鬼一口 上
雨とは往々にして、人の心を不安気にするものだ。雨粒により体が冷え切ってしまうからなのか、はたまた雨音によって周りの雑音から隔離され、孤独を実感するからか。
しかし、そんなものは傍にもうひとりがいれば、なんとでもなる。
丁度雨に埋め尽くされた道を行く風天丸と陸奥のように。
「夏の雨ほど、嫌なモンはねえな。じめじめしてるったらありゃしない」
風天丸はそう言うが、彼女は凛として首を振った。
「雨は好き。この子とお出かけできるから」
陸奥はそう言うと、自分が持つ朱色の傘をくるりと回して見せた。風天丸は「じゃまくせえだろ、そんなの」と自身の菅笠をつまみあげる。陸奥は「知ってるくせに」と傘の柄を握り締めた。
「それにしても、このご時世に公家の野郎が妖怪退治か。俺らを大道芸人とでも思って、余興の一つとして呼ばれてるんじゃないだろうな」
「わざわざ高額なお金払ってまでして、そんなことしない」
「そりゃそうだ。でだ、ものは相談だが、今日は俺が戦えねえ」
風天丸はくるりと背後を見る。当然そこには誰もおらず、雨がさあさあとぬかるみに降っているだけだ。だが今回はそれが問題だった。今日の日に限って朧がいないのだ。
「女将のやつ「朧ちゃんはお留守番」だってよ。相変わらず無茶言うよな」
陸奥は風天丸の言葉に答えない。いつものことだ。
「こりゃ、妖怪退治やらなんやら全部お前に任せる気だぜ。俺は土産の荷物持ちってとこか?」
「土産を買うような距離じゃない。きっと囮役」
「ちぇッ 相変わらず冗談の通じないやつ……」
陸奥は小さく「最近は文句を言わないから助かる」と零した。
普段から「大袈裟な話じゃないだろうな」「嘘じゃないだろうな」と疑り深い風天丸だが、近ごろはその口からもそんな屁理屈を言わなくなっていた。というのも、最近は妙に辰子の目がきくようで、ハズレくじを引くことが一切なくなっていたからだ。
こうなれば調子も良く、金周りもすこぶる良くなってきたため、朧には日ごろの礼に着物を買ってやったのだが、これが失敗だった。
いつもの朧なら辰子に「留守番だ」と言われたところで、それを断って風天丸について来ただろうが、着物が汚れるのがよほど嫌だったようで、いつまでたっても腕を組んで唸り声を上げるため、勝手に置いて来てしまったのだった。
「朧、今頃寂しがって泣いてんじゃねえのかなぁ……」
「そこまで飼いならした気でいるの? 浅はか」
「なんだよ、あいつがそのうち、俺の寝首を掻くって?」
「置き去りにしてるとどこかに行くかもしれない。小さいから」
「そりゃ、寝首を掻かれるより厄介だな」
しばらく歩くと見えてきたのは大きな屋敷。見張りは二人を見つけるなり「お待ちしており申した」と門の中へと引き入れる。
門をくぐると、すぐに公家装束に身を包んだやせ形の若い男が、安堵と喜びの両方の表情を浮かべて走り寄ってきた。
「いやあ、よう来られた、よう来られた! そちらが、あの酒屋の女が申しておった二人じゃな!?」
「おう。俺が風天丸、こっちの傘持ったのが陸奥だ」
男は「そうか、そうか」とうなずくと、早速二人を屋敷へ招き入れる。
松の葉から雨粒が落ちる。その向こうで、二人は並んで若い男と向き合っていた。
「申し遅れたの。まろは業麻呂、梨本業麻呂である」
「へえ、いかにも公家っぽいや。で、業麻呂さんよ、ぼったくりみたいな金払ったからには、それなりの依頼なんだろ? どんな妖怪が出たんだい?」
風天丸がその話を持ち出すと、とたんに業麻呂の顔が凍りつき、ガタガタと振るい始めた。
「お、おお、おそ、おそそ、恐ろしい魔物が出たのじゃ……!!」
あまりの恐れ様に、風天丸の顔が無意識のうちににやける。やりがいのある仕事に違いない。
業麻呂が話すには、それは数日前の出来事だった。
業麻呂には数年つれそった恋人がいた。その恋人と祝言をあげるか、あげないかの話で相手側の身内と揉めたのだ。
いてもたってもいられず、二人は駆け落ちした。
「素敵」
「感情こもってねえぞ、陸奥……」
しかし、駆け落ちした二人だが、そこで悲劇が起こる。行くあてもなく、朽ち果てたあばら屋に寝泊まりしていた時、ふと業麻呂が外に出て戻ってくると、恋人の姿が跡形もなく消えていたのだ。
業麻呂はすべてを話し終わると、話し始める前より一層顔を青くして震えている。
「き、きっと化け物に食われてしまったのじゃ……!!」
風天丸はぽかんと口をあける。まさかこんな依頼だとは、思いもしなかった。
一通り話を済ませ、風天丸と陸奥は話された山へ向かって、雨の中を行く。
「……おい、帰ろうぜ陸奥、くだらねえ。あの兄ちゃんが女に逃げられただけだ」
風天丸は業麻呂を置いて帰ろうと勧めたが、陸奥は枝に一人残された郭公のように、小さく「違う」とつぶやくばかり。
「違わねえよ。第一、あの顔からして逃げられそうな顔じゃねえか」
「違う。その女の人が本当にあの人を嫌ってるのなら、駆け落ちについて行く意味がない。すくなくとも道中に何かあった」
「知らねえよ、どのみち妖怪なんざ関係ねえ。帰ろうぜ、本当に」
「でもここで帰ると女将に怒られる」
「それもそうだな……」
風天丸は仕方なく、隣を歩く陸奥に合わせながら、菅笠のずれを直した。
雨は、まだやみそうに無い。