第一章《動き出した物語(セカイ)》 1
「――ん、あ」
小鳥の囀る声や水の流れる音に誘われるように、勇輝は重い瞼を開いた。その場で軽く伸びを行うと固まった筋肉に血が通い、むず痒さが背筋を躍った。
「……ぁ、く」
浮上した意識が重い。身体に疲れはないが、妙な気だるさがある。自分の中にある大切な何かが抜け落ちてしまったようなそのだるさに、先刻の女性――〝彼の者〟に何かされたのかとも思ったが……。
「眠い……」
何ということはない、典型的な寝起きの状態だった。眠気を払うために頭を振り、勇輝は現在の状況を確認した。
外傷は特になし、空腹の状態から考えて意識を失っていたのはそれなりの時間だとわかる。
後は――
「ここがどこかだな」
見渡すまでもなく、勇輝は木製の何かの中にいるとわかった。恐らくは浅い洞穴のような場所だろう。眼前には人が通るのに申し分ない大きさの穴が開いており、外からは光が差し込んでいる。
「さて、と……」
入り口と思しき穴から首を出し、周囲の状況を確認した途端、勇輝は驚きのあまり言葉を失った。
視界に映ったのは深緑に染め上げられた森林という名の景色。澄み渡った蒼天。そして、ここが明らかに地球ではないという事実を物語る、空に浮かぶ六つの月だった。
「……なんだよ、ここ? なんで、こんなところに」
目の前に広がる風景が知らない場所であることに対して驚いたわけではない。目の前に広がるその世界が、かつて見たことのある世界であったことこそが勇輝を驚愕させた理由だった。
「ここ……夢で見た場所、なのか?」
自分を受け入れていた樹の洞から外に出て周辺の草木に触れると、掌中の感覚が勇輝に強い既知を感じさせる。
三ヶ月前のあの日から始まった夢。その舞台として、一人の少女と共に歩いた世界。
勇輝が立っているのは紛れもなくそんな夢の――ただ不思議な夢だと思っていた世界そのものだった。
「まだ、眠ってるんじゃないよな? 匂いや手触りはやけにリアルだし、明晰夢っていうのとも違うみたいだ」
自分の目を疑いながらも、勇輝は自分が目覚めた巨木を中心としたある程度の距離を散策した。時間にして30分、代わり映えのない森林が広がっていることが確認できたのが唯一の成果だった。
「――本当に、不思議な場所だな。どうしてこんな場所に……いや、それよりもまずは――」
――キャァァァァ!
「――っ!? っく!」
空気を裂いて聞こえた悲鳴に勇輝は振り返り、胸中に生じた謎の衝動に押されるように声のした方向へと走り出した。
――なんだ!? なんで俺は自分から厄介事なんかに!? けど、俺が助けに行かなきゃならない気が、する!
あまりにらしくない自らの行動に自分自身で驚愕しながらも、勇輝の意識は悲鳴の主を助けることを重要視するように上書きされていく。
「くそっ! 何だか知らないけど、行くしかないのか!」
人が通るには少々険しい獣道を駆け抜ける。目的の場所へ近づくほどに何かが水を打つ音が大きくなっていく。
「こんな音がするってことは、この先は水場か? ……見えた!」
疾走の果て、唐突に視界が開けた瞬間、視界に映ったのは大きな泉と一人の少女、そして――
「なっ!? なんだ、こいつ?」
夜のような深い藍色の中に、禍々しさを感じさせる金色が混じった毛並み。人よりも巨大なその体躯は熊や狼を連想させるほどに力強い。およそ通常の生物とは思えない魔獣――そんな怪物がそこにいた。
《GRRRRRRR!》
理性というものが感じられない瞳を少女に向け、歪な声で唸るその怪物は、その腕を振り上げて目の前の少女を狩ろうとしていた。
「くっ! やめろ!」
勇輝は咄嗟に転がっていた石を拾い上げ、駆け出すと同時に怪物へと投擲すると、怪物へと駆け寄り、石と同時に拾い上げた枝を怪物の目に突き刺した。
《――――AAAっ!》
「うわっ!」
「きゃっ!」
怪物は傷口からその体色に似た金色の血液を噴き出しながら勇輝を振り払い、勇輝は少女のほうへと放り出された。
「だ、大丈夫ですか?」
「痛ぅ……だ、大丈夫。そんなことより早く、逃げるぞ!」
事態を把握しきれていないと思われる少女の言葉に精一杯の強がりで応じる。先程振り払われた際に脇腹に浅くない裂傷を受けたが、この状況では些事でしかない。
勇輝は怪物を警戒しながら少女を振り返り――
「って、裸ぁ!?」
何も身に着けていない少女に一瞬呆けた。
「こ、これはちょっと、水が気持ちよさそうだったから……ここなら人も来ないし……あ、服はあっちにあるんですけど」
「いや、それを俺に言われても……っ!」
《GRAA!》
「くそ、悠長に話してる場合じゃないよな」
羞恥に顔を赤くする少女の態度にこちらの体温も上昇するが、背後からの怒声が緊張感を取り戻させる。時間はない。怪物の視力が戻るまでにこの場を離れなければ!
