第3話 スライム相手に全力の質量攻撃(オーバーキル)
湿った風が頬を撫でた。
目の前には、巨大な怪物の口のようにぽっかりと開いた、薄暗い洞窟の入り口。
この街で冒険者になった連中が最初に潜る「初級の洞窟」だ。
周囲には、真新しい革鎧に身を包み、ショートソードや木の杖を手にした十代の新人たちが溢れている。
顔には、これから始まる冒険への期待と、わずかな緊張。遠足前の学生みたいな浮ついた空気が漂っていた。
その中で、俺の姿だけが完全に浮いていた。
ホームセンターの特売で買った灰色の作業着上下。
足元は鉄板入りの安全靴。
頭には「安全第一」の文字と緑色の十字がプリントされた黄色いヘルメット。
そして背中には、剣でも杖でもない――赤錆が浮いた長さ1メートルのH型鋼。
そりゃあ、見られる。
「……なんだあれ。工事の人?」
「迷子じゃないか? ここ、ダンジョンの入り口だぞ」
「武器……なのか? ただの鉄骨に見えるけど」
すれ違う冒険者たちが、怪訝そうにヒソヒソ話す声が耳に入る。
無理もない。剣と魔法の世界に、1人だけ昭和の工事現場からタイムスリップしてきたみたいな格好をしているのだから。
だが、そんな視線を気にしている余裕はない。
一歩を踏み出す。
ズシッ……。
足が、重い。
まるで沼地を歩いているみたいに、地面に吸い付いて離れない。
これが「敏捷2」の世界か。
(おっそ……)
自分の体なのに、水の中を歩いているようなもどかしさ。
脳からの「歩け」という指令が、筋肉に届くまでワンテンポ遅れている感覚。
「……行くぞ」
歯を食い縛り、自分に言い聞かせて暗がりへ足を踏み入れた。
ズズズ……ガリガリガリ……。
H鋼の先端が岩肌を削り、不快な金属音が洞窟内に反響する。
筋力が32あっても、51キロの鉄塊が「軽く」なるわけじゃない。
重さは重さとしてそこにある。それを筋肉で無理やりねじ伏せて振り回しているだけだ。
入り口の喧騒が遠ざかると、肌に張り付くような冷気と、カビと土の匂いが濃くなってきた。
その時――前方の闇が、ぼんやりと青く光った。
ぷるん、とゼリーのような物体が地面を這っている。
スライム。
最弱の魔物。ゲームなら初期装備の棒切れで叩いて倒す、経験値稼ぎ用のサンドバッグ。
誰もがそう認識している存在。
……のはずなのに。
俺の目にはそれが、致死性の猛毒生物に見えていた。
速い。
スライムが体を伸縮させて、ぴょん、ぴょん、とこちらへにじり寄ってくる。
客観的に見れば、赤ん坊のハイハイより少し速いくらいだろう。
だが、今の俺には、その一挙手一投足が「迎撃不能な速度」に感じられた。
動体視力が追いつかないわけじゃない。
目で追えても、体が反応してくれない。
冷や汗が背中を伝う。ヘルメットの下で、こめかみがドクドクと脈打つ。
俺の耐久値は「3」。
あの酸性の粘液に触れれば、皮膚はただれ、少ないHPなんて一瞬で溶かされる。
作業着一枚の防御力では、触れられた時点でゲームオーバーだ。
逃げる?
無理だ。背中を見せて走れるほど足は速くない。あんなゼリーにすら追いつかれる。
来る。
スライムがギュッと縮み、弾丸のように跳んだ。
標的は、俺の足元。
避けられない。
スローモーションのように迫る青い粘液を見ながら、俺の生存本能が警鐘を鳴らした。
――防御も回避も捨てろ。
――殺られる前に、殺す。
「落ちろぉぉぉッ!!」
絶叫と共に、肩に担いでいた鉄骨を、前方へ倒れ込むように振り下ろした。
剣術もスキルもない。チャージも溜まっていない。
ただ、重力に任せて、51キロの質量を叩きつける。
……それだけだ。
だが、筋力43に向かう途中の「32」ですら、落下速度を異常にブーストしてくれる。
風切り音が、耳に届く前に置き去りにされる。
鉄塊が、スライムの頭上へと落ちる。
ドゴォォォォォォン!!
狭い洞窟内に、爆発音のような衝撃が轟いた。
スライムを叩いた音じゃない。
工事現場で巨大な杭打ち機が地面をぶち抜いた時の、あの地鳴りだ。
足元が揺れ、天井からパラパラと小石が落ちてくる。
衝撃波が作業着をバタつかせ、濃い土煙が巻き上がった。
「……は、ぁ、は、ぁ……」
鉄骨のグリップを握りしめたまま、荒い息を吐く。
やったか?
