2125年。あるアラサー男の給料日
「ふぅ、今日も疲れた……」
俺は通勤路の繁華街を歩く。
大都会東京は相変わらず忙しく、摩天楼がそびえたつ。その足元には外国人観光客で溢れかえっていた。
俺は群衆を避けるように歩道の端を歩く。ぶつかりそうになった観光客に、反射的に愛想の良い笑顔を向け、「Sorry」と頭を下げた。相手は上機嫌に手を振って去っていく。観光客は和牛レストランへと消えていく。最低価格は、俺の3日分の食費だった。 俺は必死に、和牛の匂いだけでも嗅ごうとできないかレストランに少し近づいたが、そんなに現実は甘くなかった。
(まあ彼らが金を落としてくれるから、かろうじてこの国のインフラも維持できているわけだしな……地方では令和の終わりごろから何十年もずっと通行止めになってる道路もあるらしいけど……東京のインフラは問題ないから平気だ。)
横目に映るビルの壁面モニターには、「復旧見込み未定」と書かれた地方道路の映像が延々と流れている。 SNSのトレンドには「#今日も断水」「#井戸水が一番」が並んでいた。
俺は冷めた目で喧噪を背にし、アパートへの帰路を急いだ。
「さて、今日は月末、給料日だ。今月はどれくらいドルに換えて貯金するか」
政府の年金などすでに破綻している。
日本円を捨て、ドルで自己防衛するのは、今や「賢い社会人」の常識だ。
3年前のインフレ率は24%、一昨年は8%。落ち着いたかと思えば、去年はまさかの71%だ。
もはや経済のジェットコースターだ。政府は「年金は破綻していない」と言っているが、政権支持者でさえ年金のことは口をつむっている。
「……クソったれな世の中だ」
自嘲気味な独り言が、雑踏に吸い込まれて消えた。
家に近づくと、暗闇が広がる。公共照明という概念は限られた土地にすむ人間の贅沢だ。
「ごはん、できてるよ」
帰宅すると、この荒廃した世界を生きる唯一の糧である、ミカが夕食を用意して待っていた。
黒髪を綺麗に結い上げ、しとやかで古風な雰囲気を持つミカは食卓に、俺の分だけ山盛りの米と芋、その横には申し訳程度の筑前煮がある。
「はい、あなたの好きな筑前煮。やっぱり日本人は和食だね」
メディアからの受け売りのようにミカが言う。
「肉が高くて買えないからな、俺たち貧乏人は。」
さっきすれ違った外国人観光客たちは、安い日本食を日本だけじゃなく、母国でも食べてるのだろうか?
「全然貧乏なんかじゃないでしょ。東京で、しかも外国人のいないエリアで、25平米で暮らして、こんなバランスのいい食事してるのはもはや上流階級だよ」
「上流階級は言いすぎだろ。外国人のいないエリアといっても、おれたちは高級低層住宅が並ぶ外国人様のエリアよりもスラムのわけわからん外人エリアのほうが近いぞ」
「でもここはスラムじゃないじゃん。そもそも心配する必要はないよ。この前ネットで「30歳。東京20平米。専用バストイレなし。貯金は0円。絶望です。」って書き込みがあったんだけど、それに対して「20平米で二人で暮らしてます」とか「東京ってインフラ整ってるんだろ?地方に来てみろよ。いつ断水や停電するかわかねーぞ」「車必須なのに税金が高くて車持てない」「近くのクリニックまで車で2時間です」「30歳で貯金ゼロはスタンダード」「わたしも東京住みだけど、共用ミストシャワー・トイレです」とか総叩きにあってたよ。」
東京と地方論争に、俺はすこし反論する。
「でも地方だって、断水や停電してるって言っても「東京にはない純粋な井戸水がおいしい」とか「アロマキャンドルでデジタルデトックス」とか「民間療法が発達して空気がおいしいから医者いらず」とか言ってて幸せらしいじゃん?ありえないけど、万が一国家が破綻しても自給自足で生きていけそうじゃん」
「それは全体の一部でしょ?統計でみると地方の若者はどんどん東京にくるから、制限するのを政府が検討してるらしいよ。」
「まぁとにかく、小中高と親が私立に入れてくれて、さらに必死に勉強していい大学出たんだ。ドル貯金くらいできる身分でもいいだろ。」
「いい企業にも入れたしね。いまはまだ若いから給料低いだけ。定年の75歳まであと40年以上あるんだから」