「と、とにかくこれを着て、そうだな……俺の背中に乗ってくれ。できるだけあいつから離れるから」
少女に来ていた上着を渡しながらしゃがみこむ。人一人を負ぶって走るのは結構な負担だが、靴も履いていない少女を走らせるよりは速度も出るはずだと勇輝は判断した。
「……っ!」
少女は状況を理解したのか、何も言わずに頷いて勇輝の背中に身を預けた。
「よし、行くぞ!」
自分に気合を入れる意味で、一声をかけて走り出す。向かうのは視界を遮る物に富む森の中だ。あの怪物が再び動けるようになった時、すぐ発見されるようでは逃げきれない。
自然によって作られた道なき道を駆ける。先刻あの怪物に裂かれた脇腹が熱を伴って鈍痛を訴えるが、今は気にしていられない。怪我のことは生き残ってから対処すればいい。
――――ドォン!
「な……!?」
背後から咆哮と木々を薙ぎ倒す音が聞こえてくる。それの意味することは、あの怪物が迷いなく勇輝たちを追ってきているということだ。
「どうして、こんなに早く見つかったんだ? それにいくらなんでも移動速度が速すぎる……」
「……たぶん、あの獣魔は嗅覚と聴覚に頼って追ってきたんだと思います。足の速さも、あの外見からすると野生の犬よりも少し速いくらいだと……」
勇輝の疑問に、背中の少女が答える。どうやらこの少女はあの怪物に関して何か知っているようだ。
「アレのことがわかるのか? なら、どうすればいい? 居場所がばれてるなら、このまま走り続けるのは、さすがに厳しい」
傷口の出血具合から考えても、あと5分走ることができれば上出来だ。実際、今にも倒れそうなほどに意識が揺らいでいる。
「ごめんなさい。今のままだとまともな対策は打てません。でも、どうにかして撃退しないと……」
申し訳なさそうに返事をする少女は、なにかを決意したように頷くと、
「私が奏術を使います。さっきの泉へ誘い込みましょう」
「奏術? それって――っ!」
何? と訊こうとして、勇輝は唐突にバランスを崩した。一瞬視界が暗くなったことから、失血がまずい状態まで到達していることがわかる。危ういところで踏み留まったが、限界が近いのは疑いようがなかった。今は自分の意識が途切れる前に指示された場所に動くべきだろう。
「……わかった。とりあえず、さっきの場所に戻るよ」
背に乗る少女にできる限り心配させないように微笑むと、勇輝はそう口にして走り出した。
なんとか怪物に追いつかれる前に泉へと到着すると、勇輝は少女を降ろして傍らの樹に身を預けた。
「っく……はぁっ、はぁっ」
意識が重い。服に広がった鮮紅の染みは失血量が危険域にあることを主張し、破れた衣服から覗き見える傷口の方は皮膚ではない肉が露呈するという、今までの人生で経験したことのない状態となっていた。極限の状態に置かれたことでアドレナリンが働いているのか、耐えられる程度の痛みしか感じないのは僥倖だが、結果として過激な運動をしたせいで傷口が広がってしまったのは間違いない。
「ちょっと、これはまずいか……」
少女には聞こえないように弱音を漏らす。こんな場所でこの状態では、怪物を切り抜けたとしても生き残るのは難しいかもしれない。
「大丈夫ですか? ごめんなさい。私を背負わなければ……」
緊張と恐怖に顔を青くした少女が心配してくれるが、勇輝にとって心配なのはむしろこれからあの怪物に何かをする彼女の方だ。
「いや、俺は平気だから。それより、どうするつもりなんだ? あんな怪物を相手に何を?」
問いかけると、少女は自身の緊張を誤魔化すようにその表情を明るくした。
「この場所だとできる事にも制限がかかりますけど、私だって戦う方法がないわけではないんですよ? 少なくとも、無詠節の奏術でも効果はあるはずです」
「戦うだって? そんなこと……」
策があるとは言っていたが、この少女があの怪物の相手をするなど想像に難い。奏術というのがどんなものかは知らないが、少女の態度から察するに大した効果などは期待できそうにない。
――それに、こんな子に戦わせていいのか? ……イイハズガナイ。
勇輝は自身の状態を理解しながらも、それでもなお目の前の少女が怪物と戦うことに抵抗を覚えていた。
単純に目の前の相手が女性だからなどという紳士的な理由ではない。本来、勇輝はそんなことを考えるような性格ではない。
ただ、目の前の少女を「自分が護らなければならない」という謎の衝動が、勇輝の感情に何かを訴え続けていた。
「……やっぱり、駄目、だ。どうしようもないなら、俺がやる」
そう言って、意識を閉じようとする身体に鞭を打ち、立ち上がる。
「な、何を言っているんですか!? ふらふらじゃないですか! 駄目ですよ!」
「大丈夫、だよ。こんな状態でも、君が逃げる時間くらい稼げるさ」
必要以上に重く感じる手を上げ、開いて、握る。
――大丈夫。まだ、動く。
どれだけ保つかはわからないが、それでも少女一人を逃がす時間を稼ぐくらいならば可能だろう。
「駄目です! 私だけ逃げるなんて、そんなの嫌です!」
だというのに、目の前の少女は逃げないと言って譲らない。
「それでも、その方がどちらかだけでも生き残れる可能性は上がるだろ」
「それは……でも、私は誰かを犠牲にしてまで生き残りたいとは思いません!」
その蒼い瞳に涙を浮かべて思いを口にする少女の姿に、謎の衝動はその色を濃くしていく。
――護らないといけない。彼女を……彼ノ直系デアル少女ヲ、護ラナイト!
