第一章《動き出した物語(セカイ)》 2
――――。
「――っ!?」
勇輝の宣言と同時に、その声なき声は突然語りかけてきた。
声の方へと視線を向ける。視界に広がるのはただ広い泉だけだ。しかし、先程までとは違うものがそこにあった。
水底に光る足場。もとより足場はあったのだろうが、淡く輝くことで〝自分を呼ぶ何か〟に通じる道として自分を導いているように感じる。
「……? どうしたんですか? 泉の中に何か?」
こちらを警戒するような怪物から目を逸らさずに、少女が問いかけてくる。気が付いていないのだろうか?
「……もう少し、走ることになりそうだ。足、痛いかもしれないけど少し我慢してくれ」
「え?」
今の体力では少女を背負って逃げることもできそうにない。小声で少女に呼びかけて、機を窺う。
こんな怪物を引き離すことは難しい。まして、倒すことなどできないだろう。
故に、先程の声に込められた意思を信じる。
あの声なき声に、この状況を切り返すことが可能であるという意思を感じた。そんな不明瞭な確信を――自分の感覚を信じてみる。
《GUUU……》
そして、怪物が動き出し――
――――。
「――っ!」
「きゃぁっ!」
その呼び声を聞いた瞬間に、体が動いた。少女の手を掴んで、なけなしの体力を全て使い切るように光の標の先、泉の中央部へ走り出す。
《GAAAAAAAAAA!》
ただひたすらに、〝それ〟の元へと走る。しかし、追ってくる怪物の速度は侮れない。このままでは追いつかれてしまう!
「なぁっ? さっき言ってた、奏術とかいうやつで、あの怪物の足止めできないか?」
「え? あ、はい! ほんの少しだけなら……」
勇輝が自分について来ている少女に声をかけると、少女は小さく肯き、何事かを呟いた。
すると、背後から透き通るような音の旋律が聞こえ、一瞬だけ強い発光が起こった。その直後に響く怪物の悲鳴。
視線を進行方向だけに向けていた勇輝には何が起こったのかはわからなかったが、これで時間を稼ぐことができるということだけは瞬時に理解した。
「今のが、奏術? どういうものかはわからないけど、これでしばらくは足止めできるんだよな?」
「はい、とりあえずは。それより、一体どうしたんですか? そっちに何が……っ!?」
背後からは少女がなにかに気が付いたように息を飲む気配。どうやら、彼女は〝それ〟が何なのか知っているようだ。
「駄目ですよ! そこにあるのは、人が触れてはいけないものなんです! それは……」
警告するように上げられる声は焦燥に染まっていた。恐らくこの道の先にある〝それ〟は自分の感じている可能性とは裏腹に危険らしい。少女の必死の声がその事実を何より雄弁に伝えている。
だが、しかし……
「大丈夫……これが、正解だ!」
これが、自分達が生き残る可能性の中で最も正しい行動。先程の声が、勇輝にそれを確信させていた。
どれだけの距離を走ってきただろう。やがて道を示す光は消え、道の終点には一振りの白い剣が突き立っていた。
地面などない、ただ泉の水に突き立った剣。物理的にありえない形で鎮座しているその剣の姿に、勇輝は不思議な感覚を覚えた。
この剣を見るのは初めてではない。今まで常に傍らに存在していたような、そんな感覚。
「この、剣は……っ!?」
――――。
強い既知感を覚えた勇輝の脳裏に再びあの声が呼びかけてくる。先程までの声よりも、遥かに強い。
「お前なのか? 俺を呼んだのは……」
間違いない、自分を呼んでいたのは目の前のこの剣を取り巻く〝何か〟だ。
この瞬間に勇輝は声の主を理解し、この意思が自分に何を訴えているのかも感じ取った。
この意思が自分に求めているのは……。
「戦えっていうのか? こいつで?」
この剣に感情はない。しかし、この剣の周りには確たる意思が取り巻いていると勇輝は感じた。
――即ち〝共に戦え〟と。
「その、剣は……」
少女の方へと振り返る。少々息を切らせながら少女は言葉を続ける。
