海神様と人間の遠いお話
遠い、遠い昔のことでした。
倭国には神様がたくさん存在し、各地の自然や人間達を見守っていました。
海に一番近い浦島神社では、海神様が住んでいます。
大蛇のような長い体、岩のように硬い鱗、牙を剥き出し、鋭い目つき。
その猛々しい姿は人々を魅了しました。
海神様は漁に向かうべく船を出した民を見守り、波を操り、海の生物を創りだします。
ですが、海神様はその力に自負心を持ち過ぎたのです。
どの神よりも自分が優れている、どんな神よりも人々に崇められている、と。
時に生物を創り過ぎて自然を乱したこともあり、人に手を差し伸ばしてはならないはずなのに介入してしまったこともありました。
他の神様から指摘をされますが、決して海神様は聞き入れようとはしません。
問題のある海神様と一緒に叱責を受けるのは浦島神社に仕える一人の巫女でした。
神に仕える者は特例として将軍様から姓を与えられ、彼女もまたその一人であり、天海という姓を名乗ります。
まだ十代の若い天海は海神様の問題行動に悩み、頭を抱えてしまいます。
「海神様、海神様、海以外に国のなかを少し覗いてみてはいかがでしょうか?」
他の神様の行いを見習って、初心に戻って欲しいという願いを込めて天海は海神様に勧めてみました。
『何故私が他の奴らの陣地にまで行って見に行かなければならないのだ。それなら奴らがここに来ればいいことだろうに』
海神様は同意しません。
「漁師以外の人間の生活を覗くのもまた面白いですよ、倭国統一を成された将軍様のお姿はとても勇ましく素晴らしいです。それに将軍様の娘である藍那様はお美しく、歌姫と称されるほど美声でございます」
天海はにっこり笑顔で倭国の中心地について説明していると、海神様は興味を持ったのでしょう、その夜には神社を飛び出して中心地へと向かったのです。
漁師が住む小屋とは違って、立派な建物が並ぶ都。
偉大さを誇示するかのように建てられた大きなお城もありました。
眠りについているはずの時間帯ですが、都に住む人々はお祭りのように夜も活動し、騒いでいます。
お城からも楽しそうな声が聞こえてきました。
貴族と呼ばれる者がお城で歌や踊り、豪華な食事を囲み、宴会を行っていたのです。
海神様もそこへ参加して楽しみたいのですが、ここは最高位に君臨する天神様が守っている地域であり、いくら海神様であっても許可なく立ち入ってはいけません。
つまらない、海神様がそう思い帰ろうとしたときでした。
お城のどこからか、清流のように澄んだ歌声が聞こえてきたのです。
心奪われた海神様は声の持ち主を探すためもう一度お城へと戻ってきました。
満月の空に体を向けて天へと届きそうな歌声を披露していたのは、青みのかかった長い黒髪と豪華な装束を身に着けた美しい少女。
姫とは彼女のことだと一目でわかった海神様は、藍那姫のもとへ近寄っていきました。
只ならぬ気配を感じた藍那姫はすぐに歌を止めて海神様を見ます。
「まるで、おとぎ話に出てくる龍のような姿をされた貴方様はもしや……神様であられますか?」
藍那姫は凛として振る舞い、海神様へ興味を示しました。
言葉を忘れたのでしょうか、何も発せない海神様は呆然と藍那姫を見続けています。
鋭い目つきはどこかへと消え、優しい目となり藍那姫に大きな巨体を近づけました。
「ば、化け物!! 姫様に寄るな」
貴族や武者達が気付いたのか、武器を持ってこちらへと走ってきたのです。
『化け物だと? 私を誰だと思っているのだ。私は母なる海を守る神だぞ!』
海神様は人間の言葉に怒りを感じ、空気を揺らすほどの咆哮で威嚇。
人間達は思わず畳に座り込んで腰を抜かしてしまいます。
「て、天神様ぁ。お助けを!!」
しまった、海神様はここが最高神の陣地であることを忘れていたのです。
急いで海へと帰ったのですが、既に話は天海のもとへ。
「先程天神様からお達しがありました」
腕を前にして組み、普段は大人しい天海が静かに怒っていました。
「中心地に行ってはいかがと言ったのは確かですが、人に手を出すのは神としてやってはならない行為であります!」
この日はさすがに天海へ反抗することができません。
「これ以上勝手なことをすれば最悪、神を降格させられてしまいますよ? 海やここの人々を守れるのは海神様だけなのです。海神様が消えるなんて……私には考えられません」
目に涙を溜めた天海の悲痛な訴えに海神様は素直に聞き入れ、しばらく神社でいつものように過ごすことにしました。
それでも忘れられない、藍那姫の姿。
まともに言葉も交わせず、尋ねられたことに答えることもできなかったのです。
我慢ができなくなった海神様はまたも夜に神社を抜け出して、中心地へと行ってしまいました。
都に辿り着いた海神様は今日も聴こえる清らかな歌声のする城に迷いなく近寄っていきます。
藍那姫はすぐに気付き、相手がわかれば笑顔をみせました。