ミカは俺を励ます。
「あと40年も働くのか…働きたくねー。」
「ほんとうに。50年ずっと働き続けてる人が大半って地味にすごいよね。」
「俺も50代後半にはおそらく庶民の到達点みたいな給料をもらいはじめるんだけろうけど、その時には寿司を食える身分になりたいなぁ」
「そういえば、今日のニュースで見たよ。アラスカからの魚介の買い付け、ついに日本は競り負けてゼロになったって。中国、インド、インドネシアなんかに持って行かれたって」
ミカが何気なく伝える。
「あと二十年もすれば、『本場の寿司は上海にある』というミームが、ただの事実になってるかもな」
「職人さんは1か月分の給料を1日で稼げるから海外に移るってニュースでやってたー」
ミカも同意するように続ける。
「寿司という伝統文化を担っている自覚があるなら、少しは国に残って戦えってんだ。愛国心のない奴らめ」
箸を止め吐き捨てる俺を見て、ミカは少し困ったように苦笑した。
彼は苦学生のころに、月に一度の贅沢だと思って言っていたラーメン屋がある突然「北京にて再オープンします」の張り紙だけで永遠に行けなくなったことを思い出した。
「(あれからもう10年か…長かったような、短かったような)」
彼は10年間の思い出にふける。
「(10年後、手取りはいくらなんだ?額面ばかりが増えて、手取りはそんなに変わらない地獄があるのか?そりゃラーメン屋も寿司屋も外国に逃げるか…)」
俺は深いため息をつき、茶碗を持ち直した。
「……ま、せめて米だけは自給できてよかったよ。ガキの頃に海外からの米を食べたが、まずくて仕方なかった。国産米だけは本当に変わらずうまい」
「それも怪しいみたいだよ。実はめっちゃ変わってるって」
ミカが冷や水を浴びせるようなことを言う。
「昔と比べて猛暑で本来の日本の米が育つ環境じゃなくなっちゃった。おまけに水道インフラを外資に売ったりで、水道代は100年前の100倍。円安とかなんやらで、今の日本に、たっぷりの水で米を育てる国力なんてないんだって。私たちが食べているのは、品種改良で無理やり生き延びさせた『劣化版』だって、インフルエンサーが言ってた」
ミカは一口も食べずに、ただ俺の顔を見て微笑みながら米の豆知識を教えてくれる。
「……どーせ懐古主義の陰謀論系だろ?ま、ここのところの酷暑が我慢ならないのは本当だがな」
「あ、懐古主義で思い出したけど」
ミカは俺の動揺に気づかないふりをして、明るく話題を変えた。
「今年もまた日本のGDPランキングが落ちて、ついにナイジェリアに抜かれたって騒いでる人がいて、なんか炎上してたよ。『経済規模で幸せや国の力を測るなんて、前時代的もいいとこ』って叩かれてた。まだ経済規模にこだわってる人、いるよね。」
「『GDPなんて意味がない』か。……全くだ」
俺は空っぽになりかけた茶碗を見つめながら、炎上理由に同感を示す。
「大事なのは心の豊かさだろ? 物質的な豊かさばかり追い求めるなんて、心が貧しい証拠だろ。そもそもナイジェリアの村なんてまだ井戸水で生活してるって見たぞ。そんな指標に意味があるのか?」
スマート壁面パネルが、空気を読んだようにニュース通知を映し出した。
《速報:政府、来年度のインフレ目標を“上限なし”に変更。財務相「状況に応じ柔軟に対応」》
「……「柔軟に対応」ね…」
俺はさらに愚痴る。
「ってか政治家はマジで何もしてないんだよな。そんな弱腰だから、中国に舐められるんだよ」
画面の端に映った財務大臣の経歴を見て、俺は鼻を鳴らした。
「今の財務大臣、東大出かよ。あーあの「東大」ね。」
「東大、嫌いなの?アジアでもトップレベルの大学じゃん?」
ミカが不思議そうに聞く。
「親父が卒業した東大は消えたな。日本のローカル大学から、アジアトップを目指すといって全コース英語化して入試方法を多様化して以降、学生の日本人比率はどんどん低下して、いまじゃ半分以下だ。俺らの血税が、清華大学に入学できなかった2流外国人に使われてるんだぜ? ……ふざけた話だ。政府は何を考えてるんだが」
「でも今の内閣の支持率って85%でしょ?みんな好きなんじゃないの?」