「その剣は、特別な封印がされていて誰にも抜くことができないんです。資格のない人間が触れば、その人の精神を壊してしまう。だから、別の手段を講じないと……」
少女の顔には悲しみや不安の感情が浮かんでいる。もしかしたら、彼女にとって近しい人間がこの剣に壊されてしまったのかもしれない。そして、勇輝もそうした人間と同じ道を辿る可能性があるのだろう。
それでも――。
「――大丈夫だ」
少女に言葉を返して、勇輝は剣に向き直った。
「大丈夫。この剣は、俺を待っていたらしいから」
そして勇輝はその手を剣へ伸ばす。勇輝自身が驚くほど、自然に身体が動いた。
――――ィィィィン。
剣の柄を握ったその瞬間、不思議な音響が勇輝を包み込んだ。透き通った、心地の良い音の響き。
それはまるで、新たな主の誕生を慶び祝福しているような、そんな音色だった。
「――!」
一息に剣を抜き放つ。その瞬間、一際大きな響きが勇輝を包み、音の響きが晴れた頃、剣から感じられた意思は霧散していた。
「今のは……?」
突然の現象に周囲を見渡しても、呆然とした表情の少女が一人立っているだけだ。
「そんな……こんなことって。まるで伝説の――」
「どうしたんだ? 大丈夫か?」
放心したように何事かを呟く少女に、勇輝が手を差し伸べながら声をかけた刹那、
《GAAAAAAAA!》
〝奏術〟によって足止めされていた怪物が、咆哮を上げて現れた。
「――っく!」
「きゃぁっ!」
咄嗟に少女を抱き上げ、真横に跳んで怪物の突撃を回避する。それと同時に先刻負った傷口が開き、血が溢れた。
「はぁっ……くそっ! もう、あまり長い間は動けそうにないか!」
少女を怪物から離れたところで降ろすと、一言毒づいて勇輝は剣を構えた。
――大丈夫。やれる!
初めて手にした剣が〝妙に手に馴染む〟。その感覚が、勇輝にそんな確信を抱かせた。
「いくぞ、化け物!」
死への恐怖、命を奪う真剣の重さ、突然の出来事への困惑。そんな様々な感情が綯い交ぜになって震える身体を自身の咆哮で叱咤し、勇輝は目の前の怪物に斬りかかる。
《GU!? GAA!》
「チッ! 浅いか!」
手に馴染むとはいえ、勇輝は剣の扱いになど慣れてはいない。切っ先が怪物の肩口を掠っただけで終わってしまった。だが――
「まだ、次がある!」
一撃目の勢いを活かして体を捻るように剣を振るう。この距離ならばその胴体へと深手を与えられるはず!
《ッ! GAAAAAA!》
しかし、怪物は迫る勇輝の斬撃を瞬時に躱すと、咆哮を上げてその爪を振り下ろした。
「――っな!? ぐぁぁぁっ!!」
背筋を撫でる冷やりとした感覚に剣を戻して怪物の剛腕を受け止めると、勇輝はその場から二メートル程度の距離を吹き飛ばされた。
「ぅぅ、くそっ! 馬鹿力が……」
「勇者様!? 逃げて!!」
離れた場所から少女の悲鳴が聞こえ、勇輝が反射的にその場を転がった次の瞬間、爆音が轟く。
轟音に振り返ると、先程まで勇輝が倒れていた場所に巨大な水柱が発生していた。その奥には、水柱の根元に腕を突き刺すようにしている怪物の姿がある。
《GRRRRRRR……》
「……マジ、かよ?」
最早、デタラメとしか言いようのない怪物の力に呆然とした声が漏れる。
見た目以上に強い筋力、その体躯に似合わぬ俊敏さ、野生本能特有の瞬時の判断力。そのどれもが、通常の生物から外れた規格外の存在だった。
「化け物め……」
得物の有無では彼我の戦力的問題の解決にはならない。それは、火を見るより明らかだった。
――だけど、どうする? あの娘を逃がすことはできそうにないし、かといってこのままだと、いずれやられる……。
先程の一撃で警戒したのか、こちらを睨むようにして固まった怪物を見据えながら、勇輝は思考を廻らせる。
正攻法、搦め手、一撃離脱。あらゆる攻撃方法を模索するも、その全てが現実的ではない、と消滅していく。
――なにか、なにかないのか!?