意識の中に異物が混じるのを感じる。まるで自分の意思が作り変えられているような感覚。それは一切の抵抗の余地もなく勇輝の意識を侵食していく。
「だから、それ以上は言わないでください。それに、〝私はあなたと一緒に生き残らないといけない〟。そんな気がするんです」
「――え?」
少女の言葉を聞いた瞬間、勇輝を襲っていた衝動は霧散し、不自然に熱せられた感情は一瞬にして元の冷静さを取り戻した。
――なんだったんだ、今のは?
自分にはあり得ない不自然な思考と感情の昂ぶり。少女の言葉がなければ自分は命を懸けてでも彼女を生かそうとしていたに違いない。
何故だ?
この少女を守るのはいい。しかし、何故自分は自らを犠牲にしてでもなどと考えたのだろう?
「……思い出せない」
一部の記憶が欠落している。少女を護るという感情以外、先程まで自分が何を考えていたのかが、白いペンキで塗り潰されたように消えていた。
「俺が、誰かを護る?」
思わず言葉が口を衝いて出た。あまりに自分とかけ離れたその言葉に、勇輝は今までの自分の姿を思い出した。
見ず知らずの人間の為に命をかけるなど、自分らしくない。自分はもっと冷酷な人間のはずだ。親しい人間以外などどうなってもかまわない。そうすることが必要ならば、家族であっても見捨てることができる。そんな風に考えて、面倒事は避けて通っていたはずだ。
今さら、自己犠牲の精神を発揮して正義の味方になろうとでも思っていたのだろうか?
勇輝にできることなど、高が知れている。そんなことはわかっているから、夢など見ない。贅沢など考えない。
それこそが、朝凪勇輝(自分自身)であるはずだ。そんな自分が――。
「は。馬鹿みたいだ」
「え?」
突然、自嘲の声色で呟いた言葉に少女が反応する。勇輝は、そのまま少女に向き直って彼女を見た。少女の瞳に映る自らの顔を見つめ、独白を続ける。
「本当に、馬鹿みたいだ。それこそ今さらだ。俺は一体何考えてんだか……」
自分がどうしてこんな場所に来たのか。あの丘で、自分は何を宣誓したのか。そんなことも忘れていた。
自分はただ流されるままにここに来たわけではない。確かな意志を持ってここにいるはずだ。
『俺は、知りたい。俺自身の生きる意味を知って、変わっていきたい』
あの時の感情を奮い起こす。体感の時間だけならば数時間前のことだ。なぜ、忘れていたのだろう。
遠い昔に誰かが教えてくれた、自分自身を変えるための方法を思い起こす。
それは大切な誰かを見つけること。そして、大切な人を護れる強さを身につけること。求めた理想に辿り着いた時、人は本当の意味で変わることができる。
「誰かを護ることができる人間は、その心ごと護れるだけの強さがないといけない……」
その言葉が自らの言葉に、信条になるように深く胸に刻み込む。
「うん。まずは、ここから……」
見ず知らずの誰も彼もを助ける人間なんて、目指すことはない。ただ、護りたいと思った人を護れる人間になる。それが、自分を変える第一歩。
「あの……」
「ああ、ごめん。そうだよな。一緒に生き残ろう。そのためにもまずは――」
突然態度の変わった自分に困惑する少女に微笑むと、勇輝は重い身体を森の中へと向き直らせる。
《GRRRRRRR!》
そこには、犬に似た熊のような、地球では目にすることもないような怪物が立ち尽くしていた。
「俺自身も、君のことも、なんとか護ってみるさ」