「口だけは強気の外交だからな。政策なんて見ずに「なんかやってくれそう」って雰囲気だけで大衆は支持してるだけ。実際には外国人も含めた富裕層に媚び売って、庶民を苦しめてるだけなのに。」
「まぁ、そもそも調査結果なんてあてにならないよ。大手メディアがSNSに対抗して、SNS化してしまったいま、真実かどうかよりもスポンサー企業や人々から支持されるかどうかが大事なんだから」
《速報:日本人が世界初の快挙!ノーベル賞を親子で受賞!物理学と医学賞の組み合わせは史上初!》
画面には、誇らしげなテロップと、華やかな授賞式の映像が流れている。
「すごいね!」ミカが明るい声を上げた。
アナウンサーが経歴を読み上げる。
「……お父様の井上蓮さんは東大を1年で中退し、ハーバードへ。その後、博士課程よりずっとプリンストン大学にて研究を続け、物理学を受賞。博士課程時代から交際を開始した、日系人のキャサリン・ハルカ・スミスさんと結婚し、息子の拓弥さんを授かりました。今回、医学賞受賞となった井上拓弥教授にインタビューを行いました。」
受賞者である井上拓弥氏が、ぎこちない、カタコトの日本語の挨拶のあと、英語でインタビューに答えている。
「僕の両親は二人とも日本人。僕の中にある日本人のDNA……創造性・独創性みたいなものが受賞の理由でしょうね」
「日本の科学界へ一言」
「日本にはアメリカにない絆や温もりがあって、そこからアメリカとは違うイノベーションが生まれるんじゃないかと期待しています」
ミカは画面を指差して笑う。
「すご!日本人の遺伝子ってやつ?大和魂って感じのイケオジだし」
日本人離れした大柄な体格。顔は母方の遺伝子だろうか、やや茶髪と茶色の目の研究者を見ていう。
ミカの屈託のない笑顔のなか、アナウンサーの声がかすかに聞こえる。
「アメリカでも快挙だって言われていますよ。まったく異なる分野で才能を発揮する親子だって」
「ノーベル財団の発表によると2人ともアメリカ国籍となってるのが残念ですよね。海を渡ったサムライなのに」
「お父様の蓮さんは大のハンバーガー好きだったとか。卓弥さんのアメリカ名はフレッドっていうんですけど、大好きなハンバーガー店からとったっていうジョークもあるらしいんです」
「拓弥さんは今回、日本人から「20年ぶりの日本人のノーベル賞!勇気をもらった」「世界初を成し遂げるのはやっぱり日本人」といった多数の投げ銭にもらい、そのお金で日本に初めて来たんですが、寿司の虜になったらしいですよ」
「日本食はノーベル賞級のうまさですからね」
「やっぱり日本はすごいね」
ミカは言う。
「ああ…そうだな」
俺は、英語で書かれたノーベル財団の公式発表の"Frederick T. Inoue-Smith, Princeton, USA"を虚ろな目で見つめがら、肯定する。
日本語メディアには「世界初の快挙!異分野で活躍する日本の天才たち」やら「大和民族のDNAの特殊性」やら「なぜ日本食は世界の科学者から愛されるのか」やら「アメリカは絆のない冷淡な国」との文字が踊っており、俺はざっくりと流し見をする。
(彼の日本の科学に対するコメント・・・いかにもリップサービス的であったけど、本音ではどう思ってるのだろうか)
彼はvpnを繋げて、アメリカの動画サイトを検索する。
井上拓弥、いや、フレッド・井上=スミス教授がアメリカの現政権への科学政策を批判している動画が再生数、コメントがどちらも最も多いようだ
「ノーベル賞級の研究とは、当時は理解されないもの。理解されない研究が評価されるのか?わが国は、引用数を重視せず、「役に立たない研究」に金をだし、人種や性別に限らず世界中から人材を集めるべき。現政権の科学政策では、父の故郷である日本と同じ間違いをたどる。かつて栄華を誇った日本の科学は今や見る影もない。私たちの国の強さは、失敗から学び何度もやり直しがきき、リスクを顧みないフロンティアスピリットだ」
「(父の故郷であって、彼の故郷ではないのか…ま、日本に来たことないって言ってたしな。学会すら日本でやらなくなったのか)」