それとも、外して俺の足が溶けているのか?
心臓が破裂しそうだ。
土煙の向こうに目を凝らす。
やがて視界が晴れた。
そこには、見事なクレーターが穿たれていた。
硬い岩盤が蜘蛛の巣状にひび割れ、直径1メートルほどの穴。
その中心に、H鋼が深々とめり込んでいる。
スライムの姿は、どこにもなかった。
魔石すら残っていない。
圧倒的な質量の暴力で、文字通り「霧散」していた。
「……えっ」
自分の手の中にある鉄の棒を見下ろす。
スキルも使っていない。チャージすらゼロ。
ただ「落とした」だけ。
それだけで、生物1匹をこの世から完全に消し飛ばした。
《戦闘終了》
《経験値を獲得しました》
視界の端に、無機質なログが流れる。
その時になってようやく、周囲の異様な静けさに気づいた。
近くでゴブリンと戦っていた新人パーティが、今の爆音と地響きに驚いて動きを止めている。
彼らの視線が、俺と、地面の惨状を交互に行き来した。
「な、なんだ今の……?」
「スライム、消し飛んでねえか?」
困惑と、得体の知れない化け物を見るような恐怖。
その空気を裂くように、奥の暗がりから新たな影が現れた。
小柄な体躯に薄汚れた腰布。
手には粗末な木の棍棒。
ゴブリンだ。それも2匹。
スライムとは違う。
明確な殺意と「武器」を持った亜人。
「ギィ、ギャッ!」
奇声を上げながら、ゴブリンたちが駆けてくる。
速い。
……いや、客観的には遅い部類なのだろう。
近くの新人たちなら、あくびしながら対処できる速度だ。
だが「敏捷2」の俺には、それがオリンピック選手の全力疾走に見えた。
「くっ……!」
逃げ場はない。
背中を見せれば追いつかれる。
かといって、器用にステップで回避できる運動神経もない。
俺は冷や汗を垂らしながら、鉄骨を構え直した。
あの棍棒。普通の冒険者にとっては、ただの「痛いだけ」の武器だろう。
だが俺の体は紙細工。
あんな棒切れでも一撃もらえば骨が折れ、内臓が破裂して死ぬ。
絶対に食らえない。
「ギャアアッ!」
先頭のゴブリンが跳躍し、棍棒を振り上げた。
避ける? 無理だ。
目で追えても――体が反応しない。
俺にできるのは、重い鉄を、敵と俺の間に無理やり割り込ませることだけ。
間に合え……ッ!
半ばパニックになりながら、鉄骨を盾のように突き出した。
ガギィンッ!!
硬質な音が響き、手首に軽い衝撃が走る。
防いだ。
叔父さんが加工してくれたゴム製グリップが衝撃を吸収してくれたおかげで、手からすっぽ抜けることもない。
《チャージ+1》
視界の端にホログラムのログが流れる。
だが、見ている暇はない。
弾かれたゴブリンが、痺れた腕を抱えて一瞬だけ隙だらけになる。
今だ。
「退けぇぇッ!!」
鉄骨を横に薙ぎ払う。
鋭い剣技でも何でもない。
ただの、51キロの鉄塊による「押し出し」。
だが、筋力32(+α)が乗ったその一撃は、ゴブリンという種族の耐久限界をあっさり突破した。
ゴォンッ!!
