第一章《動き出した物語(セカイ)》 3
そこは、およそ活気というものとは縁遠い不可思議な石造りの神殿だった。それが当然であるかのように人気はなく、神殿であるにもかかわらず神々しい厳かさは微塵もない。
そんな神殿の中、彼の者は幻想的な明かりに照らされた回廊を一人歩き、質素な扉をくぐると部屋の中を見渡して軽い吐息を吐いた。
「やはり、ここはどこか寂しいですね……」
独り呟くと、ひとつの役割を終えて〝帰還〟した彼の者は再びふっと吐息を漏らし、何冊もの本が整然と並べ置かれている席へと腰を下ろした。
そのまま机の上に広げられた数冊の本の内容を確認すると、それらを机の上に備えられた棚へと戻していく。これまで何千、何万と繰り返されてきたこの行為の意味を知る者は今では自分ともう一人しかいない。
と、埒もない考え事をしていると、どこからか石畳を叩く足音が聞こえてきた。
「――戻ったか。今回の〝彼〟はどうだった?」
足音が止むと同時に響いてきたその声に、自分が帰還したということを強く感じながら応対する。
「……やはり、今までの〝彼ら〟とはあらゆる点において違います。これが吉と出るか凶と出るかは、まだなんとも言えませんが」
投げかけられた問いに丁寧に答えながら、彼の者は声の主――自分に性別以外の全てを酷似させた男性へと振り返った。
やや淡い水色の髪と昏い色を秘めた黄金の瞳が白磁の肌の上に飾られるその様は、まるで鏡を見ているような錯覚を与えてくる。
自分に与えられた名は彼の者。そして眼前の男の名には彼ノ者。
自分たちを創った存在は本当に無精者であると思う。
「しかし、珍しいですね。あなたが〝彼〟のことを気に掛けるなんて、いつ以来でしょうか?」
「それならば、今回で100巡ぶりということになる。まぁ、今回の〝彼〟――朝凪勇輝はこれまでの〝彼ら〟とは根底から異なるからな。期待もしてしまうさ」
その若々しい外見に反して、まるで老人のように呟いた彼ノ者の言葉に、彼の者は深く同意した。
「ええ。ですが、恐らく今回の舞台こそ、全ての分岐が集うオリジナルの世界です。ならば今回の〝彼〟が私たちの解放者たりえるのも限りなく高い確率のはずです」
「だが、〝彼〟が本当の意味でラティス・マグナとなるとは限らない。それでありながら今回を逃せば恐らく私たちの呪いは二度と解けないだろう。そういう意味では〝彼〟には実力以上の働きを期待せざるを得ないな」
表情を微塵も動かさずに応じた彼ノ者は、「まだやることがある」と言って部屋から出て行ったが、その去り際に「そう、彼のように」と呟いたのを彼の者は聞き逃さなかった。
彼の者は部屋に備え付けられた窓を開けると、そこから覗く形のない月を眺めながら溜息を吐いた。
「彼はもういないというのに、あなたはいつまで囚われているのですか。〝――〟」
今では互いしか知らない彼のもう一つの名前はどのような魔法か音になることはなく、こぼれ落ちた吐息だけが虚空から吹いた風に吹かれて消えていった。