、下手に風ちゃんが危なくなった時にゃ、あんたも加勢してやんなよ」
が、陸奥からは何の返事もない。不審に思って振り向くと、陸奥はいつもの鉄面皮から一変、口元を緩め、にやにやと笑いながら虚空を眺めていた。
「十両……お金……えへへ……」
辰子は酒や料理を運ぶ黒い盆を持ち出すと、陸奥の後頭部に一撃を見舞った。