「(驚くのは……このコメントの数と質…賛成であれ反対であれ、アメリカではここまで科学政策に意見をもってるやつが多いのか…)」
俺はそっとアメリカコンテンツページを閉じ、日本語メディアの「世界初の快挙!異分野で活躍する日本の天才たち」のコメント欄に再び戻る。
「同い年の日本人が世界相手に戦い、世界初の快挙を成し遂げて誇らしくなります。先日解雇されましたが、勇気をもらいました。定年まであと10年、頑張ります(^^♪」
のリプライにあった
「アメリカ生まれ、アメリカ育ち。両親、本人全員アメリカ国籍。日本語もしゃべれないし、日本に来たこともない。そんなヤツを日本人だとみなして、誇るような認知の歪みがあるやつは解雇されて当然だな」
とのコメントは「不適切なコメント」として削除されており、「再就職、頑張ってください!絆です!」「井上さん、日本食に感動して、来年から拠点を日本に移すそうですよ笑」「アジア諸国に当然のことを主張する政権に変わった瞬間にすぐノーベル賞。それどころか史上初の快挙。やはり日本経済の大復活も近い」「反日コメント消えててウケる」「日本のノーベル賞の技術がまた韓国に奪われないか心配」とコメントが盛り上がっていた。
部屋の外では、夜の東京の空に中国製のドローン配送の低いうなり声が響き、2125年の“普通”が
ゆっくりと塗り替わっていく音がしていた。
「人手不足対策」として導入されたAIもロボットも、中身はアメリカと中国のものばかり。少子高齢化による人手不足の結果、日本はアメリカや中国の製品を購入し、その代償として巨額の富が海外へ流出する。この「デジタル赤字」が国家の債務をさらに圧迫し、通貨の暴落を招き、人々をさらなるドル預金へと駆り立てている。負のスパイラルだ。
ふと、「非国民」と呼ばれていた高校時代の社会科教師の言葉が脳裏をよぎった。
『かつては人口が増えていたから、少子化対策など不要。かつてはロボット技術で最先端だったから、補助金など不要。……そうやって政治家は票田である老人の医療費に、国の富を全て突っ込んだのです。いや、政治家だけじゃなく社会全体が、過去の成功体験に胡座をかき、未来への投資を怠りました。そのツケが、今のこの国です。君たちは……どうか未来を見てください』
「未来…ね…」
給与明細書にある 「子ども未来税」を見る。この税金がいつから始まり、どのように使われていてるかなんてはっきりしらないが、どうやら相対的貧困ライン以下の家庭の子供に対する補助などに使われてるらしい。
俺は、「子ども未来税」の額の多さに、思わず口にだして愚痴をだしてしまう。
「貧乏人が子供産むなよ。 こんな未来のない国で子供産むなんて虐待みたいなもんだろ。そもそも子供なんているのか?いまの時代ってAIとの結婚を認めるかどうかを裁判で争ってる時代だぞ。お金がないなら、つつましく生きるべきだよ」
ミカは優しく微笑んで、「うん、あなたの言う通り。私は2人でも楽しいよ。」
「バカと貧乏人と障碍者が子供を産まないような法律が必要だな。」
俺はそういいながら、食器をシンクへ運び、インド製の超音波洗浄機のスイッチを入れた。
極少量の水が霧状になり、汚れを弾き飛ばしていく。
『水が100倍』。さっきのミカの言葉がリフレインする。
(ま、100年前に比べて凄まじいインフレをしてるんだ……水道代が100倍になったって、おかしくはないだろ……インフレ率を考慮して100倍だったら…いや、まさかな)
俺は蛇口に取り付けられた古びた節水キャップをぼんやりと見つめていた。
ふと再び何気なくスマート壁面パネルのニュースをみる。
「『もらえるものはもらおう』という日本人としての矜持がないやつらは、日本から出て行ったほうがいい」
与党の有力政治家が、イタリアブランドの生地で仕立てたオーダースーツを着て、主張しているニュース映像が流れる。
(…この政治家って「子ども未来税」の給付対象で問題にならなかったっけ?「政治家は選挙等で支出が大きく、実際は家計の収支はいつもマイナス」と説明してたな。手続き上に何ら問題はないが、誤解を与えてしまったから制度変更を検討するって言ってたけど・・・制度かわったっけ?)