鈍い音。
ゴブリンの体が「く」の字に折れ、そのままゴムまりのように吹き飛び、洞窟の壁へ激突する。
グシャリ。
濡れた雑巾を叩きつけたような音が響き、ゴブリンはピクリとも動かなくなった。
胸部は完全に陥没。即死だ。
「ギ……?」
もう1匹のゴブリンが、振り上げた棍棒を止めたまま硬直する。
目の前で仲間が一撃でミンチにされた。
その小さな脳みそでも、死の恐怖は理解できるらしい。
「ギィィィッ!」
悲鳴を上げ、踵を返して逃げ出した。
「逃がすかよ」
逃げる背中に向かって、鉄骨を突き出す。
リーチが違う。
1メートルの鉄骨が、逃げ遅れたゴブリンの後頭部を捉えた。
鈍い手応え。頭蓋が砕け、二匹目も糸の切れた人形のように崩れ落ちる。
「……はぁ、はぁ、はぁ……」
静寂が戻る。
その場に、へたり込んだ。
勝った。しかも、無傷で。
心臓がまだ暴れている。指先が震えて止まらない。
《戦闘終了》
《経験値を獲得しました》
システム音声と共に、目の前にドロップ一覧が表示された。
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【獲得アイテム】
・魔石(極小)×2
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「……装備品ドロップはなしか」
苦笑する。
あれだけ全力で叩き潰せば、棍棒もろとも粉砕されるのは当然だ。
スライムも跡形もなく消し飛んだし、回収できたのは魔石だけ。
死体が黒い霧になって消えたあと、地面にコロンと転がった、小指の先ほどの石。
泥を払って拾い上げる。
金額にすれば、数百円。
……でも。
これは、俺が自分の力で、命懸けで稼いだ最初の金だ。
泥にまみれたその石を、強く握りしめた。
《レベルアップしました》
《Lv2 → Lv3》
頭の中に、無機質なアナウンスが響く。
急いでステータス画面を開いた。
今の戦闘でよく分かった。
このままじゃ、いつか事故で死ぬ。
少しでもステータスを底上げしないと――
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【ランダム成長結果】
筋力(STR):+1
耐久(VIT):+0
敏捷(AGI):+0
器用(DEX):+1
知力(INT):+0
運 (LUK):+0
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「……ふざけんなよ」
思わず毒づく。
一番欲しい耐久と敏捷が全く上がっていない。
神様だかシステムだかは、本気で俺を筋肉ダルマにしたいらしい。
パッシブスキル【構造欠陥】の文字が、じわじわと腹立たしい。
だが、その下の表示を見て、息を呑んだ。
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獲得ボーナスポイント:10
獲得スキルポイント:6
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「……え、10ポイント?」
バグかと思った。
通常、1レベルアップでもらえるポイントは5ポイントのはずだ。
そこでようやく、病院でぶっ倒れた時のことを思い出す。
そうだ。
オークを倒してLv2に上がった直後、そのまま気絶して運ばれた。
あの時、ポイントを1つも振っていない。
つまり――
オーク戦の分と、今のゴブリン戦の分。
合わせて10ポイントが、丸々残っている。
10ポイント。
これを、好きなように振り分けられる。
指が、当然のように「耐久(VIT)」へ向かった。
今のVITは3。
ここに10振れば、13。平均的な一般人並にはなるだろう。
少なくとも、「転んだだけで即死」の世界からは卒業できるかもしれない。
……いや、待て。
空中で指が止まる。
本当に、それでいいのか。
耐久を10上げて、何が変わる?
ボス格の一撃を耐えられるようになるのか?
答えは、ノーだ。
紙がダンボールになる程度。
「ワンパン即死」が「ギリギリ即死」になるだけ。
じゃあ敏捷に振るか?
AGIが2から12になったところで、速い狼や盗賊の攻撃を避けられるようになるのか?
これも、ノー。
中途半端な回避力は、過信を生むだけ。
そもそも俺には、運動センスがない。
――なら、正解は何だ。
脳の奥で、別の声が囁く。
やられる前に、殺れ。
触れられたら終わりなら、触れさせるな。
圧倒的な質量と破壊力で、敵が「攻撃する」という選択肢を取る前に粉砕しろ。
「……これしかない、か」
覚悟を決め、震える指で操作する。
スキルポイントは、今はまだいい。
下手に変なスキルを取るより、基礎ステータスの方がマシだ。
重要なのは、この10ポイントの使い道。
《ステータス割り振りを確認》
《筋力(STR):+10》
《確定しますか?》
「確定」
タップした瞬間、体の奥底からマグマのような熱が噴き上がってきた。
ただでさえ異常だった腕の筋肉が、さらに密度を増してミチミチと軋む。
背中の51キロの鉄骨が、さっきよりも、はっきりと「軽い」。
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名前:竹内 涼太
Lv:3
筋力(STR):43
耐久(VIT):3
敏捷(AGI):2
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筋力43。
レベル3にして、その数値は中堅冒険者の主力タンクさえ視界に捉えかねない数値だ。
その代わり、耐久は3のまま。
相変わらず、小石につまずけば死が見える虚弱体質。
「いいさ。望むところだ」
鉄骨を肩に担ぎ直す。
さっきよりも、ずっと自然に、ずっと楽に構えられた。
狂っている自覚はある。
けれど、この歪んだ強さだけが――
俺が家族を守るために、選べる唯一の「武器」だ。
暗闇の奥を見据え、重い足音を響かせながら歩き出す。
もはやスライムも、ゴブリンも、恐怖の対象じゃない。
ただの――粉砕して進むための、安い障害物だ。