「神様」
『私の名は海神、海に住まう生き物、海と生活する人間達を見守るのが役目である』
「この前は無礼なことを……申し訳ありません」
藍那姫は深々と頭を下げ、謝罪の意を示します。
『そんなことをお前のような清き者がする必要はない。私はお前に会いたくて来たのだ』
「わたくしに、ですか?」
『お前の心は清らかで美しい。このような人間、多くもいない』
「海神様も猛々しくて、とてもお美しいですわ。惚れてしまいます」
『そ、そうなのか……こういう時だけ人間になりたいものだ』
僅かな時間ですが、海神様は藍那姫と心を通わせます。
「そろそろ、寝室に戻らなければいけません。海神様、またお会いできますでしょうか?」
『いつでも、お前に会いに行こう。また……』
海神様は別れを惜しみながらも神社へと帰りました。
誰にも知られていないと思っていましたが、本殿には巫女の天海が正座をして待っていたのです。
「海神様、お帰りなさいませ。また、お城に行かれたのですね」
『むぅ、起きていたのか』
「当然です。境内にも海にも気配がありませんでしたから」
天海は抑えた声で怒っていました。
顔を俯かせ、目には涙を浮かべて胸に手を当てます。
「今度からはお城へ行く前に、私に声をかけてくださいね……いつも海神様の身を案じておりますので」
立ち上がり、一礼して天海は本殿から去っていきました。
それからというもの、夜にお城へ行く時は天海にそのことを伝えるようになりました。
毎夜、お城へ通うのが日課となった海神様。
藍那姫の歌声に聴き惚れ、声も姿も魂にも心惹かれたのです。
そんな夜、神様が不在である神社の本殿で帰りを待つのは天海でした。
眠たい気持ちを抑えながらも瞼は重くなり、眠気は次第に深くなろうとしています。
『海神に仕えし巫女、天海』
海神様ではない声が突如本殿におりてきました。
「て、天神様!?」
倭国の最高神にして全てを司る天神様。
天神様がいると知れば、眠気はどこかへと飛んでいきました。
『海、漁師達を見守るのが奴の使命である。なのに、奴は何をしている? 国の姫に心を奪われて使命を忘れては毎晩通うなど、奴が同じ神であることが恥である』
「そ、それはそうですが」
『天海よ、奴を庇うのは構わぬ。だが、たかが姫一人に会う為、ここに住む者達を危険に晒すのか?』
「ですが、海神様はお城に行くようになってから変わりました。以前より役目を果たされておりますし、人々からの信仰も増えたのです。人に危害を加える行為もありません、悪いこともしていません。今の海神様はとても楽しそうで、私は……いえ、私達は皆それで満足しております」
なんと言えばいいのでしょう、天海は困りながらも必死に自分が思うことを言葉に変えて、声にします。
『天海よ、もし奴が人間に手を出す行為があった場合どうするつもりだ?』
「そんなこと……絶対今の海神様はしません」
頑なに海神様の肩を持つ天海。
『その清楚なる魂、人間の器であることが勿体無い。もし奴が人間に危害を加えた場合、それ相応の罰を受けるぞ、いいな?』
「はい」
天神様の威圧が本殿から消え去った途端、力が抜けてその場に座り込んでしまいます。
「海神様……私は、私は、ずっとお慕い申し上げております」
本殿で止まらない涙を流しながら、天海は蹲りました。
天海の望みとは別に、お城の人間達は海神様と藍那姫の密会には快く思っていません。
藍那姫に邪魔しないよう咎められているとはいえ、父である将軍は黙っていられないのです。
「藍那を海から離れた遠くの山へと送れ! 相手が海神であろうと知ったことか! 儂らが信仰しているのは都を守る天神様だけだ!!」
強く家臣達に訴えた将軍。
夜になるまでの間に藍那姫は強引に山へと送られてしまいました。
藍那姫は泣きながらも夜になると山の小さな城から海に向けて清流の如き澄んだ声で歌を届けます。
何も知らない海神様は今日もお城へと向かうのです。
「海神様、人に危害を加えないようお願い致しますね」
『わかっている。そんなことはしない』
「はい……お気をつけて」
天海に見送られて神社から飛び立ちました。
都へ到達すると、いつもなら聴こえるあの歌声が今日は聴こえません。
『いないのか?』
お城へと近寄ると何やら武装した家臣達が海神様を待ち構えていたのです。
『これは何事だ?』
「将軍様からのご命令である。姫様に近寄ることは禁じられた」
『私をなんだと思っている』
「神であることは存じ上げている。だが、このようなことは許せん、ご覚悟ぉ!!」
お城の頂上から出てきた将軍の声とともに、一斉に矢が海神様に向かって放たれました。
刃でも傷をつけられない固く頑丈な鱗をもつ海神様は雨のような矢が降ってきても何も問題はありません。
『姫は!?』
「誰がそんなことを言うものか!」
矢以外にも大砲、鉄砲が海神様に向けて飛んできます。