彼の疑問を書き返すようなタイミングで、スマートパネルが再び明滅し、赤い通知を映し出した。
《重要:明日より『デジタル利用税(通称サブスク税)』導入開始。月額サービス一律3%の課税へ》
「……そういえば、明日からだったか」
俺は舌打ち交じりに通知を消し、ミカの方を見る。
「消費税がある上に、サブスクにも税金。二重取りもいいところだ。消費税が3%だったように、このサブスク税とやらも、どうせいずれ20%とはね上がっていくんだろ」
「ねえ、もう現実のニュースなんて見なくていいじゃん」
不機嫌な俺を察してか、ミカがソファに深く沈み込みながら、手慣れた様子でVRグラスを手に取る。ミカの古風な容姿とガジェットに詳しいギャップがたまらない。
「今日は何見る? ハリウッドの最新作、『いつものとこ』で見る?」
「いつものとこ」——それは海外の違法視聴方法の隠語だ。
正規の値段でドル建てのコンテンツを買うなんて、上流階級しかやっていない。犯罪だとわかっていても、俺たちはそこでしか夢を見られない。
「……最新作か。いや、パスだ。もっと古いのにしよう。2020-30年代のアーカイブがいい」
「うわ、また?」
ミカがVRグラスを少し持ち上げて俺を見た。
「ほんっとに『令和』好きだよねー。画質悪いじゃん」
「あのローポリ、ローファイな感じがいいんだよ。不完全さの中にある美ってやつ」
「人間は見たいものを見るからね。提示されてないと都合よく解釈するらしいよ」
「急に正論をいうなよ・・・とにかくこの時代の雰囲気が好きなんだ。今と違って、みんな『希望』とか『余裕』を持ってる感じがしてさ。「ゆうてなんとなるだろ」みたいな自信かな。……精神安定剤みたいなもんなんだ」
俺はさらに力説する。
「やっぱり、この頃は社会が穏やかだったから作品としても安定してるよ。今みたいに超排外主義とか超富裕層優遇論みたいな極端な思想が街中で暴れ回ることも、令和の時代にはなかったからね。社会も経済も政治もまともだった……俺は、平成や令和の『平和な匂い』が好きなんだよ」
俺は、100年前のアニメを再生した。 パッと壁一面に広がる、極彩色の東京。
商品で埋め尽くされたコンビニ。屈託のない笑顔。電気代を湯水のように使ってエアコンをガンガン効かせている室内。一家に一台、湯船があることを思わせるお風呂のシーン。
その「当たり前」だった光景が、今の俺にはファンタジーよりも輝いて見えた。
「うわ、見てこれ」ミカがアニメを指差して笑う。
「このキャラ、『お腹いっぱい』だからって本物のステーキを残してる。信じらんない。日本人なら米粒一つだって残しちゃダメなのに」
「飽食の時代ってやつさ。心が貧しい人間だったんだよ、昔の連中は」
ミカは画面から視線を外し、しんみりとした声で言った。
「時代ってこわいね」
場面が変わり、キャラクターたちが空港ではしゃいでいるシーンになった。
「え、わざわざハワイに行くのに、金属の筒の中で8時間も座ってるの? 正気?」
ミカが大げさに肩をすくめる。
「あはは、本当だ。非効率だよな。今はVRなら1秒でワイキキなのに」
「それに、リアルな海外って臭いらしいし、治安も最悪なんでしょ? VRなら、風の匂いも設定できるし、強盗に遭う心配もないのにね」