怪物が優位であることが明白な以上、時が経つほどに状況は悪化していく。焦燥に焼かれながら、それでも勝機を見出そうと思考を再開しようとした時、異常な感覚が勇輝を襲った。
(――纏エ)
「っ!? なんだ?」
突如として起こったその感覚は、先程の〝呼び声〟に似て非なるものだ。声もなく、ただ呼びかけてきたあの意思とは性質が違いすぎる。
(――響素ヲ纏エ。響鳴ヲ受ケ入レヨ)
確かな言霊を伴って、脳内に直接語りかけてくるような感覚。害意も、威圧感すらもないその声と共に、脳内に一つの解決策が湧きあがってきた。
「これは!?」
必要な知識が充填される。それは、本来勇輝が知るはずのない知識。この剣の力が自分の力のように理解できる。
戸惑っている暇はない。示された可能性以外に、自分と少女を護る選択肢がないというのならば!
大気中に漂う〝響素〟を、限界を超えて身体に取り入れる。そんな光景を想起して、勇輝はその力を受け入れた。
「――鳴り響け!」
――――ィィィッィィン!
「っ!」
《GUA!?》
突然の音に、少女は驚いたように耳を塞ぎ、怪物は怯んで飛び退いた。
まるで竜巻のように巻き起こった光の奔流と共に周囲に響き渡る超高音。鈴の音を髣髴とさせるそれは、少女が行使した奏術の音色に似ていた。
そして数瞬の後、光の奔流が弾け跳び現れた勇輝は淡い輝きを纏っていた。
「――これが、響鳴……」
先程までの痛みがまるでない。重かった身体も羽のように軽く感じる。今ならば、あの怪物にも負けはしないと確信できるほどに!
《Guu……GAAAAA!》
怪物は本能的な恐れを感じたように勇輝に向かって飛び掛ってくる。
――動きが見える。先刻よりも遅い!
まるで映像をストロボを通して見ているかのような感覚。それでいて、自身は二倍速以上の速度で動くことができると身体が理解していた。
「これなら、いける!」
最も安全な回避ルートを身体の命じるままに駆け抜け、剣を振り上げる。
「っぁぁぁぁぁああああ!」
絶叫と共に剣を振り下ろすと、鉱物を砕くような硬い感覚が手に返ってくる。
《GYAAAAAAA!》
致命傷を負った怪物は断末魔を挙げ、その体色に似た結晶を残して霧散した。
「やった……勝てた、のか?」
結晶を拾い上げて呆然とする勇輝に、少女が駆け寄って来る。
「大丈夫ですか!? 勇者様!」
その声に振り向くと、少女はその瞳に涙を浮かべながらこちらを案じているのが見えた。
「ああ、大丈夫。っていうか勇者って……っ!」
少女の顔を見た瞬間に大事を乗り切ったと感じ、張っていた気を緩めた瞬間、勇輝の身体から大量の血が噴出した。
――なるほど、やっぱり副作用があったんだな……。
あれだけの力を行使した代償は思っていたよりも大きかったようで、体からあらゆる力が抜けていくような感覚と激痛が勇輝を襲う。
「そういえば、さっきから血は出てたよ、な……」
響鳴という力が働いていた時点で身体のあちこちから血が噴出していたことを思い出し、勇輝はこの力は諸刃の剣であるということを身に染みて感じ取った。
「勇者様!? 勇者様!」
少女の切羽詰った悲鳴を聞きながら、勇輝の意識は闇に沈んでいった。