『むぅ……ん?』
どこから遠くに聴こえてくる清らかな歌声。
その声が藍那姫だとすぐにわかりました。
悲痛とも受け取れる藍那姫の声に海神様は黙っていられません。
『愚かな、なんと愚かな人間だ。あのような清らかな姫を悲しませるとは!』
冷静さを失った海神様は放たれた矢を弾き返したのです。
その矢は将軍の肩へと突き刺さってしまいました。
「ぐうぅ! な、なんていうことだ!!」
『黙れ、これは神罰だ!』
海神様は歌声のする方へ急いで向かおうとしましたが、
『海神よ!』
目の前に突然現れた巨大な鬼の姿をした天神様に止められました。
『天神様……』
『規則を破ったな? あれほど人に危害を加えるなと忠告したはず、巫女にも言われていたはずだというのに』
『それはそうだが』
海神様は徐々に冷静さを戻していきます。
『こいつらは愚かだ、それはわかる。だが我々の審議なしで、他の陣地で、このようなことをするのはどうだか。それに、こいつらがここまでした原因はお前にある。姫に会いたいが為に守るべき場所から離れ、他の人間にも迷惑をかけた。人間には人間の社会がある。我々には神としての規則があるのだ』
『しかし!』
天神様は首を横に振り、きつく睨みました。
『黙れ! たかが人間の武器に我々が傷つくものか! 抵抗されたのなら、さっさと下がればよかったものを怒りで我を忘れ、人間に危害を加えたのは紛れもない事実。お前達に罰を下す』
『お前達?』
海神様の疑問に、天神様は目を閉じて静かに呟きます。
『巫女である天海も罰を受けるのだ。本来ならお前の存在を消し、天海は巫女剥奪だが……不可解な生き物を創ってしまったものよ』
可笑しそうに笑った天神様。
『お前は神降格。お前の記憶はそのままにしといてやる』
『て、天神様!』
強い光に囲まれた海神様は、暴れようとしても身動きができません。
『さらばだ、海神よ。お前の神らしからぬ行為には悩まされたが、楽しかったぞ』
一気に光が収縮すると、巨大な体をもつ海神様も小さくなってしまいます。
都から離れ、小さく丸くなった光は浦島神社へと送られていきました。
光が鳥居の下まで辿り着くと、明かりは消え残されたのは男の姿。
神主のような白い装束を身に纏った若い青年は、ゆっくりと目を開けました。
凛々しい精悍な顔立ちをした青年は勢いよく起き上がります。
「ここは、私の神社? 天海!!」
鳥居を抜けて参道を走ると、目の前には立派な本殿。
初めて息を切らして走った青年は本殿のなかへと入ります。
海神様が祀られた神体の前には巫女である天海が横になって倒れていました。
「天海……?」
急いで駆け寄り、上体を起こして揺らしますが、反応はありません。
「天海、天海! 起きろ! 私だ!!」
どれだけ声をかけても返事をしないのです。
息をしている様子もなく、体はひどく冷たくなっていました。
「私のせい、なのか?」
身勝手な行動をした結果に呆然として、青年は静かに力無く呟きます。
神社を抜けて青年は天海を穏やかな波が続く浜辺に浮かせると、波を待ちました。
押し寄せてきたのは大きく優しい波。
天海が波に呑み込まれた瞬間、青年は目を細めて触れていた体を離す。
「さらばだ、天海。お前以外に相応しい巫女はいなかった」
静かに広大な海の中へ消えていく。
海を背に青年は一度目を閉じてすぐに力強く目を開けます。
「人間に成り下がってしまったのなら、人間のやり方で姫を助けに行く。文句はあるまい、天神よ」
見上げれば曇りなき透明の空、青年は耳に残っている歌声を頭に響かせながら進んで行きました。
昔があるのだから今がある、短い茶髪の少女は海辺近くの浦島神社で空を見上げています。
「海神様が人間に転生してから数千年、あれから先祖様はどうなったの?」
不自由のない時代となって高等学校の制服を着ている少女は後ろにいる同級生の少女に訊ねました。
「姫様を助ける事は叶わず、結局漁師の娘と結婚したって話だったかな」
冷めた表情で答えた少女は長い黒髪を触ります。
短い茶髪の少女は無言。
せっかく答えたのに返ってきません。
「何か言ってよ」
「うーん、巫女様可哀想だなって思って」
長い黒髪の少女は息を強く吐くと前髪を弄ります。
「仕方ないでしょ、ただの片想いだったし、私達のご先祖はあの海神様なんだから。それに巫女様が命と引き換えに海神様を助けなかったら私達は生まれてないんだから」
短い茶髪の少女は口を膨らまして、眉を下げました。
「むー、納得いかないよ」
「はいはい、さっさと帰ろ」
長い黒髪の少女に手を引っ張られますが、
「あ、待って」
短い茶髪の少女は立ち止ります。
社に体を向けて一礼。
「いつも見守ってくださってありがとうございます、ご先祖様」
その姿に呆れながら黒髪の少女も同じように一礼。
礼が終わると二人は仲良く手を繋いで帰って行きました。
終わり