「しかもそもそも空港から出れないかもしれないんだぞ。入国審査で何時間も拘束されるケースもザラだ。日本人女性の場合は結婚目当てじゃないかと執拗に聞かれるとか」
「海外で働きたい女性は大変だねー。私は興味ないけど。この国はなんだかんだいって安全だし」
「ミカ、海外移住とかできるのか?日本語しかできないんじゃ?」
「失礼な!その気になれば、あらゆる言語を秒でマスターできんだからね!」
「ハイハイ」
「でも海外移住したいなら相当貯金しないとね」
「全くだ。今のレートじゃ向こうでコーヒー1杯とサンドイッチだけで3日分の給料とられるんだぜ?そんなボッタクリ、誰が行くかってんだ。ハワイでコーヒーとサンドイッチより、日本でおいしい水道水、うまい米と芋を食べたいね。」
「私も」
「お前は全然食わないだろ」
「スリムボディを維持するのも大変なの」
二人は笑い合った。
さっきまでの「インフレ率」や「買えない魚」の暗い空気は、コンテンツの光の中に溶けて消えていく。
エンディング曲が流れ終わる前に、ミカがふっと俺の頬に手を添えた。
「……もう画面、消していい?」 小さな吐息が耳にかかる。
(ああもう、そんな時間か……)と思いながら、俺は無言でうなずく。
VRグラスが外され、部屋が急に静かになる。
暗がりの中で、彼女の唇がそっと重なった。
最初は軽く、すぐに深く。
ミカの指が首の後ろを這って、ぎゅっと抱きついてくる。
冷たい指先が、妙に心地よかった。
どれくらい時間が経っただろう。
ソファの上で絡まったまま、俺は肩で息をしていた。
「……もう俺も若くないな。俺がこの時間にしようって決めてたのに」
自嘲気味に呟くと、ミカが小さく笑った。
「……ふふ、私もちょっと充電、減っちゃったみたい」
掠れた、甘えるような声。
ミカが俺の肩に頭を預けてきた。体をそっと抱き寄せると、彼女は小さく息をついて呟いた。
「ごめんね……少しだけ、このままでいてもいい?」
俺は答えの代わりに、彼女の髪をゆっくり撫でた。
「……ねえ」
暗闇の中、彼女がうとうとしながら言った。
「私たち、結構幸せだよね? 暖かい部屋で、こうして面白いもの見れるんだし」
彼は、ミカの髪を撫でながら、自分に言い聞かせるように頷いた。
触れた髪は人工素材特有のサラサラとした感触で、今の彼にはそれが唯一の温もりだった。
「ああ、そうだな。……旨い飯、最高のエンタメ、この絆と温もり。これ以上の幸せなんてない」
その時、壁の時計が日付変更を告げた。
時刻は0時。
その瞬間、ミカの瞳から、人間らしい光がふっと消え失せた。
愛おしげに俺を見ていたはずのその目は、一瞬にしてガラス玉のような無機質なものへと変わり、彼女は事務的な合成音声で告げた。
「本日から施行された『デジタル利用税』に伴い、利用規約が改定されました。サービスの継続には、3%の上乗せ価格での『再同意』が必要です。また人民元および米国ドル以外の手数料の改定についてもご確認下さい」
俺はゆっくりと天井を仰いだ。
虚空に投影されたホログラムの同意画面。
その最下部には、『先进技术共创股份有限公司』と明らかに日本語ではないロゴが冷徹に輝いていた。
狭い部屋に、俺の独り言だけが虚しく響く。
「……サブスク税、か。」




